優等生紹介&主人公との出会いパート
クレープ店での地獄のような時間をどうにか切り抜け、家に帰り着いた彰人は、遅れを取り戻そうと、制服を着替えることなく、早速パソコンに向かった。
そして、ネタ帳のメモ帳を取り出そうと、鞄を探った。
「うん?」
が、なかなか見付からない。
鞄を思いっ切り引っ繰り返し、内容物を散蒔《ばらまい》ても、その中にはメモ帳の姿はなかった。
というか、
「ネタ帳なくした!?」
ということだった。
「やべえ!!どうしよう!あれには色々書いてるし、誰かにでも見られたら!!いや、こういうときこそ落ち着け!」
半狂乱で独り言を口走る彰人。
自分ではしているつもりのようだが、全然落ち着けていない。
「落とすとしたら、教室か!ネタ帳を取り出すのは、教室だけだしな…………。他の心当たりのあるところはないし……取り敢えず、行くしかねえか!」
空になった鞄を引っ手繰るようにして掴み、肩から提げると、都合よく制服を着たままだったので、そのまま部屋から飛び出していった。
「彰人、今からどこに行くの?」
台所で夕食の準備をしていた恵美が、学校のときにしか外に出ない彰人が急いで出掛けようとしていることを不思議に思い、その行き先を訊いた。
その声音には少し心配の色が窺えた。もしかしたら、彼から感じるただならぬ気配に気付いたのかもしれない。
「学校に忘れ物したから、ちょっと取ってくる!夕飯の前には帰れると思うから!いってきます!」
恵美に返事しているうちに靴を履き終えた彰人は、そう言って玄関を出た。
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校門に着いたのが、家を出て、十五分後の五時半前。
夕日は、辛うじて頭を覗かせているぐらいで、空は殆ど暗い青に染められ、既に街灯の明かりが灯っていた。
日頃から運動など全くと言っていい程しない彰人にとって、十五分間のランニングは辛過ぎた。しかも、後先考えずに初めから爆走したために、途中から持たないと気付いてペースを下げたものの、校門に着いたときには、立っていることすらぎりぎりの状態だった。
笑う膝を押さえて、彼は校門を潜り、未だに明かりの灯っている教員室に向かった。
教員室に辿り着いて、何か悪いことをしているわけでもないというにも拘わらず、そろそろと入り、中を覗いた。
中を見回すと、担任の姿があったので、声を掛けた。
「せ、先生、忘れ物があるので、教室の鍵を取りに来たのですが……」
「うん?教室なら開いているはずだぞ?確か、三嶋がまだいるはずだ」
「えっ?忘れ物ですか?」
彰人はまさか他に忘れ物をしている者がいるとは、ましてやその人物が優等生として名高い三嶋とは思わなかった。
三嶋、本名を三嶋栞、は父が日本人、母がヨーロッパの人らしく、その血が濃く出ている彼女の美貌は、彰人のクラスどころか、学校の全ての女子生徒など霞んで見えない程のもので、成績も必ずベスト10入りしている。まさに『天、二物を与えず』に全力で反逆している人物だった。
その栞は、男子からは彼女にしたい女子ランキングの不動のNo.1(余りの美貌に近寄れず、実際告白されることはないが)、女子からは羨望と嫉妬の対象となっている。
「三嶋に限って忘れ物のわけないだろう。放課後からいたが、自主勉強だそうだ。この時間まで偉いことだ。見習えとは言わんが、邪魔だけはするなよ。ったく、授業を聞いてないというのに、なんでお前が欠点を取らないか不思議だよ」
『それは何故か試験の日程を把握している妹が、必ず試験前になると俺に地獄の補修を決行するからですっ!!』とは、口にできない彰人は、
「……へーい」
と、だけ言って教員室を後にした。
――しかし、こんな時間まで学校で自習とは狂っているのか?隣の席だから嫌なんだけどな。
と、彰人は、勝手に自分の(狂った)秤で以って栞を計り、心中で愚痴りながら、教室に向かっていた。
彼の言葉通り、栞の席は彰人の隣だった。
そのことで、彼は少し嬉しくはなるが、言ってみればそれだけでだった。
それは、彼が二次元で満足していたからである。
というのも、彼が脳内自称ラノベ作家に変貌したのは二次元への羨望の念に起因していたのだ。
彼がラノベを初めて読むのは、弱冠小学五年のときだったのだが、一瞬でその虜になってしまったのである。
小学生を卒業し、中学に上がる頃には、既に名のあるラノベは読破していて、中学になってから読みはじめたクラスメートからは『大賢人』と呼ばれ、師事されていたほどだ。
ラノベが乱立していなかったときだとは言え、中学生になってほぼ全てのラノベを読破するという偉業を達成したために矛先を失った膨らみに膨らんだ飽くなき欲望は、彼に筆を握らせることになった。
彼は、欲望の赴くままに幻想を字に変換して、物語を編み上げていった。
そして、二次元にのめり込むうちに、彼は三次元とも関わりを少なくさせていき、あるとき二次元だけで満たされている自分がいることに気付いたのだった――三次元に魅力を感じない自分に気付いたのだった。
それからは、大切な家族と親戚、それと小動物感溢れる幼馴染みに男気溢れる先輩以外の三次元の住人との関係を煩わしいとさえ感じるようになった――とかなんとか。
だから、隣が天使と見紛う美貌の女子だったことには一抹の喜びしか感じなかった。
そんな彼は、栞と隣席になれなかった男子から怨みがましい目で見られていたが、彼に手を出す者はいなかった。
それは、彼があの神崎薫に可愛がられている(?)下部Aとして認知されているためであり、手出しするとどんな報復措置が待ち受けているのかわからなかったために他ならなかった――そんなことに本人は気付いていない、というかそんな視線を向けられていることすら気付いていない。
まあ、それはさておき、閑話休題。
彼は栞が隣で自主勉強している中、ネタ帳を探さないといけないのかと思い、少しばかり憂鬱になりながらも、教室に辿り着き、開いているだろうと思った前の方の引き戸に手を掛けた。
「ん?」
が、予想に反して、引き戸は、がたっ、と音を立てただけで、開かなかった。建て付けが悪くなかったはずだが、と思いながら少し引き戸をがたがたさせたが、やはり引き戸は開かなかった。鍵が掛かっているようだった。
引き戸の向こうにいるであろう栞は、引き戸をがたがたさせている何者かをどう思っているのかと思うと、彰人は恥ずかしいやら心配やらで少し冷静さを失った。
――もしかして不審者対策?
と、思い立った彼は、自分が何者かわかってもらって、中から開けさせようと、隣の窓から中を覗いた。
だがしかし、中を覗くことはできなかった。
カーテンが掛かっていたのだ。
それも、ただのカーテンではない。
近代化の波に呑まれて彼の通っている学校はプロジェクターを去年に各教室に設置したのだが、室内を暗くするための暗幕も張り巡らされたのだ。
その暗幕が引かれていたのである。
しかも、隙間から見るに、部屋の明かりは消されている。
――誰もいないのか?………………うん?
窓に張り付くようにして見付けた隙間から中を探っていた彼の目に何かが映った。
それは人影だった。
向こう側は暗幕を引いていないらしく、カーテンから漏れる僅かな月光を背景にその――シルエットから女子だと推定される――人影が、存在に気付いて欲しいかのようにこちらに両手を大きく振っていた。
何かを伝えようとしているのか、と思った彰人は、
「どうしたんだ?」
と、窓の向こうに聞こえるように少し語気を強くして訊いた。
すると、それに答えるように人影は、彰人から見て、左の方を指差した。
「?」
その意図するものが理解できなかった彰人だったが、そちらに目を向けると、後ろの方の引き戸があった。
後ろの戸口から入れ、ということだろうか、と判断した彰人は、そちらに行き、引き戸に手を掛けた――まま少し固まった。
――なんで、前の鍵を掛けて、後ろは掛けてねえんだ?というか、何で明かりがついてねえんだ?あの暗幕はなんなんだよ。向こう側は暗幕引いてねえし、暗くするためっつーより、隠すためなのか?
そんないくつかの疑問が一瞬で彼の脳裏に過ぎったのだ。
――まあ、いいか。
しかし、彼はそれを重く受け止めず、ネタ帳を探す方が優先すべきだとして、疑問の解消を放棄した。
引き戸はすんなりと開いて、彼は中に一歩踏み入れた。
中は真っ暗とまでは言わないが、光源が月明かりだけで、薄暗かった。
既に闇に目が慣れていた彰人は、明かりをつけてもらおうと、人影を探した。
「うん?」
だが、先程までいた場所に人影はなかった。
まるで幻だったかのように。
――おいおい、冗談じゃねえぜ。お化け?ははっ、そんなもの信じてたときもあったよ?だけど、俺はもう高校生だぜ?高校生だというのに墓場でお化けに怯えてきゃっきゃっ言いながら女子と密着して肝試ししてんのは、二次元のリア充共だけだろ!三次元の高校生の俺が、お化けなどという、人間の恐怖心の産物に怯えるなど、有り得ねえし!ははっ、ほんとに冗談きついぜ。
と、完全にテンパっていることをごまかそうとしていた彰人に、追い撃ちを掛けるようにそれは起きた。
「なっ!」
突然教室の天井に設置されたプロジェクターから光が放出されたのである。それは、画像ではなくただの白色光だった。
目が闇に慣れた彰人にはそれが眩しかったために、直視するのに少しの時間を要した。
「…………そこで何をしているんですか、三嶋さん?」
やっと目が慣れた彰人は、驚きと不審感を隠そうとしない声音で栞に訊いた。
彰人の言った『そこ』とは――教卓の上だった。
優等生こと三嶋栞は、両手を腰に当てて、高校生にしては小さい双丘を強調するように胸を張って、プロジェクターの投射した横長の四角い光に囲まれるように――教卓の上に立っていた。
その光景はどこか、『アイドル・ナウ・オン・ステージ』みたくなっていた。
ブロンドが鮮やかな髪は、プロジェクターから放たれた光を吸収して、柔らかな反射光を発していて、雪のように白い肌は白磁のような滑らかさを感じさせた。
「何って?あなたを待っていたに決まっているじゃない」
そんな栞は態度を裏切らない上からな口調で言った。
「いや、そういうことじゃないですけ…………って、え?……俺を?」
今度は驚きと困惑が彰人の声音に滲んでいた。
「そうよ、光栄に思いなさい!私を待たせることができるのは、精精赤信号よ!」
「……………………」
「……………………(ち、ちょっと!う、受けてないじゃない!ど、ど、どうしよう!すごく恥ずかしい!!)」
「……………………」
栞は、反応を待つようにしばらく彰人と見詰め合った後、完全に心の声を吐露しながら、恥ずかしさに頭を抱えて、蹲った。
それを彰人は、どこか悟ったような遠い目で見ていた。
「くっ、ど、どうして何の反応もしないのよ!」
「いや、なるほど確かに面白かったんだけどさ、タイミング考えようぜ、な」
回復した栞は立ち上がり様に、身勝手に彰人を責めた。
しかし、その呵責を何ともないように、彰人は躱した。自分よりもずっと人間的に優れているだろうと考えて口調を遜ったものにしていたが、それも普段のものに戻していた。
「それとな、俺とお前は冗談を交わすような仲ではないからな」
そう言って、これはこれで御終いと言わんばかりに、彼はネタ帳の捜索に取り掛かった。
「ちょっ、ちょっと何無視してるのよ!!」
「何かめんどくさそうだからだよ。というか、もうめんどくせえんだよ、お前。お前ってそんな奴だったっけ」
彰人の態度に腹を立てた栞に彰人は、平然と傷つくような言葉をずばずばと放った。
だが、彼の言い方は別として、彼の知っている栞の振る舞いは、実際に、今見せている振る舞いからは掛け離れていた。
誰にでも優しく、笑顔を振り撒いていて、誰もが認める美貌を持っているにも拘わらず、付け上がらず、いつでも遜った振る舞いをしていた。
その栞が、この有様である。
これが、本性なのだろう。
彰人にこう言われるのも致し方ないのかもしれない。
「ぐっ、うぅぅぅぅ」
彰人の言葉に打ち抜かれたように栞は苦しみながら膝をついた。
ちなみにまだ教卓の上にいるので、スカートの中の蝶々結びのピンクのリボンが配らわれた純白の何かがちらっと見えていたりしたが、彰人は以前の経験から学んで何も言わなかったし、見えてもドギマギもしていなかった。
彰人は三次元の物にはドギマギというか、萌えないのだ。
重症な程に二次元に侵されているのだ。
今回はそれが幸いしたが。
「私にそんなことを言っていいのかな、桐塚君?」
これしきのことで、と言って立ち上がった栞の手には一冊のメモ帳があった。
「ん?…………それは!俺の!!」
「そうよ、あなたの命より大事にしているメモ帳よ!」
そう言って栞は彰人のネタ帳を突き出した。
「くっ……それをどうするつもりだ!」
「さあ、どうしようかしら?あなたが私に逆らわなければ、手を出さないであげるけれど?」
興に乗ったのか、栞は平静を取り戻し、上からな態度を復活させていた。
「何が望みだ!」
「ふっ、従順になったわね。さあ、何をしてもらおうかし――じゃなかった。この中身は全部読ませてもらったわ」
興に乗りすぎて目的を忘却していたことに気付き、本題に戻る栞だった。
「な、中を読んだのか?」
彰人はというと、栞の言葉に衝撃を受けて茫然自失の態だった。
しかし、取引材料にしているのだから、中を読んでいるに決まっているのだ――が。
「ええ、最初から最後まで全部読ませてもらったわ――だけれど」
「だけど…………?」
「ほとんど何が書いてあるかわからないじゃない!!」
栞は怒りに、だん、と教卓を踏み付けた。
「はっ?」
「『はっ?』じゃないわよ!何これ?これはどの文明の字なのよ、というかこれって字なの?!しかも、殆どが線で塗り潰されて読めないし!」
栞は、メモ帳を開けると、適当なページを開いて彰人に突き出した。
確かにそのページに書かれている字は殆ど荒々しく引かれた線で塗り潰されていて、塗り潰されていない字はあるものの、ミミズがのたくったような字で、間違っても字だとは判別できないだろう。
ちなみに線で消されているのは、気に入らなかったネタであり、それを意味するものは、彼が自分の思い浮かんだネタを殆ど却下しているということだった。
かなりストイックだった。
「そうか?」
「読めないわよ!読める人がいるなら連れて来てみなさいよ!だけど、この際いいわ。できるところまで解読した結果、これがネタ帳とわかったから――ライトノベルと呼ばれる書物用のね」
「…………そんなものを書いているとばらされたくなかったら中身を教えろ、とでも言いたいのか?」
自分で言っていて、これはないだろうと思っていた、優等生の三嶋栞が自分のネタ帳など読みたいなどと思うのはあまりにも自意識過剰というものだと、思ったが、
「半分あっているけれど、半分違うわ」
期せずして、中らずと雖も遠からずのようだった。
「ん?」
「これをネタに脅すつもりではあるけれど、これじゃなくて、本文の方を読ませてほしいのよ。当たり前じゃない。誰がネタ帳で済ませると思うのよ」
「はっ?」
栞の言葉に彰人は、戸惑い一瞬言葉を詰まらせた後、
「できるか!そんなこと!」
と、叫んだ。
「別に良いのよ?あなたの秘密が衆目に晒されてもね」
だが、栞の答えは至って冷静なものだった。
「くっ」
クラスメートにばれるのは構わない。
だが、それは幼馴染みや先輩だけに限らず、遅かれ早かれ、家族の耳にも届くことを意味するのだ。
それは、彰人にとって一番避けたいことなのだ。
しかし、栞に作品を見せるのも同じ結果になるではないかと、思い、決断を渋らせていた。
「私の言う通りにすれば、私だけの秘密にするから、心配はいらないわ」
そんな彰人の心中を知ってか知らずか、栞は言った。
「それを信じろというのか?」
「あなたには選択権はないのよ」
「くっ…………わかった…………明日で良いか?」
彰人は観念したように諦念の色を呈した声で言った。
栞の言う通り、彰人には選択権はなかった。
「いいわ。明日、楽しみにしているわ」
満足したのか、栞は、鷹揚に頷くと、教卓から身軽に飛び降りた。
「これは明日まで預からせてもらうわね。プロジェクターと戸締まりは頼んだわよ」
そう言い残すと、男子ならば色めき立つ(勿論彰人は色めき立たない)こと必至の笑みを浮かべて、教室を去――ろうとしたが、前の方の扉に鍵を掛けたままだったためにできなかった。
先程の彰人がしたように、少しの間苦闘した末に気付いた栞は、鍵を外して、扉を開けた。鷹揚な振る舞いが台なしになり、恥ずかしくなった栞は、見られていたかの確認の意を込めて、キッ、と彰人を睨め付けた。
だが、彰人は目を逸らさず、真っすぐにその目を見詰め返しただけだった。見ていないように取り繕うことはまるで考えていなかった。
そして、しばらく見詰めた末に一言。
「お前って実は馬鹿か?」
それが止めとなり、栞は羞恥心にかられて走り出していってしまった。
それを見送った彰人は、一人、静かに嘆息するのだった。
「あれが、優等生なのかよ」と、漏らしながら。
そして、自分の作品にそれほどの価値があるのかと、疑念を抱きながら。