祈りの果てに
森を抜けると、陽光が一気に視界へと広がった。
風に乗って、麦の香りが流れてくる。
「……見えてきたな。あれがルシェール村だ」
先頭を歩くセリューが、遠くを指差す。
その先には、小さな風車がいくつも立ち並ぶのどかな集落があった。
青空の下、白い家並みがぽつりぽつりと点在し、のどかな風景が広がっている。
アデルは思わず足を止めた。
風に揺れる金色の麦畑。
その真ん中を、まるで道が導くように一本の街道が伸びている。
「静かだな……」
「病が流行ってるって聞いた。だから村の人たち、外に出てないんだ」
リノアが答える。彼女の瞳は少し曇っていた。
「病か……」
「ええ。水を媒介に広がる熱病。けど――」
リノアはわずかに笑みを浮かべる。
「だからこそ、神子の出番だよ」
村の入口に着くと、数人の村人がこちらに気づいた。
最初は訝しげだったが、リノアの姿を見るや否や、驚いたようにひざまずく。
「まさか……聖痕の神子様……!?」
老女が震える手で口元を押さえる。
その声に他の村人たちも気づき、瞬く間に人垣ができた。
リノアは慌てて両手を振った。
「え、えっと……そんな、頭を下げないでください! 私はただ――」
「神子様! どうか、どうか息子をお救いください!」
中年の男が涙を流しながら地に額を擦りつけた。
その腕には、ぐったりとした小さな少女が抱かれている。
「……わかりました。落ち着いて」
リノアはそっと少女に手を伸ばした。
その指先から淡い光が滲む。
村の広場に、いつしか人々が集まっていた。
リノアは中央に立ち、静かに祈りの言葉を唱える。
「神イフィルの御名において――導きを求める者に光あれ」
彼女の掌から溢れ出した光が、地を照らした。
金色の輝きが風に舞い、周囲の空気が柔らかく震える。
村人たちは息を呑んで見守っていた。
リノアが少女の額に手をかざすと、彼女の体から薄い煙のような影が立ち上り、ゆっくりと霧散していく。
やがて少女の頬に、ほんのりと血色が戻った。
「……う、うぅん」
小さく呻いた声が聞こえた瞬間、広場に歓声が湧いた。
「神子様だ! 本当に癒された!」
「奇跡だ! これが神の導きか!」
村人たちの喜びの声が広がっていく。
その輪の中心で、リノアは少しだけ俯いた。
「……ありがとう、神さま」
小さく呟くその声は、誰にも届かないほどかすかだった。
儀式は続いた。
リノアは一人、また一人と、**聖痕**を授けていく。
彼女が両手を重ね、祈りを捧げるたびに、淡い光が人々の肌へと溶けていった。
手の甲、肩、胸。人によって刻まれる場所は違う。
けれど皆、その光が現れた瞬間、涙を流して跪いた。
「これで……魔法が……!」
「ありがとう、神子様!」
人々の歓声の中、アデルはその光景を黙って見つめていた。
光は確かに美しかった。
けれど、その輝きの奥に、なぜか“冷たい何か”を感じた。
心の奥がざらりと軋む。
(……この光は、本当に“与える”ものなのか?)
そう思ってしまった自分に、アデルは戸惑った。
理由なんてない。ただ、胸の奥に拭えない違和感が残っただけだった。
日が暮れるころ、村の広場は静けさを取り戻していた。
リノアは少し疲れたように腰を下ろし、額の汗を拭う。
セリューが水筒を差し出した。
「ほら、飲め。だいぶ無理してただろ」
「ありがと、セリュー。でも大丈夫だよ」
「大丈夫そうに見えねぇけどな」
セリューは苦笑しつつも、どこか優しい眼差しを向けた。
彼はリノアの苦労を一番近くで見てきたのだろう。
その言葉の奥に、兄のような温かさが滲んでいた。
アデルは二人の会話を少し離れた場所から見ていた。
リノアの頬を伝う汗、安堵と疲労が入り混じった笑顔。
その姿は、まるで人ではなく“祈りそのもの”のように見えた。
夜。
村外れの焚き火のそばで、三人は夕食をとっていた。
麦のスープと干し肉、少しのパン。質素だが、どこか温かい食卓だった。
「アデル、どうした? 今日は妙に静かじゃねぇか」
「……リノアが、あんなに力を使って平気なのかと思って」
「ははっ、心配性だな。あいつは昔から無理しがちなんだよ」
セリューは笑いながら焚き火に木をくべた。
「……セリュー」
「ん?」
「リノアは、いつから“神子”なんだ?」
セリューは少し目を細めた。
「孤児院の頃から、少し変わってた。雨の日に拾われてな、いつの間にか“神に選ばれた子”になってた」
「孤児院?」
「ああ。俺もそこで育った。リノアはな、ああ見えて――強ぇんだ」
その口調には、どこか哀しさが混じっていた。
焚き火の明かりがリノアの頬を照らす。
彼女は眠らずに、静かに夜空を見上げていた。
「アデル。……さっきの村の人たち、笑ってくれたね」
「ああ。お前のおかげだ」
「違うよ。私なんか、ただ“渡してるだけ”だもん。光も、力も、みんな神さまのもの」
リノアはそう言いながら、少しだけ肩をすくめた。
「でもね、少しでも変われるきっかけになれればうれしいって思う……なーんてね!」
照れくさそうに笑うその姿に、アデルは不意に息を呑んだ。
月の光を受けて、リノアの赤みを帯びた瞳がやさしく輝く。
その光は、焚き火よりもずっと暖かく、どこか儚かった。
セリューの寝息が静かに聞こえる中、
アデルはもう一度、村を振り返った。
聖痕の光に包まれた村人たちは、今ごろ幸福な夢を見ているのだろう。
それでも――あの時感じた“違和感”は消えなかった。
導きの光は、果たして誰のものなのか。
人を救うためのものなのか、それとも――。
火の粉が一つ、夜空に弾けた。
アデルは静かに目を閉じた。
リノアの笑顔が、まぶたの裏で柔らかく揺れていた。




