主人公と妹のすれ違いパート
家に帰り着いた頃には、既に時計の短針が指す数字は七となっていた。
既に、彰人を除く、全員が夕食を食べ終えていて、テレビを見ながら談笑していたが、彰人が帰ると、琉璃が烈火の如く彼を叱り、それを両親がほほえましく宥めた。
誰が言い出したかは敢えて言わないが、一人で食べるのも可哀相だからと、結局四人で食卓につくことになり、彰人は、向かいに座る父、信治に「引き篭り同然だった我が息子も夜遊び(時間的に?)するようになったか」と、何故か喜ばれ、隣の琉璃にはがみがみと怒られ、その琉璃は「琉璃は彰人と食べたかったのよね」と、母の恵美に揶揄われて、テンパったりしていて、終始賑やかで、和やかな夕食となった。
だからといって、今日が特別に賑やかだったというわけではなく、これが普段の夕食の風景である。
ただ、彰人が琉璃に怒られているのか、彰人と琉璃が揶揄い合っているかの違いである。
彰人は、そんな賑やかな食卓が嫌いではなかった。というか、好きだった。時々ではあるが、いいネタが浮かぶときだってあるのだ。
だから、この時間を彼は大切にしているのだが、今夜だけは予想外な展開で狂わされたのだ。
彰人は、その賑やかな夕食を終えて、芳子の仏壇に夜の挨拶をしてから自室に戻った。
制服を取り敢えず普段着に着替えて、どかっと、回転椅子に腰を下ろした。
すぐにはコンピューターを起動させず、その黒い画面を眺めていた。
ネタ帳がなくとも何時もならば、少しは覚えているものだが、今日は運悪く、寝てしまい、その辺りの記憶がすっぽりとなくなっていた。苦しんでいた描写を解決できたような判然としない感覚は残っていた。
「くそっ……。見てどうするつもりなんだ、三嶋の奴は……」
それだけにネタ帳を奪われているのはかなり悔やまれた。
まさにクライマックスの部分で、すぐにでも続きを書きたかったにも拘わらず、ネタ帳をみすみす奪われたという、自分の不注意を怨むと共に、栞の目的がわからないことに託つけて、彼は栞にあたった。
そんなときだった。
コンコンッ、という小気味のいい音と共にドアがノックされた。
「鍵なら開いてるぞ」
それに彰人は既に気付いていたかのように言った。
というか、実際に危機感知能力でドアの前に誰かが現れたことには気付いていた。
彼自身は気付いていないが、かなり人間離れした業、というかスキルである。
彰人の返事に答えるようにドアがおもむろに開いて、少しムスッとした顔の琉璃が入ってきた。
「なんだ、まだ怒ってんのか?一緒に食べられなかったことは、これから気をつけるからって謝っただろ?」
流石にその気配が誰のものか迄はわからない彰人は、その珍しい来訪者に驚き、来訪者の方に回転椅子を回転させるようにして向き直った。
琉璃は、思春期という避けられない関門を迎えてからというもの、兄の彰人を意識し始めたのか、小学生のときはべったりだったのが、今では一定の距離を置くようになったのである。
別に仲が悪くなったというわけではない。彰人を起こす当番は、小学生のときからいまだ継続しているし、時々揶揄い合うぐらいには仲がいいのだ。ただ、琉璃は彰人に対する接し方、というか彰人との距離を測りあぐねているのだった。
彰人を兄と見ていない自分に漠然と気付いている――というわけではなく、それが漠然とし過ぎていて、琉璃にはただの違和感としか感じられていなかった。その違和感に、琉璃は無意識のうちに彰人と距離を置いていたのだ。
というか、実際に血が繋がっていないのだから、彰人を兄と見れない琉璃が存在するのも頷けるもので、驚くことではないのだ。
それを承知しているのか、いないのかは判然としないが、彰人は何か言うわけでもなく、ただ成り行きを傍視している。距離が縮まれば、それはそれでいいし、変わらなかったり、更に広がることになっても、それも致し方ないだろう、というのが、彼のスタンスだった。
良く言えば、放任主義。悪く言えば、冷たい。ということだろう。
「それは、違うって言っているでしょっ!!別にお兄ちゃんと食べられなかったから怒っているのじゃないっ!!お兄ちゃんが自分の言葉通りに帰ってこなかったこと、自分の言葉に責任を負っていないことを怒っていたのっ!!」
彰人の何気ない言葉に怒りを爆発させるのは、動揺の裏返しなのは明白だったが、彰人だけでなく、琉璃自身も自分の動揺に気付いていなかった。
琉璃の彰人との距離調整が完了を見るのは、ずいぶん先になりそうだ。
「ていうか、私が来たのはそのことでじゃない!」
「うん?だったらなんなんだ」
「うっ…………そ、その……あの……」
急に言葉に詰まる琉璃だったが、
「…………………………??」
彰人の意図していない無言の圧に耐え切れず、
「お!お兄ちゃんから!新しい女の匂いがするのっ!!」
と、早口で用件を言って、顔を紅潮させて俯いた。
「………………………………………………………………はぁ?」
彰人は、十分な時間、琉璃の言葉を反芻してから、気の抜けた疑問の声を零した。
「だ、だから!お兄ちゃんから!私の知らない女の匂いがするの!」
「いや、別に聞き漏らしたとか単語の意味が理解できなかったとかじゃなくて、純粋にお前のおっしゃっていることがわからない。新しい女の匂い?そんなの匂うのか?」
彰人は立ち上がり、クローゼットのハンドルにかけている制服を手に取り、顔に近づけた。
――うん、普段からどんな匂いなのか、わからねえが、特別何か匂うわけでもない。
「とにかく匂うの!」
首を傾げた彰人に琉璃が強弁に主張した。
「……あっそう」
しかし、いや矢張りと言うべきか、彼の疑念は払拭されなかった。
「じゃあ、匂うとしよう。それが、神崎先輩の匂いじゃないという確証はあんのか?今日神崎先輩と会っているしな」
「うぅぅぅぅ。神崎さんの匂いではないのは確かだよ。それに、柊さんのでもない」
確証はあるものの、それを示せる証拠がない琉璃は苦し紛れに言った。
彰人にとって、まるで説得力がない。
が、勿論、心当たりがないわけではない、余りにもある。
だから、荒唐無稽として琉璃の言っていることは無視できるものではなかった。どうやって嗅ぎ取ったのかはわからないが、これからは気をつけなければならないかもしれない、と考えた彰人だったが、根本的なことに彼は気付いた。
「ていうか、それがどうしたんだよ?俺は何か悪いことをしているわけじゃねえはずだろ」
「…………ふ~ん。だけど、新しい女と会っていたことは肯定するんだね」
言質を取るように言う琉璃からは、先程までの動揺を窺えなかった。優位に立てて、落ち着いたのかもしれない。
「だから、それがどうしたってんだよ?」
しかし、彰人も開き直ったからなのか、平然としている。
「わ、悪いに決まっているでしょっ!」
それが、気に喰わず、琉璃は声を荒げて喰って掛かった。
「何が?」
「何がって…………うぅぅぅぅぅぁあっ!!お、お兄ちゃんには、あたっ…………」
しばらく言葉に窮し、唸っていた琉璃だったが、覚悟を決めて言葉を続けた。
が、言うつもりもなかったというにも拘わらず、思わず『あたし』と口走りそうになって、慌てて口を噤んだ。
琉璃は、自分でも訳がわからず、動揺の域を越えて、混乱していた。秀才と呼ばれる琉璃の頭脳が用を成していなかった。
「俺には……なんだ?」
そんな琉璃に彰人は不審の念を抱かざるを得なかった。
「お兄ちゃんには!!柊さんがいるでしょっ!!」
兄の声に耐え切れずに琉璃は、その源泉もやり場もわからない怒りを爆発させた。
「はっ?どうして、そこであいつが出てくんだよ!」
流石の理不尽さに彰人も語気を強めた。
「ああっ、もう知らない!!うるさい!!」
「お前が言い出したことだろうが!」
「うるさい!!うるさっいぃぃぃぃっ!!!」
「さっきから同じことばっか言ってんじゃねえぞ!」
「うるさい!!うるさい!!うるさい!!うるっさぁぁいっ!!もう、いいしっ!!お兄ちゃんなんて、死んじゃえばいいのに!!!」
怒りが怒りを呼び、口喧嘩がエスカレートしていき、理性を失われていく。
だから、秀才と言われているものの、まだ中学生で、更に思春期で不安定な琉璃が、禁句とも言えるべき言葉――『死んじゃえばいいのに』――を放ってしまったのは、仕様がないのかもしれない。
何故禁句なのかは言うまでのことではないが、敢えて言うと、家族一人一人が既に一人失っていて、家族で合わせれば二人失っているためだ。
だから、死という言葉に関しては人一倍敏感だったのだ。
とは言っても、信治と恵美は気にしているわけではなく、彰人と琉璃が勝手に二人で禁句と取り決めているのだった。
「あっ…………」
それを思い出して、琉璃は、怒りがみるみる冷めていくのがわかった。
それとは対照的に、琉璃の前にいる彰人は、鬼も斯くやと思われる形相で琉璃を睨め付けていた。
その目はまるで母を奪った犯人を見るような怒りに満ちた目だった。
臍を曲げたり、剥れることは良くある彰人だったが、父からの遺伝か、心底から激しく怒ることはかなり珍しかった、というか、滅多に怒らないために、怒りが頂点に達したときの怒り方が、溜め込んでいたものを発散するように、ダムが決壊したように激しいのだった。
とは言っても、暴れるのではない。マグマを煮え滾らすように静かに怒るのだ。
「もう一度言ってみろ」
彰人は表情を崩さないものの、至って穏やかな口調で言った。今朝のような妹の尻に敷かれていたときの面影など皆目なかった。
「ご、ごめんなさい…………」
琉璃は到底目を合わせることなどできず、俯いて、消え入るような声で言った。心なしかその声が鼻声に聞こえた。
「誰が謝れと言ったんだ」
彰人は語気を弱めるどころか、強めて言った。
「ごめんなさいぃぃ…………」
それに呼応するように琉璃は声をか細くさせた。頬にも二筋の涙が伝っていた。
「お前は日本語がわからないのか?頭がいいんだろ?」
それでも彰人は責め立てた。
怒りで理性を失っているようだった。
「ごめんなさいぃぃぃぃぃうぅぅぅぅぅ」
「泣いて許されとでも思って――」
ついに泣き出した琉璃に彰人が声を荒らげようとした――そのときだった。
「そこまでだ」
何時の間にか、彰人の背後にいた信治が彰人の肩に手を載せたのだ。何時もの彼なら気付いていただろうが、今の彼、我を忘れていた彼には背後に立たれても気付けていなかった。
それで、我に返った彰人は泣きじゃくる琉璃を前にして自分のしたことを思い出して信じられないように固まっていた。
そして、まただ、と心の中で呟いた。
「二人とも疲れているのだろう、ほら、琉璃、こっちに来なさい」
そう言って信治は琉璃を優しく抱き寄せて、ドアの方に歩き出した。その間、琉璃は泣きながら、信治にされるがままになっていた。
「彰人も早く寝るんだ。徹夜続きだっただろう」
信治は去り際に彰人に振り返って言った。それは、言外に、徹夜して疲れるのは勝手だが、それで人に当たるようなことは止めろと言っているようだった。
無論信治は怒っているわけではないが、彰人にとっては怒られたも同然だった。
回転椅子に倒れるようにして、腰を下ろした彰人は項垂れたまま動かなくなった。
恵美に風呂に入るように言われなければ、ずっとそうしていたのではと思わせるほどに。
彰人は風呂を手早く済ませると、誰にも顔を合わせないようにして、自室に戻り、コンピューターなど視界に入れることもなく、ベッドの布団に潜り込んだ。
しかし、彼は寝りにつくことはできなかった。