灰の向こうに
夜の帳が降りる。
森の奥、風を遮る岩壁のもとに、三人は小さな焚き火を囲んでいた。
昼間のうちは陽光に包まれていた旅路も、夜になると冷たく沈む。
木々の間から覗く星は少なく、灰色の雲がその光を覆い隠していた。
火の粉が、ぱちりと弾ける。
リノアとセリューはもう眠っていた。
毛布に包まれ、焚き火の明かりの中で穏やかに呼吸をしている。
彼女の胸元では、小さな花がそっと揺れていた。
村を離れる朝、子どもからもらった“感謝の花”。
それだけが、彼女の手に残った温もりだった。
アデルはその光景から少し離れ、焚き火に背を向けて座っていた。
膝の上には剣。刃の手入れをしながら、彼は夜の静けさに耳を澄ませていた。
風が木々を撫で、どこか遠くで梟の鳴く声がする。
だがそれ以外には、何も。
まるで世界そのものが息を潜めているようだった。
火が弱まるたびに、アデルは枝をくべる。
そのたびに光が強まり、闇に沈む彼の横顔を一瞬だけ照らす。
(……あの村のこと、か)
脳裏に浮かぶのは、リノアの言葉だった。
“私は信じてるよ”
――その一言が、まだ胸の奥に残っている。
信じられるほど、俺はまっすぐな人間じゃない。
そんな思いを振り払うように、アデルは剣を鞘に戻した。
その瞬間、視界の端で何かが動いた。
闇の向こう、木立の隙間。
一瞬、赤いものが揺れたように見えた。
風か、それとも――。
剣に触れかけた指を止め、アデルは周囲を見渡す。
しかし、そこには何の気配もない。
ただ、夜の闇が深く息づいているだけだった。
ひとり、焚き火の傍へ戻る。
炎が揺れるたびに、木々の影が踊る。
そのたびに、過去の幻のような光景が頭をよぎる。
――燃え落ちる街。
――泣き叫ぶ声。
――光が消えた空。
胸の奥がざわめく。
だが、その記憶に名前はない。
ただ“懐かしい痛み”だけが残っていた。
ふと、衣擦れの音がした。
「……アデル?」
小さな声に振り向くと、リノアが目をこすりながら立っていた。
まだ半分眠そうな顔で、毛布を肩にかけている。
「起こしちゃったか」
「ううん……なんだか、寒くて」
そう言って、彼女は焚き火のそばに腰を下ろした。
炎の光が彼女の頬を赤く染める。
その横顔を見て、アデルはほんの一瞬、言葉を失った。
リノアは小さな包みを取り出した。
布の中には、あの白い花が一輪。
村の少女がくれた、感謝の印。
「この子、まだ咲いてるんだ」
「強い花だな」
「ふふ、たぶんね。小さな光でも、ちゃんと根を張ってるの」
アデルはその言葉を聞きながら、火の粉を見つめた。
「アデルは、眠らないの?」
「寝る気にならないだけだ」
「そっか……でも、ちゃんと休んでね」
しばらく沈黙が流れた。
風が焚き火をなぶり、夜空に火の粉を散らす。
リノアが、ふと星空を見上げた。
灰色の雲の切れ間から、ひとつだけ星が覗いている。
「ねえ、アデル。もしも光が消えたら、どうなると思う?」
唐突な問いだった。
だが、その言葉にアデルの胸がざわめいた。
「……光が消えたら、か」
「うん。たとえば、この焚き火みたいに」
彼女は火を見つめながら、小さく言う。
「もし消えたとしても、また灯せばいいよね」
その言葉に、アデルは何も返せなかった。
心の奥が熱くなるのを、ただ黙って押し殺す。
リノアは火を見つめたまま、微笑んだ。
「アデルは、どこか遠くを見てるみたい」
「……そうかもな」
「でも、私はちゃんとここにいるよ」
その笑顔が、炎よりも眩しくて。
アデルは思わず視線をそらした。
やがてリノアは「おやすみ」と小さく言って、毛布を抱えて戻っていった。
その背中を、アデルはしばらく見つめ続けていた。
夜が静かに更けていく。
焚き火の炎が細くなり、灰が白く沈む。
遠くで、風が灰を巻き上げていった。
――灰の向こうには、まだ見えぬ明日がある。
***
朝。
霧が森を包み、地面の草には冷たい露が光っていた。
アデルは最初に目を覚まし、剣を背負う。
まだ眠るリノアを見て、無意識に口元が和らぐ。
(……あの笑顔だけは、消したくない)
自分でも知らぬままに、そんな言葉が胸に浮かんでいた。
「おはよう、早いな」
背後から声がして振り向くと、セリューが眠たげな顔で立っていた。
いつもの軽い調子で肩を回しながら笑う。
「見張りか? 真面目だな。俺はてっきり、逃げ出したのかと思ったぞ」
「冗談が過ぎる」
「冗談じゃねえさ。昨夜のあの雰囲気、重すぎたろ」
セリューは手をひらひらと振って、火を起こし始めた。
「リノア、昨日より顔色良かったな」
「……ああ」
「お前の顔は逆に悪くなってるけどな」
「放っておけ」
ふたりの軽口に、朝の空気が少しだけ和らぐ。
やがてリノアも目を覚まし、簡単な朝食を取ると、三人は再び歩き出した。
霧が晴れ、木々の間から陽光が差し込む。
小鳥の声が戻り、遠くで川のせせらぎが聞こえた。
リノアは振り返り、手にした花を胸に抱いた。
それはまだ、しっかりと咲いていた。
***
森を抜ける頃、風が一瞬止んだ。
リノアが足を止める。
「……今、誰かいた気がする」
「魔獣か?」セリューが槍を構える。
アデルは静かにあたりを見渡した。
けれど、何の気配もない。
ただ、風が木の葉を揺らす音だけ。
「気のせいだろ」
「……うん、そうかも」
リノアは小さく笑って歩き出した。
アデルは一度だけ、振り返る。
その視線の先――遠く、丘の上で、確かに誰かがこちらを見ていた。
***
丘の上。
朝の光がまだ霞む中、三つの影が立っていた。
全員が深くフードをかぶり、顔は見えない。
「見つけたよ、アル」
軽やかな声。
青灰色の髪を肩で揺らす少年――ルークが笑う。
「ねえ、僕ら、ほんとにあの三人を追うの? 僕、面倒ごとは嫌いなんだけどなぁ」
隣の女――エリュシアが呆れたように息を吐く。
「ルー兄、文句ばっかり言って。拾ってもらった恩、もう忘れたの?」
「覚えてる覚えてる。でもさ、僕ってばこんなに可愛いのに、朝っぱらから森歩きとか酷くない?」
「はいはい」
エリュシアは髪をかきあげて、遠くの空を見つめた。
その瞳の奥には、かすかな熱が宿っていた。
「アルが言ったんだよ。“あの子を止める”って」
「……」
フードの奥から、低い声が返る。
アル――彼は何も言わず、遠くを見つめていた。
その隙間から見える赤髪が、朝日を浴びて揺れる。
ルークは小石を蹴り、ふと呟く。
「ま、恩もあるしね。僕ってば優しいから付き合ってあげるよ」
アルは短く笑った。
「……好きにしろ」
エリュシアはその声を聞いて、ふと焚き火の跡に目を落とした。
灰が朝露に濡れ、微かに湯気を立てている。
「ねえルー兄。灰って、燃え尽きたあともまだ温かいの、知ってる?」
「へえ、ロマンチックだね。誰に教わったの?」
「……アル」
ルークが一瞬だけアルを見やる。
だが彼は、何も答えなかった。
ただ、灰の向こうの空を見つめ、静かに言う。
「始めよう。――時間は、もう残されていない」
朝の光が三人の影を長く伸ばす。
風が灰を巻き上げ、空の果てへと運んでいった。
その向こうで、三つの運命が静かに交わろうとしていた。




