拒まれた光
焚き火の炎が、夜の森を揺らしていた。
赤い光がアデルの頬をかすめ、木々の影が風に揺れる。
目を閉じると、耳の奥に焔のはぜる音がやけに近く感じられた。
――ここがどこなのか、なぜ倒れていたのか。
記憶はまだ霧の奥に沈んでいる。
「起きてて平気?」
柔らかな声に顔を上げると、火の向こうにリノアがいた。
焚き火の明かりを受けて、赤みのある瞳がほのかに光っている。
膝の上で両手を組み、祈りを終えたところらしかった。
「熱は下がったみたいね。よかった……」
「ずいぶん世話をかけてしまった」
「いいの。倒れてる人を見捨てるわけないでしょ?」
そう言ってリノアは微笑む。
その無邪気な笑顔が、アデルにはどこか懐かしく思えた。
「ま、神子様が拾ってくれたんだ。ありがたく思っとけよ」
少し離れた場所で槍を研いでいたセリューが、焚き火越しに笑う。
細身の青髪が炎に照らされ、ちらちらと揺れた。
「セリュー、またそれ。神子様って呼ぶの、やめてって言ったのに」
「いや、もう癖でな。悪ぃ悪ぃ」
二人の軽いやり取りに、アデルの口元が緩む。
この温度、この空気。
どこか遠い昔に感じたような安らぎを、かすかに覚えた。
「ねえ、アデル」
少し間を置いて、リノアが真剣な声で言った。
「君には、**聖痕**がないんだよね?」
「ああ。……それが何なのかも、正直よく分かってない」
リノアは焚き火の明かりに照らされながら、静かに言葉を紡ぐ。
「聖痕は、神が人に授ける力の印です。
私の使命は、巡礼の旅でこの力を人々に分け与えること。
魔法を使うために必要な“導き”の証なんです。」
その声は柔らかく、まるで祈りそのもののようだった。
アデルはその言葉を黙って聞いていた。
“神が力を与える”――どこか、耳慣れない響きだ。
けれど、彼女の語るそれが真実であることは、なぜか分かった。
「もし、君さえよければ……」
リノアは少し躊躇してから続けた。
「今夜、試してみようか? 聖痕を授ける儀式を」
アデルは少し迷ってから、頷いた。
「危険はないのか?」
「大丈夫。少し眩しいくらい。痛くはないから」
リノアは穏やかに笑った。
焚き火の光の中で、その笑顔は小さな灯のように見えた。
夜が更ける。
月が高く昇るころ、リノアは立ち上がった。
空気が張り詰め、虫の声すら遠ざかる。
「神イフィルの御名において――この者に、導きの光を……」
静かな祈りの言葉が響く。
リノアの掌が淡く輝き、金色の光がアデルの身体を包み込んだ。
柔らかな温もり。
それはまるで、世界の奥から差し込む朝日を浴びているようだった。
しかし、次の瞬間。
――光が途切れた。
音もなく、あっけなく。
輝きは空中で溶け、何も残さず消えていった。
「え……?」
リノアの瞳が揺れる。
もう一度祈りを唱える。けれど、光は戻らない。
指先の先で、空気が冷たく固まっているようだった。
「どういうことだ……?」
アデルが低く呟く。
セリューが立ち上がり、二人に近づいた。
「リノア、失敗か?」
「……わからない。こんなの初めて」
リノアは自分の手を見つめた。
震える指先に、まだ微かに光の余韻が残っている。
「導きが……届かなかった。……私の力が、足りなかったのかな」
そう呟いた声が、火の音にかき消された。
「気にするな」
アデルは静かに言った。
「俺が特別なわけじゃない。きっと、運が悪かっただけだ」
「ううん……私のせい。ごめんね」
リノアは俯きながらも、小さく笑った。
「もう少し修行が必要みたい。――次は、きっと」
その笑顔が、どこか無理に見えた。
夜が更け、焚き火の炎が小さくなっていく。
セリューは寝息を立て、リノアは少し離れた場所で眠っていた。
アデルは一人、空を見上げていた。
星が静かに瞬く。
目を閉じると、胸の奥で何かが微かに鳴る。
言葉にもならない、かすかな音。
“届かなかった導き”――
それが自分を拒んだのか、
それとも、別の何かがそれを遮ったのか。
答えは分からない。
ただ、心の奥に残ったのは、微かなざらつきだけだった。
翌朝。
冷たい霧の中で、リノアはもういつもの笑顔を取り戻していた。
「おはよう、アデル。今日は北の村に向かおう。そこに小さな礼拝堂があるんだ」
「無理はするな」
「ふふ、大丈夫。もう元気だよ。……昨日のことは忘れてね」
彼女はそう言って笑った。
アデルは頷き、肩の荷を背負う。
セリューが軽口を叩きながら槍を担ぐ。
「出発だ。村までは半日だぞ。寄り道すんなよ、神子様」
「もー、またそれ言う!」
三人の声が森の中に溶けていく。
風が草を撫で、遠くで鳥が鳴いた。
――拒まれた光。
それが何を意味するのかを知る者は、まだ誰もいなかった。




