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StigmaPlunder  作者: 織倉こた
第一部
7/8

魔女の棲む村

 灰がかった雲が低く垂れこめ、陽の光が届かない。

 巡礼の旅を続けて数日、リノアたちは深い霧に包まれた村へとたどり着いた。


 村の名は《ウィリス》。

 地図にも載らぬ辺境の地――けれど、その分、神子の噂も届いていない。


「……なんだか、空気が重いね」

 リノアがつぶやいた。白い息が霧に溶ける。

 木造の家々は軋み、道端には誰の姿もない。


「病でも流行ってるのか?」

 アデルが周囲を見回すと、軒先の影から老婆が顔を出した。

 その眼差しは警戒に満ちている。


「旅人かい? なら、ここには長居しない方がいい」

「……どうして?」リノアが首をかしげる。

「“森の魔女”がいるんだよ。あんたたちも近づかないことだ。あの女に関わると、命を落とす」


 老婆はそう言い残して、扉を閉めた。


 リノアは黙り込み、セリューが苦笑する。

「物騒だな。どこに行っても“魔女”の噂はあるもんだ」

「でも、ただの噂で済ませるのは危険かもしれない」

 アデルの声は低い。

「……実際に何かが起きてる可能性もある」


 それでもリノアは、静かに前を向いた。

「魔女……どんな人なんだろう」


 ――その目は、怖れではなく興味に満ちていた。


 その夜、村の代表者が宿を訪ねてきた。

 白髪の壮年の男で、神子の巡礼を歓迎しながらも、声にはどこか怯えが混じっていた。


「この村の病を癒していただけるのはありがたい。しかし、どうか“北の森”には近づかないでください」

「北の森……そこに魔女が?」

「ええ。十年前からです。彼女は薬草を売って暮らしており、村も恩を受けています。だが、あの者は……普通ではない」


 男はしばし沈黙し、ぽつりと付け加えた。

「村の子をひとり、殺したんです」


 リノアの瞳がかすかに揺れた。


「事故だと聞いています」

「ええ、本人もそう言いました。けれど誰も、彼女の言葉を信じられなかった」

 男の声が掠れる。

「それ以来、誰も森には入らなくなったのです」


 話を聞き終えたあとも、リノアはしばらく黙っていた。

 セリューが先に口を開く。

「なあ、リノア。行く気なんだろ?」

「……うん。だって、村人が病気のとき、薬草を届けてくれているんでしょ? 悪い人ばかりじゃないと思うの」

「でも――」

「アデルもそう思うでしょ?」


 突然ふられ、アデルは目を瞬かせた。

 彼はしばらくリノアを見つめ、それからわずかに息を吐いた。

「……行くなら、俺も行く」

「だろ?」とセリューが苦笑する。「結局止められないんだ、俺たちは」


 翌朝。

 霧の晴れない空の下、三人は北の森へ向かった。

 木々は黒く、どこか湿った匂いを放っている。


「……静かすぎる」

 アデルの言葉どおり、鳥の声すら聞こえない。

 代わりに足元の土がぬかるみ、踏みしめるたびにぐしゃりと音を立てた。


「村の人が入らないっていうのも、わかる気がするな」

 セリューが肩をすくめる。

 リノアはそれでも進み続けた。


「……見て」


 霧の向こうに、小さな小屋が見えた。

 蔦に覆われ、屋根は苔に沈んでいる。

 けれど、花壇だけは手入れが行き届いていた。紫の花が、霧の中でかすかに光っている。


「ここが――魔女の家?」


 リノアは扉の前に立ち、ノックした。

 返事はない。

 もう一度叩く。

 それでも沈黙だけが返ってきた。


「……留守みたいだな」

 セリューが肩を回す。

「引き返すか?」


 けれどリノアは首を振った。

「中を少しだけ見てもいい? もしかしたら、薬草とかが手がかりになるかも」

「勝手に入るのは――」

「大丈夫、見るだけだから」


 アデルはしばらく迷い、結局頷いた。

 リノアが扉に手をかける。


 その瞬間だった。


 ――ごうっ。


 空気が爆ぜ、紅蓮の炎が立ち上がった。

 リノアの目の前に、火の壁が弾けるように出現する。


「リノア!」

 アデルがとっさに彼女を引き寄せた。

 炎の熱が頬を焼き、土が黒く焦げる。


 その中から、静かな声が響いた。


「……誰が、許可した?」


 声の方を見ると、木々の間からひとりの女性が歩いてくる。

 長い黒髪が風に揺れ、緑の瞳が三人を射抜く。

 腕には薬草の籠。


 その眼差しには、怒りでも敵意でもなく――ただ、冷たい諦めがあった。


「ここは、私の“領分”よ」

 そう言って、彼女――嫉妬の魔女メレナは静かに杖を下ろした。

 炎がしゅうっと音を立てて消え、森に再び霧が満ちていく。


 アデルは剣の柄に手をかけ、リノアを庇った。

 メレナの目がわずかに細まる。


「……神子、ね」


 その一言に、リノアの呼吸が止まる。


 ――そして、霧の奥で、鳥の羽ばたきのように小さな魔力の波が揺れた。


 焚き火の橙が、古びた木の壁に淡く揺れていた。

 村はずれの小屋。その奥で、黒髪の女が薬草をすり潰している。

 リノアたちは、少し離れた椅子に腰かけていた。

 先ほどの火の魔法の緊張がまだ抜けきらない。

 けれど、魔女――メレナはもう敵意を見せていなかった。

 

 「……で、あんたたちは、ただの巡礼者ってわけ?」

 「はい。『聖痕の神子スティリア』としての旅の途中です」

 リノアはまっすぐに答える。怯えた様子はなく、むしろ微笑んでいた。

 「ふうん……“神子”ね。わたしとは、ずいぶん違う」

 メレナは手を止める。掌に宿る赤い紋が、ほのかに光った。

 それは“魔女”の印――世界の理に逆らって生まれた存在の証。


 「村の人たち、あなたのこと……悪く言ってました」

 セリューが慎重に言葉を選ぶ。「けど、それでも外で暮らせてるんだな」

 「便利だからよ。わたしの魔法と薬草の知識がないと、あの村じゃ冬を越せない。

 だから怖がられながらも“置いておかれてる”だけ」

 メレナは笑う。その笑いは、どこか乾いていた。


 沈黙が流れる。

 リノアはそっと机の上の乾いた草花を見つめた。

 小さな白い花。風に弱く、けれどどんな土地でも咲く。


 「この花……どこかで見た気がします」

 「昔、このあたりでよく摘んでた子がいたの。

 おしゃべりでね、いつも“村の外まで行ってみたい”って言ってた」

 メレナの声が、少しだけ遠くを見た。


 その瞬間、視界がふっと霞む。

 ――過去の記憶が流れ込んでくる。


 川辺を駆ける小さな影。

 メレナはまだ年若い少女で、肩までの黒髪を結んでいた。

 隣には、村の子――小さな赤髪の少女。

 ふたりは秘密の探検に夢中だった。


 「メレナ! あっちの森、すごく光ってる!」

 「駄目よ、そこは……わたしたちの魔法が届かない場所なの」

 「でも、キラキラしてるんだもん!」


 手を伸ばした瞬間、少女の足が滑った。

 水飛沫。

 悲鳴。

 けれど、メレナの魔法は“ここ”では使えなかった。

 必死に手を伸ばす――届かない。

 冷たい流れが、少女を呑みこんでいく。


 ――助けられなかった。

 それがすべての始まりだった。


 村は彼女を“呪われた魔女”と呼び、恐れた。

 彼女もまた、自ら外れに小屋を建て、閉ざした。

 世界の果てのような孤独の中で、季節だけが過ぎていった。


 「それから……誰も近寄らなくなった」

 メレナの声が戻る。

 焚き火が小さく弾け、リノアは目を伏せた。

 「……悲しかったですね」

 「悲しい?」

 メレナは肩をすくめる。「もう慣れたわよ。

 人の目も、噂も、寂しさも」


 その表情は静かだった。

 けれど、リノアには見えた。

 ――心の奥にある、揺らめく色。

 羨望と、憧れと、少しの嫉妬。


 「ねぇ、神子。どうしてそんなに外の世界を歩けるの?」

 「……え?」

 「わたしたち“魔女”は、生まれた時からここに縛られてる。

 それなのに、あなたは“聖痕スティグマ”を持ちながら、自由に旅をしてる。

 どうして、あなたばかり」


 リノアは一瞬言葉に詰まる。

 その問いには、答えがなかった。


 けれど、彼女は静かに首を振った。

 「……自由なんて、わたしにもないですよ。

 わたしは“神子”だから旅をしてるだけ。みんなを導くために。

 でもね、誰かを救いたいと思う気持ちは、あなたと同じです」


 その言葉に、メレナの瞳がわずかに揺れた。

 ゆっくりと目を閉じる。


 ――救いたい。

 ――でも、救えなかった。

 ずっと繰り返してきた悔いが、ひとすじの涙となって頬を伝う。


 「……そんなふうに、まっすぐ言えるなんて。あなた、ほんとに眩しいわね」

 「眩しい?」

 「ええ。まるで、わたしが忘れた太陽みたい」


 リノアはそっと笑った。

 メレナも小さく息を吐く。

 ――どこか、心が軽くなっていた。


 その夜、

 リノアたちは村の外れの丘で焚き火を囲んでいた。

 メレナがくれた薬草の香りが、夜風に溶けて漂う。


 「ねぇ、アデル。魔女さん、ほんとは優しい人だよね」

 「……ああ」

 アデルは静かに頷く。

 その横顔を見て、リノアは少しだけ笑った。

 「また会えるかな」

 「……きっと」


 ――その約束が、遠い未来に何をもたらすか。

 このとき、誰もまだ知らなかった。

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