目覚めの森
――音が、聞こえる。
木々を渡る風。鳥の囀り。
湿った土の匂いが鼻をくすぐる。
男は、ゆっくりと目を開けた。
見知らぬ森の中に、ひとり倒れていた。
冷たい地面。頭の奥が重い。
思い出そうとしても、何も浮かばない。
「……ここは、どこだ?」
掠れた声が森に溶けた。
自分の名すら思い出せないことに気づく。
胸の奥がざわめいた。
身体を起こすと、腰のあたりに金属の重みを感じた。
鞘に収められた片手剣――それは妙に手に馴染んだ。
柄の感触が懐かしいような、心を締めつけるような感覚。
無意識に鞘から引き抜く。
鈍く光る刀身。その根元、鍔の近くに、細い文字が刻まれていた。
『ADEL』
見覚えのない文字列。けれど、口に出した瞬間、胸の奥が反応した。
「……アデル……俺の、名前……なのか?」
確信も根拠もない。だが、そう名乗るべきだという直感だけがあった。
その瞬間、森の奥で低い唸り声が響いた。
木々の間から、漆黒の毛並みを持つ獣が姿を現す。
常の獣ではない。赤く濁った瞳と、歪んだ牙。魔獣だ。
アデルは反射的に構えた。
記憶はなくとも、身体は迷わない。
獣が飛びかかり、刃が閃く。
金属が肉を裂く音。だが、完全には止めきれない。
爪が肩を掠め、地面に転がされた。
(……まずい……!)
絶望の隙間に、眩い光が差し込んだ。
白い輝きが魔獣の身体を包み込み、鎖のように絡みついて焼き尽くしていく。
残響のように光が消えたあと、彼の前に二つの影が立っていた。
ひとりは白銀の衣を纏う少女。
金の髪が風に流れ、魅力的な赤みがかった赤い瞳がアデルを見つめていた。
もうひとりは長槍を携えた青年。背は高く、穏やかな眼差しをしている。
「大丈夫ですか?」
少女――リノアが声をかける。
その声音は澄んでいて、不思議と胸の奥に響いた。
青年が周囲を警戒しながら言う。
「リノア、まだ動くなよ。魔獣の残滓がある」
「わかってるよ、セリュー」
青年――セリューは槍を構え、魔獣の骸を確認すると、警戒を解いた。
リノアはアデルの前に膝をつく。
「怪我をしています。動かないでください」
「……助けてくれたのか」
「はい。巡礼の途中であなたを見つけました。
申し遅れました、私はリノア・ファルシータ。こちらは同行者のセリュー」
アデルはしばらく黙ったまま、剣を見下ろした。
刻まれた名を指先でなぞり、そして口を開いた。
「……俺は、アデル。そう、名乗っておこう。」
リノアは優しく微笑む。
「いい名前ですね。では、アデルさん。
よければ、少しの間ご一緒に。ここは魔獣の多い森ですから。」
その申し出に、アデルは小さく頷いた。
居場所も、記憶もない。だがこの人たちと行けば、何か思い出せるかもしれない――
そんな希望が、心の奥にわずかに灯った。
こうして、アデルはリノアとセリューの巡礼の旅に加わることになった。
彼自身も知らぬ、運命の始まりとして。




