主人公に対する先輩による問題解決パート 1
始業を知らせるチャイムが鳴るのを、彰人は、何時かの日に薫がいた屋上で聞いていた。
フェンスに背中を預けて、項垂れるれるようにして座り込んでいた。
まるで屍のようだったが、
「先輩もサボタージュですか?」
おもむろに顔を上げると、疲れたような笑顔を作って来訪者
、神崎薫を迎えた。
「私は、先生にお手洗いだと言ってある」
それに薫は、彰人の作ったようなものではなく、心の底からの笑顔を浮かべて答えた。
「なら、こちらではなく、階下にありますので、そちらに行ってください」
言外に、一人にしてください、と言っているのは明白で、薫も勿論気付いているが、彰人に言葉は返さずに、ずかずかと彼の横まで来ると、同じようにフェンスに背中を預けて、腰を下ろした。
「お手洗いはどうしたんです?」
その薫に苛立ちも怒りも覚えず、彰人は力無い声で訊いた。
「まだ、我慢できる」
「ははっ」
女らしからぬ、いや薫らしい返答に彰人は力無く笑う――勿論薫の返答は冗談だが。
それを見て少しは元気を取り戻したと思い、薫は満足そうに頷くと、
「ほら、飲め」
と言って、何時となく持っていた二本の缶コーヒーのうち一本を彰人に差し出した。ポケットの中にでも忍ばせていたのだろう。
「校内の自動販売機は昼休みのみの使用に限られているはずですけど、先輩?」
「落ちていた」
「…………そうゆうことにしておきますよ」
落ちているはずないですよね、も、落ちていたものを飲むのですか、も、缶コーヒーって選択が渋くないですか、も『…………』の間に飲み込んで、彼はそれを受け取った。
プルタブを引いて開けると、口を潤す程度に含んだ。ブラックのコーヒーが口に苦みを残して広がるのを感じながら、彰人は雲一つない空を仰ぎ見た。
「優等生を襲ったらしいな」
「…………はい?」
一口飲んで、気に入らなかったのか、缶コーヒーを横に置いた薫がおもむろに切り出した。
「今学校中がこのネタで大騒ぎだぞ」
何が面白いのか、薫は意地悪な笑みを浮かべて、楽しそうに言った。
「えっ?本当ですか?」
だが、彰人にとっては寝耳に水である。
「案ずるな、私は信じていない。なんせ、お前は私の可愛い部下らしいからな」
しかし、薫は動揺する彰人を置き去りにするように言葉を続けた。
「なんですか、それ」
「これも、噂なんだがな、お前は私の右腕で、表には出せないような私の頼み事を忠実に熟す裏の世界の人間になっていたぞ。そして、何故か私までも裏の世界のトップということになっていた」
まったく、『裏の世界』というのはどうなんだ?夢見がちな中学生じゃあるまいに。
と、言っている割には楽しそうに、呵然として笑っている。
「で、本当のところはどうなんだ?」
しかし、話題を本題に移すと、薫は一転して真剣な顔で、声音で彰人に訊いた。
「どうもこうも。俺が三嶋を怒鳴り付けたんですよ」
それに驚くことなく、彰人は答えた。
「何の理由でだ?」
「理由が必要ですか?男の俺が女、ましてや優等生の三嶋を怒鳴り付けただけで十分人で無しですよ」
「ほう…………彰人、こっち向け」
「?――ふぶっ!」
おもむろに顔を向けた瞬間、その顔面を薫の拳が捉えた。
予想だにしなかった事態に、もしくは座ったままだというのにも拘わらず、腰の入った薫の拳に、彰人は受け身も取れずに、仰向けに倒れた。手に持っていた缶コーヒーも盛大に中身を撒き散らしながら放物線を描いて地面に落ちた。
「何、するんですか」
倒れたときに打ち付けたのか、彰人は後頭部を摩りながら情けない声を漏らした。
「腑抜けたことをほざくから、いらついて殴った。男が何だって?女が何だって?優等生が何だって?笑わせるなよ?男が女とか優等生を怒鳴り付けて何が悪いのだ?」
そんな彰人を、見下ろすように、立ち上がっていた薫が言った。
「…………」
彰人は薫の台詞を聞いて、何故か栞の台詞を思い出していた――『噂なんて好きに流させておけば良いのよ。私は気にしないもの。あなたもどうせそんなこと気にしていないのでしょう?なら、何がまずいのかしら?』
「それは女とか優等生を見下してるだけじゃないのか――女とか優等生は弱いから手荒に扱うなってことだろ?ふざけるな!!お前は私にもそう言うつもりか!!私よりも強いのか!!それと、女を怒鳴り付けたぐらいで人で無しだって!!だったら、私の父は何なんだ!!答えてみろ!!」
薫は学校中に響き渡るような、咆哮とも形容できるような声で言った。
剣幕も彰人とは比べるまでもなく恐ろしく、殺気を放っているようにさえ感じる程のものだった。
だが、彰人は、そんな声を、剣幕を向けられているというにも拘わらず、恐ろしいとは思っていなかった。
ただ、驚愕していた。
自分の考えたことの浅はかさに気付かされて、顔面を殴られた痛みも後頭部を打った痛みも忘れて驚愕していた。
男だとか女だとか優等生だとかは関係ない。
女なら男を怒鳴り付けても良いのか、ということでもない。
怒鳴り付けた理由に問題があり、その対象は関係ないのだ。
そして、それは噂でも同様に言えることで、優等生だからといって、気にしなければ、その人がどんな人だろうと関係ないのだ。
だから、薫の台詞が栞のそれと被って聞こえたのも頷けるのだった。
「わかったら、ものは考えてから言え」
驚愕して腰を抜かしている彰人に薫は、憮然と手を差し伸ばした。
「はい」
彰人は素直に答えて、その手に掴まった。
薫は彼を引き上げると、自分のと彰人の缶コーヒーを回収して、一方的に彰人に押し付け、さっさと出口の方に歩き出した。その後をわけもわからずに彰人は追い掛けた。
「まずいから、やる」
「えっ?ちょっ、口つけてますよね?!」
「ああん?だからどうしたんだ?」
「………………先輩のこと少しわかったような気がします。というか、どこ行くんですか」
「さっきのことを先生どもに説明するのも面倒だし、噂好きな奴等の視線も欝陶しいから場所を移す」
『さっきのこと』というのは、勿論学校全域に響き渡った薫の咆哮である。
「場所を移すって、どこにですか」
「決まってないが、取り敢えず学校の外だけは確かだ」
階段を降りながら平然と言う薫。
「えっ!!抜け出すんですか?」
だが、彰人はそこまで平然としていられない。
「当たり前だろうが。というか、お前も来るんだぞ。まだ、話は終わってないしな」
「ええっ!!」
「『ええっ』じゃない。さっさといくぞ」
そう言うと、薫は例に漏れず、平然と彰人の手を握ると、校舎を出て、矢張り平然と校門に向かった。
「先生には脅されて仕方なく通したと言え」
「いえ、先生方には黙っておきますよ、お嬢」
と、彰人にとっては全く理解不能なやり取りを警備員と交わして薫は校門を堂々と出た――のを見ていた二名の女子生徒のうち一人は心配そうな面持ちで、もう一人は複雑な面持ちで見ていた。