理尊主義に学ぶ、普通の正体・善悪の本来。
普通ってなんだろうか?
ふと、俺はそんなことを考えた。
普通。
辞書には、いつでもではなく、ほとんどそうである様、大抵と説明されている。
なんとも曖昧だ。
曖昧。抽象。非具体的。
特別ではなく、一般であり、かつ他と比べて特に変わらない。
いつでもどこにでもあって、珍しくない事や様。
……やっぱり、世界って自分の認識が、その世界の一般を決めているのではないだろうか?
例えば、それが俺だったとしたら、普通の中に常識という言葉が常に含まれている。だが、友人は常識と普通は違うものだと考えている。
それが普通だと、当たり前だと思って生きてきたからだ。
彼に言わせてみれば、常識というのはその人生で得た教訓という意味が常に含まれていた。
だが俺はどうだろうか。
俺は常識と言えば、誰もが持っていて当たり前だろう、と勝手に決めつけている知恵や知識のことを指している。
……やはり人間では不便だな。
例えの対象を変えよう。
例えば、ウサギ。
彼らは耳で体温を調整することが普通だ。故に、汗をかくことはない。
だが対してカバはどうだろうか。
彼らは皮膚から汗の様なものを流す。
それで体温を調節したりもするだろう。
それがその生活で得てきた、普通だから。
勘のいい人は、ここで俺が言いたいことは全てわかったと思う。
つまりこれは、同じ人間という種の中でも適応される。
ある民族は牛の血を飲む。
またある民族は人の肉を食べるし、また他の民族は生きたままの昆虫の幼虫を食す。
我々の普通では考えられないことだ。
……さて。ここで考えてほしい。
私たちの言うところの普通や常識とは、いったい何者なのだろうか?
普通。常識。当然。
昔から人のものを盗って生きていくことしかできなかったスラムの人たちは、おそらく大人になってもそれが普通なのだから、常識なのだから、習慣なのだから、それを疑うことはないだろう。
一方で我々日本人はどうだろうか。
いやね、盗むことが良いこととは言っていない。
ここから見いだされることに気づく人は、少なからずいると思うが、この世の中に本来善悪は存在しないのだ。
人というものは、その常識や習慣、所謂公的な普通によって、善悪を決めて──いや、ここではあえて決めつけていると言おうか。
人は、普通という言葉に遊ばれている。
普通という言葉を介して、人は善悪を決めつけている。
殺さなければ自分が死ぬ世界に、もし我々がいたとしたら、この世界の善悪はどうなっていただろうか。
殺し殺されが常識なら、きっとその行為は罪に問われなかっただろう。
きっと、自分の外の人間が言う、意味のわからない普通というのは、そういうことなのだろう。
自分はその世界しか知らないから、いや、その世界で生きてきたから、それが一般的なものだと、普通だと思い込む。
──そろそろいいだろう。結論を言おう。
この世界に善悪は無い。善悪もなければ、普通や常識もない。あるのはただ自分の認識によって得られた教訓がなす、途方もない強い暗示だけだ。
だからきっと、君たちは思うだろう。考えるだろう。いや、もしかしたら、これは俺の勝手な思い込みで押し付けなのかもしれない。
だがあえて言わせてもらおう。
──君たちは、自分の常識を見失いかけてないかい?