主人公と幼馴染みと従姉妹と妹の外出パート
日時は四月二十七日土曜日の午前八時半。
空は清々しいほどに晴れ渡っている。
そんな晴天の下、歩いているのは彰人、千鶴、マユと琉璃。
黒のTシャツに黒のパーカーとジーンズの彰人は執筆活動で徹夜をしたわけでもないにも拘わらず、眼の下に深い隈を作っていた。
そして、彰人に髪を梳かれながら前を歩く千鶴の服装は、色とりどりの流れ星がプリントされた白のTシャツに赤のチェック柄で膝上までのプリーツスカートという明るめのコーディネートなのだが、千鶴は部外者二人の存在が疎ましいようで、不機嫌そうな顔をして、台なしになっていた。
そして、彰人の左隣りを歩くマユの服装は、くるぶしまである純白のワンピースの上に薄手で長袖の白いカーディガン、そして麦藁帽子を白く染めたような鍔が広いフェルト帽だった。
この白統一の服装は、マユが白が好きであることも理由だが、主たる理由は日焼け対策だ。
その証にマユは黒の日傘を差している。
紫外線に対して耐性がない白子のマユにとって日光を浴びることは禁物なのだ。
マユはそうまでして彰人について来ているわけだが、楽しそうにするわけでもなく、無表情に徹している。
そして、最後に、彰人の右隣りを歩く琉璃は髪を梳かれている千鶴に嫉妬の眼差しを向けている。彼女の服装は、彰人を意識してなのか、無地の黒のTシャツにジーンズのキュロットだった。
このように彰人を除いた三人は銘々で着飾っているのだが、頭上に晴れ渡る晴天と対極を成すように四人を包む雰囲気はどんよりしていた。
何故こうなったかは薄々わかるだろうが、敢えて話させてもらうと少し時間を遡る必要がある。
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「あ、朝なのか…………」
死んだ魚のような眼を擦りながら、彰人はベッドから起き上がった。
誤解のないように言っておくと、起床ではない。
起き上がっただけだ。
というのも、彰人は真夜中の五時から、現時刻の八時まで一睡もしていなかった。
その原因というのが、彼の両側でピッタリ寄り添うようにすやすやと寝ている二人の少女である。
一人は従姉妹のマユ、もう一人は妹の琉璃だ。
二人は初めから彰人と寝ていたわけではなく、マユは彰人の部屋に敷いた布団で、琉璃は自室のベッドで眠っていたはずなのだ。
が、深夜一時、彰人は寝苦しさに起こされて、傍にマユがいるのを目にすることになった。
場所を移して眠りについたが、一時間後に再び寝苦しさに起こされて、今度は両隣にマユと琉璃がいるのを目にすることになった。
それ以降、場所を移しても、方法はわからないが、二人はそれを察知し目覚めて、彰人の傍に潜り込んだ。
勿論彰人も抵抗していなかったわけではなく、自室のドアをロックしたりもしたが、何故か一時間後に息苦しさに起こされた。
つまり、琉璃とマユの二人も彰人と変わらない睡眠時間のはずなのだが、安眠を享受しているようだった。
――こいつらっ!
そのことが彰人の心に怒りの炎を燈した。
「おいっ!起きろっ!」
できるだけ二人の耳元に近付いて、怒鳴った。
この行為は、
――寝てるところを起こされるということがどれほどの苦痛か思い知らせてやるっ!
という邪悪な心の発露だった――のだが、
「………………アヤト…………おは…………よう…………」
「あっ、おっはよー、お兄ちゃん!うぅぅー、よく寝たっ!」
マユは無表情、無感情で、堪えているのか、いないのかわからないし、琉璃に至っては、かなりいい目覚めのようだった。
「………………あさから…………アヤトの……におい…………」
と、マユが彰人の肩に寄り掛かると、
「ちょっと!お兄ちゃんから離れて!ていうか、君!新人のくせに生意気だよっ!いきなりお兄ちゃんと寝るなんて!」
と、琉璃が甲高い抗議の声を上げると、
「わたしは…………あなたよりはやく……アヤトにあっている………………だから、そっちのほうが……しんじん…………」
「そ、そんなの関係ないもん!あたしとお兄ちゃんは家族だもん!」
言い争いをはじめた。
この言い争いで一番被害を受けているのは、二人の間にいる意図せず火付け役となった彰人だった。
寝不足の頭に甲高い琉璃の声は響いて、頭痛を生じさせていた。
とは言っても、自業自得だが。
「や、やめろぉぉぉぉ」
思わぬ反撃に彰人が呻いていると、インターホンが鳴らされた。
と思ったときには、インターホンが連打されていた。
「彰人ー、千鶴ちゃんが来たわよー」
恵美は既に起きていたらしく、一階から恵美の声がした。
「あいつもう来たのかよ」
恵美に言われる前から千鶴が来たとわかっていた彰人は既にベッドからよろよろと出て、さっさと普段着に着替えていた。
二人の少女の前なのだが、彼は全然気にしている様子はなかった。
「ちょ、ちょっと!お兄ちゃん!レディーの前でいきなりズボン脱いじゃダメだよ!」
「…………アヤト…………へんたい…………」
が、琉璃にとってはただ事ではなく真っ赤に染めた顔を隠していて、マユは言葉とは裏腹に無表情で、微塵も紅潮していなかった。
「だったら、俺の部屋にいるな」
と言い残して彰人はドアに向かった。
「ていうか、また柊さんとお出かけ?」
琉璃が部屋から出て行こうとする彰人の背中に言った。
それに彰人は歩を止めて答えた。
「またってなんだよ。それほど行ってねえだろうが」
「いいや、いっぱい行ってるよ」
「そうか?まあ、どうでもいいが」
そう言って今度こそ部屋を去るつもりで彰人は扉を閉めようとしていたが、
「ま、待てっ!」
「ああ?何だ?」
琉璃の切羽詰まった声に再び呼び止められた。
「うぅぅぅぅぅ…………」
「………………はぁー、お前も来るか?」
しかし、呼び止めたにも拘わらず、唸るだけの琉璃を見兼ねて彰人は言った。
「い、行く」
「はいはい。で、お前もか」
彰人はマユの方に目を遣って言った。
マユは無表情ながらも、なにかを強く訴えかけるような目でじっと彰人を見ていた。
それに彰人が気付かないわけがなく、マユの意図を汲み取り、彼の方から訊いた。
マユは微笑むこともなく、彰人の問いに頷いた。
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ということだった。
二人切りになって昨日彰人の傍にいられなかった失態を取り返そうとしていた千鶴にとっては疎ましい以外のなんでもなかった。
しかし、疎ましいと感じているのは琉璃もであり、髪を梳かしてもらったことがない琉璃は普通にそうしてもらっている千鶴が恨めしかった。
マユはずっと無表情、無言で、彼女の心中を窺い知ることは叶わない。
そして、この面子のまとめ役である彰人は寝不足で機能不全に陥っている。
というか、雰囲気がどんよりしていることにすら気付いていない程の疲労困憊の態だった。
「で、どこに向かってんだ?」
髪を梳かす作業を終えた彰人が櫛をなおして訊いた。
「え、えっと、新しくできた店で、個人経営の店なのっ。な、名前は忘れたけど…………」
「何だよ、それ。覚えてるもんだろ」
「う、うん…………だ、だけど場所は覚えてるよっ!こ、ここを真っすぐ行ったら、もうすぐ着くっ」
千鶴は前方を真っすぐ指差して言った。
千鶴が名前だけを覚えていないのは、名前より彰人と一緒に行くという事実の方が大事だったからで、その証に千鶴は店の位置を正確に覚えていた。
「ふーん」
彰人は気のない風に答えた後、しばらくの無言の間の末、その店が見えてきた。
その店はまさにブティックといった感じで、オシャレを絵にしたような内装で、置いてある服も見るからにお洒落なものを揃えているようだった。外観は木造だが、流石にその中身は鉄筋コンクリートだろう。
オシャレを気にしたことない彰人のような人物には縁もゆかりもない店だ。
それだけに、三人が臆するなく店に入っていく後ろで気後れして二の足を踏んでいた。
その時彰人は背中に刃物の切っ先を突き付けられているような感覚を覚えて、咄嗟に振り返った。
振り返ったそこには刃物を突き付ける人物どころか誰もいなかった。
「お兄ちゃん何してるのっ!」
「お、おう。何もしてねえよ」
しばらく見渡したが、琉璃に呼ばれて、気の所為だと片付けて、三人のもとに向かった。
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「何してたのっ」
店に入った瞬間を狙ったように琉璃が彰人の右腕に飛び付いた。
「だから、何もし――って、うおいっ」
そして、琉璃に続いて、マユが、昨日と同様に、腕を彰人の首に回すようにして抱き着いた。
「ちょっ、お前等離れろっ。暑いっ。ていうか、お前もか」
そして更に、いつの間にか千鶴が彰人の左腕におどおどとしがみ付いていた。顔を真っ赤にしていて、勇気を振り絞ったことが窺い知れた。
そんな千鶴に反して、マユは無表情だが、心なしか嬉しそうにしていて、琉璃は彰人に引っ付く二人に唸って威嚇していた。
三人とも彰人の声が届いていないようで、彰人が再三離れるように言っても、誰も離れるそぶりも見せなかった。
「いらっしゃいませ」
他に来客者がいれば、かなりの迷惑になったであろう程に騒々しい四人は、聞くだけでその人物がしとやかだとわかる声で話し掛けられた。
彰人がその声のした方に目を向けると、そこには声を裏切らない穏やかそうな女性が立っていた。年齢は二十歳を過ぎたぐらいだろうか。
営業妨害と思われても仕方ない程に煩い彰人達に、ましてや目を疑うような容姿のマユを視界に収めているにも拘わらず、朗らかな笑顔を浮かべていた。
「煩い奴等で、すいません」
彰人が代表して頭を下げると、
「いえいえ、いいんですよ。開いたばっかりでお客さんが少なくていつも静かだったので、賑やかな方が嬉しいんです」
と、店員は笑顔を一層深めて、おっとりと言った。
「それにしても仲が良いんですね。三人とも妹さんですか?」
「いえ、違――」
「この二人は違う!あたしだけが妹っ!」
彰人が言うのを遮るように琉璃が千鶴とマユを指差して語調強く言った。
「あら、そうだったの。ごめんなさいね。それじゃあ、他の二人はお兄ちゃんのお友達?」
店員は琉璃の高さに合わせるように屈んで言うと、琉璃の頭を撫ではじめた。店員の琉璃を見る目はほほえましそうで、口調も幼児と話しているようなそれだった。
琉璃は子供扱いされるのは嫌って猛抗議するはずなのだが、琉璃は黙って俯き、されるがままにされていたが、
「…………わたしは……アヤトの…………許婚…………」
「「えっ、えーっ!」」
マユが爆弾を投下した瞬間、千鶴と同時に驚いて、硬直した。
「従姉妹が許婚になれるか、馬鹿」
と、彰人が琉璃が離れて動かせるようになった手でゲンコツを作り、マユの頭をこつんと小突くと、
「も~、びっくりさせないでよー!」
「び、びっくりした」
と、千鶴と琉璃は同時に胸を撫で下ろした――が
「できないことはないんだよ、それが」
「「えっ?えーっ!」」
店員の意地の悪い一言に再び驚いていた。
「従姉妹は傍系の兄妹だから、お兄ちゃんとあなたは三親等以内の婚姻となる。それでは法に触れるけれど、」
「…………けれど…………?」
「養子縁組になると、法定血族になって、書類上傍系血族ではなくなるの。だから婚姻を結ぶことが出来るっていうこと。だけど、勿論試したことはないから、もしかしたらていうことだけど」
「…………だって……アヤト…………」
マユはしがみ付いたまま、彰人を見上げて、一度ふんと偉そうに鼻を鳴らした――無表情でだが。
「だってって言われてもそうなのかと答えるしかできないんだが」
と、冗談としか思っていない彰人がなんでもないように言うと、マユの顔は無表情のまま少し陰った。
しかし、勿論ながら、彰人はそれに気付いていない。
「ていうか、できたとしても、あたしが許さないからねっ!」
「お前は俺の親か」
「ふふっ、それはさておいて、そこのあなたはお兄ちゃんの何?」
鼻息荒く言った琉璃に彰人がツッコミを入れるのをほほえましそうに見ていた店員が、彰人の腕にしがみ付いている千鶴に話題を振った。
「わ、私は彰人の、い、い…………幼馴染みです」
千鶴はマユに負けじと、許婚と言おうとしたが、勇気が足らず、諦めた。
「えっ、そうだっだの。同い年には見えない…………かな」
「まあ、そうですね。チビですから、こいつ」
「うぅぅぅぅぅ……、別にいいもん、チビで」
彰人の心ない言葉に拗ねたように千鶴は言った。
しかし、店員が驚くのも無理はなく、千鶴は彰人の胸の辺りまでしかない。
ちなみに、マユは千鶴より少し低く、琉璃はマユより少し低いぐらい。
「ふふっ、いつか大きくなれるよ」
と、保証のない励ましの言葉を言うと、彰人に向き直り、
「それでは、妹と従姉妹と幼馴染みの洋服をご購入されるのですね」
と、三人のときとは打って変わって大人に対する口調で言った。
「はい」
「わかりました。では、子供服売場にご案内します」
「こ、子供じゃないよっ」
「あたしだって違うっ!」
「…………わたしも……りっぱなおとな……」
「くすすっ。わかっていますよ。ただ反応が可愛くて、ついね。第一、私の店では子供服は取り扱っておりませんから。では、ついて来てください」
可愛いものには目がないようで、三人を弄ってから店員は店の奥に歩き出した。
何処にどのような服があるのかほとんど覚えているようで、迷いなく服を手に取り、三人それぞれに似合った服を数着渡した。
渡すときに三人共に何か耳打ちをしているようだったが、琉璃は何故か握り拳を作り、試着室に駆け、マユは無反応ながらもそこはかとなく顔色に意欲を伺わせて試着室の方に消え、千鶴は赤面して俯いたものの、そのまま早歩きで試着室に向かった。
少し隔てたところから、その店員の手際を見てひとしきり関心すると、彰人は三人が服を選び終わるまで店を見て回ろうと思ったが、試着室からの琉璃の声に、彰人はそれを諦め、琉璃のもとに向かった。
試着室は三センチの厚さの木の板で囲われいて、入口をカーテンで仕切られた比較的簡素な作りだった。
そんな試着室が横に三つ並んでいて、琉璃は一番右端のものを使っていた。
「呼んだか、琉璃」
「呼んだとも、さあ刮目せよっ。じゃじゃーん!」
琉璃は威厳のかけらもない口調で言うと、カーテンを一気に開けた。
そこには、ピンクのキャミソールにプリーツのミニスカートという完全幼女ファッションの琉璃が、ない胸を張って立っていた。
幼児体型の琉璃にはピッタリ過ぎるコーディネートだったので、
「似合ってる」
と、彰人は嘘偽りも悪意もない言葉を言った。
琉璃はその言葉の真意には気付いていなかったが、心底嬉しかったようで、隠し切れていない忍び笑いの後に、
「これ買うっ!」
と、言って、開けたときと同じ勢いで、カーテンを閉めた。
「はいはい」
しかし、その代金を払うのは勿論彰人だ。
「…………アヤト……つぎこっち…………」
近くにあった休憩用の椅子に腰掛けようとしたところで、カーテンの端から顔だけ覗かせているマユに呼ばれた。
「今度は何だ」
しかし、彰人は嫌がるわけでもなく、唯唯諾々(いいだくだく)とマユに従って、そちらに向かった。
マユの使っている試着室は琉璃の隣のものだった。
彰人がその試着室の前に立つと、前触れもなくおもむろにカーテンが開けられた。
そして、現れたのが長袖の白のチューブトップを着たマユだった。
チューブトップは少し大きめで、袖の先からは指先だけが見える状態だった。きっと、店員は意図して大きめのものを渡したのだろう、指先だけが見えているのがマユの潜在的な可愛さを増させていた。
つまりは似合っているのだが、一つ大きな問題があった。
チューブトップにではない。
マユがズボンを履いていないということに問題があった。前述でチューブトップしか描写しなかったのはこの所為だ。
チューブトップが大きめだったのが幸いして、極めてぎりぎりのところで下着は見えていなかったが、それが逆にかなり扇情的な見た目にしていた。
「似合っているが、おい、ズボンはどうした。その服はどう見てもワンピースじゃねぇだろ」
至って冷静に彰人は指摘した。
マユはゆっくりと下を向いて確認すると、顔を上げた。
「…………アヤト…………えっち…………」
袖で隠すと、微塵も顔を赤くさせることなく言った。
「俺の所為じゃねえだろ。今度からは気をつけろ」
彰人はそれだけ言うと、カーテンを閉めた。
そして、再び休憩用の椅子に腰掛けようとすると、
「あ、彰人、み、見て」
今度はマユの隣の試着室からの千鶴の声に阻まれた。
「はいはい」
だが、やはり嫌がるそぶりを見せず、従順に千鶴の使っている試着室の前に行った。
すると、「大丈夫、大丈夫、きっと大丈夫」というか細い千鶴の声と共に勢いよくカーテンが開かれた。
開かれたそこには、薄手の水色のワンピースを着た千鶴がいた。
ワンピースは袖無しの肩紐で吊るようなデザインで、膝丈のキャミソールドレスのようだった。
そのような服が似合うことから、千鶴がどれほど幼児体型なのかわかるだろう。
「ど、どお?」
千鶴は恐る恐る言った。
「似合ってる」
彰人はそれに対して思ったままを簡潔に述べた。
とは言っても、先程から同じことを言っていることに彼は気付いていない。
「ほ、ホント?」
「似合ってる、似合ってる」
彰人の言葉を聞いた千鶴は心配そうだった顔を綻ばせて、カーテンを閉めた。
それを確認した彰人は、振り向こうとした――その時だった。
唐突に寝不足による疲労がどっと溢れて目眩に襲われた。視界が揺れて、平行感覚を失って、前のめりに倒れた。
つまり、千鶴の入っている試着室にダイブした。
間一髪のところで入口の縁に捕まって倒れ込むのだけは阻止したが、その時千鶴がちょうどワンピースを落としたところだった。千鶴が着ていたワンピースは肩紐で吊すタイプだったため、肩紐から腕を抜くと、すとんと落とせて、上から脱ぐ手間がいらなかったのだ。
更に、ワンピースにはパッドが入っていて下着を兼ねているものだったために千鶴はブラを外していた。
つまりは上半身裸の状態だったが、咄嗟に腕で胸を隠したために大事には至らなかった。
目眩が収まった彰人は顔を上げると同時に固まった。
「す、すまん。わざとじゃねぇんだ」
状況を飲み込んだ彰人はすぐさま試着室から出た。心なしかその顔は赤く染まっているようだった。
「意外と大胆だったのですね」
一部始終を見ていて事情はわかっていそうな店員だったが、面白がるように言った。
「ち、違う!誤解だ!」
慌てることなど滅多にない彰人が店員の冗談を真に受けて、珍しくうろたえながら弁明した。
「あ、彰人」
その時、試着室から耳を澄ませていないと聞こえないような声で千鶴が彰人の名を呼んだ。
「どうした?もしかして、あの時に怪我させたか?」
「し、してない。大丈夫。それより、わ、わたしは、あ、彰人がそういうことがしたいなら、べ、別にいいけど……」
「えっ、何て言ったんだ?もう一回言ってくれ」
「うぅぅぅ………、何でもない」
「?」
千鶴は流石にもう一度言う勇気はなく、一人試着室の中で拗ねたが、
「まあ、お詫びになるかはわからねぇが、この後クレープ食べに行くか?」
という彰人の提案に、
「う、うんっ」
と、すぐに機嫌を直して、はしゃいでいた。
かなり単純だ。
以降は彰人が試着室の前を行き来するだけで、何事も起こらず、三人は手ぶら、一人は両手いっぱいに荷物を提げて店を後にした。
ちなみに、すべての代金は男子高校生が普通に払ったそうだ。
何故一介の男子高校生がそんな大金を持っているかというと、趣味がお金のかからないことだからということもあるが、友達が少ないからでもあるということは忘れてはならない。
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以前薫と訪れたことのあるクレープの店に行くと、彰人の顔を覚えていた店員がいたらしく、彼が入店した瞬間、数人の店員が硬直した。
そのことに気付かず彰人はレジに並んだ。
店内は混んでいるわけではなく、二つあるレジにそれぞれ二、三人並んでいるだけだった。
「お前等、何頼むか決めとけよ」
彰人は手間を省くことを考えて言った。
「メニューは?」
「こちらにあります」
琉璃の問いに答えるように、壮年の店員がメニューを四人にそれぞれ配った。
「あ、ありがとうございます……」
「ありがとお……」
千鶴と琉璃は初めての対応に戸惑いながらも頭を下げた。
「……………………」
「ありがとうございます」
マユは無言で、彰人は外面の笑顔で例を言って頭を下げた。
「いえいえ、礼には及びません。それより、今日は神崎様の御姿が見えませんが、御一緒に来られなかったのですか?」
「ああ、神崎先輩、じゃなかった神崎さんはいませんよ。別にずっといるわけではありませんから」
「そうでしたか」
と、壮年の店員はホッとする様子を見せることなく言った。
「それと、大変失礼ですが、御名前を存じ上げませんので、お伺いしてもよろしいですか?」
「桐塚彰人です」
「桐塚様でしたか。付近に御越しの節は、是非御立ち寄りくださいますようお待ちしております、桐塚様」
壮年の店員(胸に店長と小さく書かれた名前のタグを付けている)は彰人に頭を深く下げて言った。
「そんな固くならないでください。今日は神崎さんの手下としてではなく、一般人として来ていますから」
と、彰人が苦笑いを浮かべて言っても、
「了解しました」
と言って、再び深く頭を下げた。
事情を薄々理解していた千鶴は彰人に対する店員の対応に驚きはしなかったが、琉璃は『お兄ちゃんはやっぱりすごいっ!』と勝手に思い込んで、ぽぇ~とそれを眺めていた。ちなみに、マユはというと、それを無表情で眺めていた。
「で、お前等は何頼むか決めたか?」
店長に遠回しに持ち場に戻るように言って、三人に向き直った。
「あっ、えっ~と、これっ!」
琉璃は考えていなかったと思われないがために、目に入ったクレープを咄嗟に指差した。
「お前はこれだな。それで、マユと千鶴は?」
「…………わたしは…………アヤトが……えらんだものにする…………」
「わ、私もっ!」
千鶴は予め注文するクレープを決めていたが、マユの発言を受けて、急遽注文を変更した。
「あっ、ずるい!私もそれにする!」
更に、琉璃も(一体何がずるいのかわからないが)注文を変えた。
「お前等な、ガキじゃねえんだから、自分の好きなものを選べよ」
彰人は、琉璃が小学生のとき何かと自分の選んだものを選んでいたことを思い出して、言った。
「「「……………………」」」
「はぁ~、じゃあ、これな」
彰人は黙り込む三人に嘆息して、無難にチョコと生クリームの入っているクレープを選んだ。
「俺が並んでいるから、お前等は席を取って来てくれ」
「えーっ、あたしはここでお兄ちゃんといるー」
「…………わたし……も…………」
「……お前等な――」
「それなら、ここは私が並んでいるから、彰人は二人と一緒に席を取っておいて」
彰人が離れようとしない琉璃とマユに嘆息するのを見兼ねて、もしくはチャンスだと思ったのか、千鶴が言った。
「俺が払うんだから、ここにいる必要があるだろ」
「い、いいの。服買ってくれたから、クレープだけは、わ、私が払う」
「いや、それでは、お詫びにならねぇだろ」
「べ、別にいいの。ほら、あそこ空いているから、早く」
「お、おう。わかった。その代わり、また今度おごらせろよ」
「う、うんっ!わかったっ!」
千鶴は飛び上がりそうになるのを押さえて答えた。
彰人の中での自分の株を上げるだけのつもりだったのが、二人切りになるチャンスというボーナスを得て、完全に舞い上がっていた。
去って行く琉璃とマユの背に千鶴が勝ち誇ったような眼差しを向けると、それに感づいたのか、二人が振り向いた。
琉璃は悔しそうな表情を浮かべて、マユは無表情だった。
「ちょっと、トイレに行ってくる」
「れ、レディーの前でそんなはしたない言葉を使うな、お兄ちゃん」
「へいへい」
だったらどう言えばいいんだ、と思いながら、彰人は荷物を置くと、お手洗いに向かった。
「ん?」
その途中、ポケットに入っている週休五日制の携帯が久しぶりの仕事にめんどくさそうにバイブした。
メールを受信したようだった。
携帯を取り出して、画面を見ると、件名は『どうせ暇なのでしょ?』だった。