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星空の校舎

作者: sagitta

お題:珈琲、忘れ物、バグ、指輪、タブレット、カーテン、絵本、星空

制限時間1時間で書いた、お題バトル作品。

 うかつにも、教室に忘れ物をしてきてしまった、ということにミキが気づいたのは、もう真夜中に近い頃だった。

 日頃の例に漏れず、寄宿舎の寝台の上で、寝付かれぬ夜を悶々と過ごしていたミキが、鋭敏すぎる思考を沈めようと躍起になっていたところに、そのことがさながら稲光のように頭の中を駆け抜けて、ミキに思い出させたのであった。

 一度思い出してしまうと、その忘れ物のことは、根を下ろしたように頭から離れず、ただでさえ眠れないミキを急き立てた。七回ほどの寝返りのあと、ミキは諦めて、寝台からゆっくりと身体を起こした。

 忘れ物を取りに行こう、とミキは思った。その考えが非常識であることは判っていた。今は真夜中だ。明日の朝、授業が始まる前に取りに行けばすむことだ。わざわざこんな時間に起きだして、取りに行く必要なんてない。頭では判っていても、今このとき動かなければ、忘れてしまったそれは、永久に失われてしまうような気がした。そうして一度そう考えてしまったら、そのまま布団の中に潜り込んで、眠りにつくことなどは、海を歩いて渡ることよりも困難なように思えてくるのであった。

 だからミキは小さなため息をついて――それはほんの一瞬だけあたりの空気を白く染めたあと、すぐにかき消えた――、寝間着の上から毛布を外套代わりに巻きつけて、そっと寝台を抜けだしたのだった。

 ミキは音を立てないよう細心の注意を払って、部屋の扉を押し開けた。その瞬間、ミキは予想もしていなかった眩しさに、思わず目を閉じる。分厚い遮光カーテンで窓を隠している部屋の中とは違い、廊下の窓からは一面の星空を仰ぎ見ることができた。ミキが感じた眩しさは、星の光だった。今日は新月で、いつもよりいっそう暗い晩であるというのに、いつもは気に留めることすらない星々の微かな光が、こんなにも眩しいということに、ミキは感嘆の息を漏らした。

「思いのほか明るいから、驚いただろう」

 唐突にそんな声がすぐそばで聞こえて、ミキは思わず声を上げそうになった。飛び出しかけた声を無理やり押し殺して振り向くと、星空の光で陰になった姿が、そこにあった。背格好はミキと同じくらい、ということはおそらくは――ミキと同じ、学園の生徒だ。

「そんなに警戒しなくてもいいよ。おそらくは僕も君と、同じ目的だ」

「わたしは……」

「教室に、行くのだろう?」

 ミキのかすれる声に対して、人影は、落ち着いた声で答えた。冬の氷柱のような、すきとおった声だった。

「なぜ、あなたはこんな時間に起きているの?」

「コーヒーを、喫み過ぎてしまってね」

 まるで冗談のような言葉。けれどその声の調子には、冗談のような響きはない。

「あなたは?」

「僕はイオン。さあ行こう、ミキ。忘れ物を、取りに行くんだろう?」

 イオンと名乗った彼が、右手をミキに差し出して、一歩近づいてきた。陰から踏み出して、星の光が照らしだしたイオンの顔は、その声と同じように、冴え冴えと、すきとおっていた。

 ミキはおそるおそるその手を握る。ガラス細工のようなその右手の中指には、月長石をあしらった指輪がはめられていた。少年の指には不釣り合いな大きな石が、今日は姿を表さない月の代わりに輝いて、ミキの目に焼きついた。


 ミキは、星明りが青く照らす校舎の廊下を歩いていた。

 誰もいない校舎は、耳が痛いほどに静かで、自分の心臓の鼓動が世界中に鳴り響いているようにさえ聞こえる。

 けれど隣にイオンがいれば、不思議と怖さは感じなかった。イオンは、真夜中の廊下がまるで自分のすむ世界だとでも言うように、胸を張り、危なげない足取りで、どんどんと先へ進んでいく。あっという間に目的の部屋――ミキが普段使っている教室だ――にたどり着いて、足を止めた。

 歩きながらミキは、イオンのことを懸命に思い出そうとしていた。ミキが所属している教室の生徒は、40人。全員の顔と名前が一致しているわけではなかったが、少なくともその中にイオンはいなかったと思う。しかしイオンはミキの名を知っていたし、今だってミキがどの教室に属しているか、尋ねることもなく知っていた。だけど、ミキはさっぱりイオンに覚えがない。ミキが訝しんでいると、イオンがくるりと振り返り、その翡翠色の瞳でまっすぐにミキを見つめてきた。

「何をしているんだい? 早く忘れ物をとっておいでよ。大切な、物なのだろう?」

 イオンの言葉がミキの耳を通って頭をめぐり、そこでミキは忘れ物のことを思い出す。そうだ、大切なものだったんだ。ミキは怖い気持ちも忘れて、教室の扉に手をかけ、ゆっくりと横に引いた。

 教室の中は宇宙だった。

 上も下もなく、右も左もない。足を踏み入れた、その床が一瞬にして消え去って、ミキは大海原に飛び込んだときのように感覚を失って漂っていた。

「なにこれ、怖い!」

 思わず悲鳴をあげると、ミキの手を、何かがつかんだ。その感触は、まるで氷のように冷たく、すきとおっている。

「大丈夫、僕がこの手をつかんでいるから、君は早く、君の机を探して」

 どこかで誰かの声がして、ミキはその声にはげまされるように、教室の中を泳ぐ。

「あった、私の机」

 見慣れた木の天板に金属の脚。ミキは机にたどり着いて、天板の下の物入れを探る。

 手に触れる紙の感触。懐かしい本の匂い。

「これ、これを忘れていたの」

 そう言ってミキは、手にした絵本をしっかりと抱きしめる。

「もうなくしてはいけないよ」

 誰かの声に、ミキはしっかりとうなずいた。

「さて僕はもう行かなくっちゃ」

「待って、あなたは……」

 ミキの言葉に、イオンは満月の光のように優しく笑った。

「僕は、バグみたいなものだから」

「バグ?」

「誤って基盤に入り込んでしまった、悲しい虫だよ」

 それはどういう意味?

 ミキのその言葉は、声にならなかった。

 なぜなら、そのときにはもう、ミキの意識は闇の中にあったから――。


 目が覚めると、ミキは自宅の寝台の上だった。彼女が教室に通い、寄宿舎に寝泊まりをしていたのははるか昔のことなのに、一体どうしていまさらそんな夢を見たのだろう。

 軽く頭を振って、彼女は身体を起こす。今日は確か顧客との大事な会議が入っていたはずだ。早く頭を目覚めさせないと。

 ふとデスクに目をやると、見慣れないものが目に入る。

「これ――」

 ミキは思わず声をあげた。デスクにあったのは、ボロボロの絵本。彼女がまだ幼かった頃に好きだったもので、彼女の母親の、形見でもある絵本。絵本の上にはひとつ、月長石のはめられた指輪が乗せられていた。

「イオン」

 その名前は、絵本に出てくる主人公。宇宙を旅する少年のもの。

 ミキは微笑んで、そっと絵本を取り上げ、仕事用の鞄の電子タブレットの隣に入れた。そういえば、最近はパソコンやタブレットのディスプレイばかり見つめていて、絵本なんて長いこと読んでいない。

 今日の通勤では、久しぶりに絵本に目を通してみよう。それだけで、たったそれだけでいつもとは少し違う今日が、訪れるはずだ。

「ありがとう、イオン」

 玄関の扉を開きながら、ミキは小さく、そうつぶやいた。

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