黄昏の果てに
夕陽が地平線に沈みかけ、世界が茜に染まっていく。
ルシェールの村を発って三日。
巡礼の旅を続けるリノアたちは、南東の街道を歩いていた。
風はやや冷たく、秋の匂いを帯びている。
旅の道すがら、リノアはときどき振り返っては、小さく微笑んでいた。
手に握るのは、村の少女が渡してくれた白い花。
「また来てね」と言われたその声が、まだ耳の奥に残っている。
けれど、アデルの手には何もなかった。
村人たちの視線は彼を避け、最後まで花を差し出す者はいなかった。
彼は気にしていないように見えたが、その眼差しはどこか遠くを見ていた。
セリューが口笛を吹きながら歩調を合わせる。
「……しかしまあ、旅ってのは思ったより足にくるな。なあアデル」
「慣れの問題だ」
「そっか。お前、意外とタフだよな」
軽口を交わす声が、茜色の風に溶けていった。
そんな中、リノアがふと足を止めた。
「……ねぇ、見て。あれ」
街道の先――一帯が黒く焦げていた。
木々は燃え尽き、地面には炭の粉が降り積もっている。
焦げた空気に混じって、鉄のような匂いが鼻を刺した。
近づくほどに、胸の奥がざわめく。
そこは、つい最近まで村だった痕跡を留めていた。
崩れた井戸。半ば溶けた石壁。焼け焦げた木造の家。
「……ひどい」
リノアが声を失い、手を口元にあてた。
その瞳に、赤い夕陽が反射して揺れる。
セリューが剣を抜き、周囲を警戒する。
「まだ煙の匂いが残ってる。燃えたのは数日前だ」
「人の気配は?」
「……ないな」
アデルは跪き、地面を指先で撫でた。
灰の下から、淡く光る破片が覗く。
それは砕けた**聖痕**の欠片だった。
(聖痕が……砕けている?)
通常、聖痕は肉体に刻まれたまま光を失うだけで、物質のように砕けることはない。
これは“人が殺された”というより――“力そのものが奪われた”痕跡。
「ここで、いったい何が……」
リノアの声が震えた。
その時だった。
風の音が止まり、世界が一瞬――静止した。
灰を踏む音が三つ。
アデルたちの背後から、ゆっくりと近づいてくる。
「旅の神子と、その護衛たちか」
低く落ち着いた声。
振り返ると、フードを深く被った三人の影が立っていた。
ひときわ背の高い男を先頭に、黒髪の少女と、幼い少年。
三人とも同じ布の外套を纏い、顔の半分を影に隠している。
「あなたたちは……?」
リノアが問う。
だが、返ってきたのは少女の声だった。
黒髪の少女が、フードの下から鋭い視線を向ける。
「“聖痕の神子”。あなたね?」
リノアは小さくうなずく。
「ええ、そうです。でも……どうして――」
「なら、話は早いわ」
少女は腕を振り上げ、灰が舞い上がる。
次の瞬間、風圧とともに地面がえぐれた。
「リノア、下がれ!」
セリューがリノアを抱え、跳躍する。
同時にアデルが抜剣――灰の幕を裂き、突進する少女の拳を受け流した。
火花が散る。
その隙に、少年が身軽に跳ね上がり、指を鳴らした。
土の塊が浮き上がり、弾丸のようにアデルへと飛ぶ。
「土属性の魔法……!」
アデルは咄嗟に回転し、剣で弾き落とした。
彼の動きは無駄がなかった。
戦いの記憶を持たないはずなのに、体が勝手に反応していた。
黒髪の少女が嘲るように笑う。
「へぇ……ただの護衛にしては、やるじゃない」
「お前ら……何者だ」
「名乗るほどのものじゃないわ」
その時、背後から重い足音。
フードの男が、ゆっくりと前に出てきた。
夕陽に照らされ、赤い髪がフードの隙間から覗く。
アデルの心臓が、一瞬だけ跳ねた。
(――この髪色……)
男の声は低く、しかし確信に満ちていた。
「巡礼を、やめろ」
リノアの瞳が揺れる。
「……あなたたちは、いったい何を――」
「これ以上、**聖痕**を広めるな。
それは救いじゃない。――呪いだ」
その声は、静かに響いた。
けれど、言葉の奥に確かな怒りがあった。
アデルが一歩前に出る。
「……なぜ、そんなことを言う」
男は短く息を吐き、フードの奥で赤い光を瞬かせた。
「……お前は、思い出していないのか」
「……何を?」
答えは返らない。
次の瞬間、男は掌を地に向けた。
地面がうねり、灰が竜巻のように立ち上がる。
視界が真っ白になった。
気づけば、三人の姿はもうなかった。
ただ、冷たい風だけが残る。
「……消えた?」
セリューが息を整えながら呟いた。
リノアは胸に手を当て、肩を震わせた。
「“呪い”って……どういうこと?」
アデルは答えられなかった。
灰の中に立つ赤髪の影が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
(あの声……どこかで――)
夜。
彼らは灰の村を少し離れた丘の上で野営していた。
焚き火の赤い光が、風に揺れている。
セリューは疲れたように腰を下ろし、寝息を立てた。
リノアは寝袋の中で丸くなり、まだ震える肩を押さえている。
アデルは見張りのため、焚き火から少し離れた岩に腰をかけた。
夜空は澄んで、星々が瞬いていた。
灰の匂いを洗うように、夜風が吹き抜けていく。
(“思い出していないのか”――か)
アデルは剣を膝に立て、月明かりに照らされた刃を見つめた。
そこに映る自分の目は、どこか他人のように冷たい。
(俺は……いったい、何者なんだ)
答えは出ない。
だが胸の奥では、何かが確かに疼いていた。
リノアの寝息が小さく聞こえた。
彼女の顔は穏やかで、まるで何事もなかったかのように微笑んでいる。
その姿を見ていると、アデルの心のざわめきが、少しずつ静まっていった。
(……守らなきゃな)
そう呟き、彼は剣の柄を握り直した。
風が吹き、焚き火の火がぱちりと弾ける。
その音が、まるで遠い記憶の扉を叩くように響いた。
アデルの背後で、夜の闇が揺れた。
誰も気づかないまま、赤い髪の影が一瞬だけ、木立の向こうで光を反射した。
だが、彼が気づくことはなかった。
風がすべてをさらい、闇が再び静寂を取り戻す。
その夜、アデルは一度も目を閉じなかった。




