魔女の棲む村
灰がかった雲が低く垂れこめ、陽の光が届かない。
巡礼の旅を続けて数日、リノアたちは深い霧に包まれた村へとたどり着いた。
村の名は《ウィリス》。
地図にも載らぬ辺境の地――けれど、その分、神子の噂も届いていない。
「……なんだか、空気が重いね」
リノアがつぶやいた。白い息が霧に溶ける。
木造の家々は軋み、道端には誰の姿もない。
「病でも流行ってるのか?」
アデルが周囲を見回すと、軒先の影から老婆が顔を出した。
その眼差しは警戒に満ちている。
「旅人かい? なら、ここには長居しない方がいい」
「……どうして?」リノアが首をかしげる。
「“森の魔女”がいるんだよ。あんたたちも近づかないことだ。あの女に関わると、命を落とす」
老婆はそう言い残して、扉を閉めた。
リノアは黙り込み、セリューが苦笑する。
「物騒だな。どこに行っても“魔女”の噂はあるもんだ」
「でも、ただの噂で済ませるのは危険かもしれない」
アデルの声は低い。
「……実際に何かが起きてる可能性もある」
それでもリノアは、静かに前を向いた。
「魔女……どんな人なんだろう」
――その目は、怖れではなく興味に満ちていた。
その夜、村の代表者が宿を訪ねてきた。
白髪の壮年の男で、神子の巡礼を歓迎しながらも、声にはどこか怯えが混じっていた。
「この村の病を癒していただけるのはありがたい。しかし、どうか“北の森”には近づかないでください」
「北の森……そこに魔女が?」
「ええ。十年前からです。彼女は薬草を売って暮らしており、村も恩を受けています。だが、あの者は……普通ではない」
男はしばし沈黙し、ぽつりと付け加えた。
「村の子をひとり、殺したんです」
リノアの瞳がかすかに揺れた。
「事故だと聞いています」
「ええ、本人もそう言いました。けれど誰も、彼女の言葉を信じられなかった」
男の声が掠れる。
「それ以来、誰も森には入らなくなったのです」
話を聞き終えたあとも、リノアはしばらく黙っていた。
セリューが先に口を開く。
「なあ、リノア。行く気なんだろ?」
「……うん。だって、村人が病気のとき、薬草を届けてくれているんでしょ? 悪い人ばかりじゃないと思うの」
「でも――」
「アデルもそう思うでしょ?」
突然ふられ、アデルは目を瞬かせた。
彼はしばらくリノアを見つめ、それからわずかに息を吐いた。
「……行くなら、俺も行く」
「だろ?」とセリューが苦笑する。「結局止められないんだ、俺たちは」
翌朝。
霧の晴れない空の下、三人は北の森へ向かった。
木々は黒く、どこか湿った匂いを放っている。
「……静かすぎる」
アデルの言葉どおり、鳥の声すら聞こえない。
代わりに足元の土がぬかるみ、踏みしめるたびにぐしゃりと音を立てた。
「村の人が入らないっていうのも、わかる気がするな」
セリューが肩をすくめる。
リノアはそれでも進み続けた。
「……見て」
霧の向こうに、小さな小屋が見えた。
蔦に覆われ、屋根は苔に沈んでいる。
けれど、花壇だけは手入れが行き届いていた。紫の花が、霧の中でかすかに光っている。
「ここが――魔女の家?」
リノアは扉の前に立ち、ノックした。
返事はない。
もう一度叩く。
それでも沈黙だけが返ってきた。
「……留守みたいだな」
セリューが肩を回す。
「引き返すか?」
けれどリノアは首を振った。
「中を少しだけ見てもいい? もしかしたら、薬草とかが手がかりになるかも」
「勝手に入るのは――」
「大丈夫、見るだけだから」
アデルはしばらく迷い、結局頷いた。
リノアが扉に手をかける。
その瞬間だった。
――ごうっ。
空気が爆ぜ、紅蓮の炎が立ち上がった。
リノアの目の前に、火の壁が弾けるように出現する。
「リノア!」
アデルがとっさに彼女を引き寄せた。
炎の熱が頬を焼き、土が黒く焦げる。
その中から、静かな声が響いた。
「……誰が、許可した?」
声の方を見ると、木々の間からひとりの女性が歩いてくる。
長い黒髪が風に揺れ、緑の瞳が三人を射抜く。
腕には薬草の籠。
その眼差しには、怒りでも敵意でもなく――ただ、冷たい諦めがあった。
「ここは、私の“領分”よ」
そう言って、彼女――嫉妬の魔女メレナは静かに杖を下ろした。
炎がしゅうっと音を立てて消え、森に再び霧が満ちていく。
アデルは剣の柄に手をかけ、リノアを庇った。
メレナの目がわずかに細まる。
「……神子、ね」
その一言に、リノアの呼吸が止まる。
――そして、霧の奥で、鳥の羽ばたきのように小さな魔力の波が揺れた。
焚き火の橙が、古びた木の壁に淡く揺れていた。
村はずれの小屋。その奥で、黒髪の女が薬草をすり潰している。
リノアたちは、少し離れた椅子に腰かけていた。
先ほどの火の魔法の緊張がまだ抜けきらない。
けれど、魔女――メレナはもう敵意を見せていなかった。
「……で、あんたたちは、ただの巡礼者ってわけ?」
「はい。『聖痕の神子』としての旅の途中です」
リノアはまっすぐに答える。怯えた様子はなく、むしろ微笑んでいた。
「ふうん……“神子”ね。わたしとは、ずいぶん違う」
メレナは手を止める。掌に宿る赤い紋が、ほのかに光った。
それは“魔女”の印――世界の理に逆らって生まれた存在の証。
「村の人たち、あなたのこと……悪く言ってました」
セリューが慎重に言葉を選ぶ。「けど、それでも外で暮らせてるんだな」
「便利だからよ。わたしの魔法と薬草の知識がないと、あの村じゃ冬を越せない。
だから怖がられながらも“置いておかれてる”だけ」
メレナは笑う。その笑いは、どこか乾いていた。
沈黙が流れる。
リノアはそっと机の上の乾いた草花を見つめた。
小さな白い花。風に弱く、けれどどんな土地でも咲く。
「この花……どこかで見た気がします」
「昔、このあたりでよく摘んでた子がいたの。
おしゃべりでね、いつも“村の外まで行ってみたい”って言ってた」
メレナの声が、少しだけ遠くを見た。
その瞬間、視界がふっと霞む。
――過去の記憶が流れ込んでくる。
川辺を駆ける小さな影。
メレナはまだ年若い少女で、肩までの黒髪を結んでいた。
隣には、村の子――小さな赤髪の少女。
ふたりは秘密の探検に夢中だった。
「メレナ! あっちの森、すごく光ってる!」
「駄目よ、そこは……わたしたちの魔法が届かない場所なの」
「でも、キラキラしてるんだもん!」
手を伸ばした瞬間、少女の足が滑った。
水飛沫。
悲鳴。
けれど、メレナの魔法は“ここ”では使えなかった。
必死に手を伸ばす――届かない。
冷たい流れが、少女を呑みこんでいく。
――助けられなかった。
それがすべての始まりだった。
村は彼女を“呪われた魔女”と呼び、恐れた。
彼女もまた、自ら外れに小屋を建て、閉ざした。
世界の果てのような孤独の中で、季節だけが過ぎていった。
「それから……誰も近寄らなくなった」
メレナの声が戻る。
焚き火が小さく弾け、リノアは目を伏せた。
「……悲しかったですね」
「悲しい?」
メレナは肩をすくめる。「もう慣れたわよ。
人の目も、噂も、寂しさも」
その表情は静かだった。
けれど、リノアには見えた。
――心の奥にある、揺らめく色。
羨望と、憧れと、少しの嫉妬。
「ねぇ、神子。どうしてそんなに外の世界を歩けるの?」
「……え?」
「わたしたち“魔女”は、生まれた時からここに縛られてる。
それなのに、あなたは“聖痕”を持ちながら、自由に旅をしてる。
どうして、あなたばかり」
リノアは一瞬言葉に詰まる。
その問いには、答えがなかった。
けれど、彼女は静かに首を振った。
「……自由なんて、わたしにもないですよ。
わたしは“神子”だから旅をしてるだけ。みんなを導くために。
でもね、誰かを救いたいと思う気持ちは、あなたと同じです」
その言葉に、メレナの瞳がわずかに揺れた。
ゆっくりと目を閉じる。
――救いたい。
――でも、救えなかった。
ずっと繰り返してきた悔いが、ひとすじの涙となって頬を伝う。
「……そんなふうに、まっすぐ言えるなんて。あなた、ほんとに眩しいわね」
「眩しい?」
「ええ。まるで、わたしが忘れた太陽みたい」
リノアはそっと笑った。
メレナも小さく息を吐く。
――どこか、心が軽くなっていた。
その夜、
リノアたちは村の外れの丘で焚き火を囲んでいた。
メレナがくれた薬草の香りが、夜風に溶けて漂う。
「ねぇ、アデル。魔女さん、ほんとは優しい人だよね」
「……ああ」
アデルは静かに頷く。
その横顔を見て、リノアは少しだけ笑った。
「また会えるかな」
「……きっと」
――その約束が、遠い未来に何をもたらすか。
このとき、誰もまだ知らなかった。




