揺らぐ光
翌朝。
ルシェールの村は、まるで生まれ変わったように明るかった。
昨日まで静まり返っていた街道には、行き交う人々の声が戻り、井戸端には笑い声が響く。
「神子様、本当にありがとうございました!」
「おかげで娘が目を覚ましました!」
リノアは人々の声に笑顔で応えながら、ひとりひとりの手を握っていた。
その姿を見守るセリューは、どこか誇らしげだった。
一方で、アデルはその輪の外にいた。
昨日と同じ光景なのに、どこか息苦しかった。
(……眩しすぎる)
リノアの祈りが生み出した光。
それは確かに人々を救った。
だがアデルにとって、それは“触れることのできない世界”のようにも思えた。
「アデル!」
呼ばれて顔を上げると、リノアが駆け寄ってきた。
「おはよう! 今日は村の水源を見に行くの。まだ病の原因が残ってるかもしれないから」
「手伝うよ」
「ありがとう。でも、アデルは少し休んでて。昨日から顔色が悪いよ?」
「……大丈夫だ」
リノアは少しだけ眉を寄せ、それでもふっと笑った。
「じゃあ、頼りにしてるね」
その一言に、アデルは胸が少しだけ軽くなった。
昼過ぎ。
井戸のそばに集まった村人たちが、ざわめいていた。
どうやら、リノアとセリューが水質を確かめている間、何人かが“神子の奇跡”について語り合っていたらしい。
「俺も聖痕スティグマを授かったんだ! これで狩りも楽になるぞ!」
「やっぱり、信じる者には導きがあるんだな」
その中で、ひとりの男がぽつりとつぶやいた。
「でも……あの剣士の兄ちゃんは、印がないんだろ?」
「え?」
「昨日、子どもたちと遊んでた時に見たんだ。手にも首にも、どこにも光の印がなかった」
「……まさか、神子様の護衛なのに?」
たちまち、ざわめきが広がった。
「神子様に近づくために、偽ってるんじゃ……」
「いや、あの目、どこか怖かった。人じゃないような――」
ささやきは次第に形を持ち始め、いつの間にか“噂”へと変わっていく。
夕刻。
アデルが宿に戻ると、扉の前でリノアが待っていた。
彼女の顔には、いつもの笑みがなかった。
「アデル……少し、話がしたいの」
中に入ると、セリューもすでにいた。
静かな空気が張り詰めていた。
「……村の人たちが、あなたのことを気にしてる」
「俺のこと?」
「“聖痕がない”って」
アデルは短く息を呑んだ。
そうだ――自分には“印”がない。
リノアの祈りも、聖痕スティグマも、彼の体には一度として宿らなかった。
「誤解だって、私が説明した。でも……」
リノアは唇をかんだ。
「“神に選ばれぬ者”と一緒に旅をしているなんて、受け入れられない人もいるみたい」
「つまり、俺を外せってことか」
「そんな言い方しないで!」
リノアの声が震えた。
「私……あなたに聖痕スティグマを授けられなかったこと、ずっと気になってたの」
彼女の瞳が揺れる。
「もしかして、私の祈りが足りなかったのかも。聖痕の神子スティリアとしての力が、ちゃんと届かなかったのかもしれない……」
「リノア、それは違う」
「でも――」
「お前のせいじゃない」
アデルは静かに言った。
「俺には、もとから“何か”が欠けてるんだ。だから、届かなかった。それだけだ」
リノアは唇を噛み、うつむいた。
涙がこぼれそうになるのを、ぐっとこらえる。
「……それでも、私は信じてるよ。アデルはきっと、神様が導いてくれた人だから」
その言葉に、アデルは一瞬だけ目を閉じた。
そして――
「……ありがとな」
わずかに口元が緩む。
夜。
外に出ると、風が静かに木々を揺らしていた。
村の家々の灯りが一つ、また一つと消えていく。
アデルは剣を抜き、刃に映る自分の顔を見つめた。
そこに、リノアのような光はなかった。
ただ、冷たい鉄の輝きだけがあった。
(俺は……何者なんだ)
記憶を失っても、体に染みついた戦いの感覚。
誰に教わるでもなく扱える剣。
――そして、授かれなかった聖痕スティグマ。
そのすべてが、どこかで“繋がっている”気がした。
けれど、答えはまだ見えない。
アデルは静かに剣を鞘に戻した。
月光が彼の肩を照らす。
その光はどこか、寂しげに揺らめいていた。
――そして、夜が明けた。
村の入り口には、見送りの人々が集まっていた。
リノアは旅装束を整え、セリューと並んで立っている。
「神子様、どうかお元気で!」
「次に来るときは、また歌を聞かせてください!
子どもたちが花束を抱えて駆け寄る。
リノアはしゃがみ込み、彼らの手から花を受け取って優しく笑った。
「ありがとう。あなたたちにも、神の加護がありますように」
セリューのもとにも、村の男たちが集まっていた。
「あんたも助けてくれてありがとうな!」
「槍の腕、すげえな!」
彼は気さくに笑いながら、何度も握手を交わす。
――ただ、アデルのもとへ来る者はいなかった。
彼は少し離れたところで、静かに立っていた。
人々の輪に混ざることもなく、ただ見送られるリノアの背を見ていた。
リノアが振り返る。
その瞳がまっすぐにアデルを捉える。
「アデル、行こっか!」
その声は、まるで何もなかったかのように明るかった。
アデルは小さくうなずく。
言葉はなかったが、その一歩が、確かに旅の始まりを告げていた。
ルシェールの村を離れる三人の背に、朝の光が降り注ぐ。
リノアの腕の中の花束が、そっと風に揺れた。
その白い花びらが、アデルの足元に一枚、静かに落ちた。




