第22話 タイカンの世界征服の野望(残酷な描写があります)
荒野に吹く風は、冬の刃のように冷たかった。
大地は長年の戦火で裂け、村の木々は枯れ、かすかに漂うのは焦げた肉と土の匂い。
魔王タイカンは、四天王を従えてその村に立っていた。
かつて人間が繁栄していた豊かな土地――だが今は人の心も荒れ果て、憎悪と恐怖が支配する場所だった。
「今日でこの村も終わりだ」
武の四天王・ブラチスが冷たく呟く。
背後には智の四天王ブリュックが地図を広げ、攻め入る順序を確認している。
闇の四天王ビジョンは寡黙に鎌を研ぎ、美の四天王ヴァルメは「血が服につくのが嫌」とつぶやいている。
タイカンは目を細めた。
世界征服など、もはや目前だった。人間を滅ぼし、その土地を支配する――それが自分に課せられた宿命だと信じていた。
「かかれ」
その一言で、村に残っていたわずかな人々は悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
母は子を抱え、老人は杖を投げ出して這いずって逃げ、男は命乞いを叫びながら門を叩く。
しかし、その混乱の中で――ただ一人、動かない女がいた。
彼女は、道の真ん中に座り込んでいた。
髪は絡まり、膝まで垂れ、泥と血と膿にまみれている。
片目は潰れ、もう一方の目も白く濁っていた。
腕には焼けただれた火傷が広がり、皮膚の裂け目からは虫が這い出している。
黒い斑点が全身に転移しており、それが死病の証だと誰もが分かっていた。
鼻をつく異臭に、兵士たちは顔をそむける。
「……なんだ、あれは」
ブラチスが眉をひそめる。
「病人か?放っておけ、剣を汚すな」
ビジョンが無言で頷き、鎌を止めた。
しかし、美の四天王ヴァルメだけが嫌悪を隠さず、「気持ち悪いわね……早く処分して」と言い放つ。
だが、その女は怯えることなく、逃げることもなく、ただ笑っていた。
震えるような声ではあったが、確かに笑っていた。
その笑いは諦めとも、祈りともつかぬものだった。
「……止まれ」
魔王タイカンが手を上げると、全ての兵士が動きを止めた。
静寂が降りる。
冷たい風が吹き抜け、女の髪を揺らした。
タイカンは女の前に歩み寄った。
自分を恐れぬ人間など、久しく見たことがなかった。
「なぜ逃げない」
低く、地を揺るがすような声で問う。
女は微笑んだまま、濁った目で彼を見上げる。
「……逃げる力も、残っていませんから」
「では、なぜ笑う。恐怖で笑っているのか」
「いいえ……」
女の声は震えていたが、確かに笑っていた。
「生まれて初めて、笑えた気がしたのです」
タイカンは目を細めた。
「貴様……何者だ」
「私は……パナメーラ。御機嫌よう旅の方」
女は息を吐き、淡々と語りだした。
異世界の恋愛ゲームから召喚されたこと。
家も親もなく、働いたこともなく、技術もなく。
食べるために体も尊厳も売ったこと。
戸籍がなかったせいで盗賊に攫われ、慰み者にされ、死病にかかり、奴隷として売られたこと。
そして、今ここで魔王軍に蹂躙されようとしていること――
「楽しかったことなんて、ありませんでした」
パナメーラは呟くように言った。
「笑ったこともなかった。でも、今こうして殺されると思うと、不思議と笑えてくるのです」
そして彼女は、諦めの笑顔を浮かべた。
「だから、もう……殺してください」
四天王たちは沈黙した。
ヴァルメさえも目をそらし、ビジョンは握っていた鎌を下ろした。
タイカンの胸に、かすかな痛みが走った。
それは、遠い記憶を呼び覚ます痛みだった。
――自分もかつて、そうだった。
異形の姿で生まれ、親に捨てられ、村から追われ、憎悪に満ちた世界で生き延びるために魔王となった。
守るものも、笑う理由もなかった。
ただ、力だけが生きる証だった。
だが今、この女は――自分と同じ目をしていた。
全てを諦め、なお笑おうとしている目。
その目に、タイカンは幼い頃の自分を見た。
「……立て」
低く、しかし確かな声でタイカンは言った。
「え……?」
パナメーラは力なく顔を上げる。
「死にたいなど、許さぬ」
タイカンは女の前にひざまずき、その顔を覗き込んだ。
「俺のそばで生きよ」
「……生きる?」
「そうだ」
タイカンの声は、戦場とは思えないほど優しかった。
「お前に本当の笑いを教えてやる」
パナメーラの潰れた片目から、一筋の涙がこぼれた。
初めて流した、生きたいという涙だった。
四天王たちはその光景を目撃して、息を呑んだ。
魔王が人間にひざまずくなど、見たことがなかった。
ブラチスは拳を握り、ブリュックは震える声で「魔王様……」と呟いた。
タイカンはパナメーラの体を抱き上げた。
腐敗した匂いも、虫の這う傷も、すべてそのまま抱きしめた。
タイカンはパナメーラの手を握り、冷たい笑みを浮かべながら低く言った。
「お前の心を征服してやる!それが――俺の世界征服だ!」
その目の奥には、かつて世界を滅ぼそうとした魔王の鋭さが残る。
しかしパナメーラには分かっていた。
その邪悪な顔の裏に隠された言葉は、世界を超えた愛の宣言なのだと。
そして彼女は、微笑みながらその胸に飛び込んだ。
その瞬間、魔王タイカンの心の中で何かが崩れ落ち、そして新たに芽生えた。
力は破壊ではなく、守るために使うもの――
世界を滅ぼすためではなく、ひとりの笑顔を守るために。
やがてタイカンは世界征服をやめ、畑を耕す男になった。
そしてパナメーラは、NPCのような笑顔を取り戻し、タイカンのそばで生きることを選んだ。
「旅の人、今日も畑の芋は元気ですよ!」
その声に、タイカンは心から笑うことができた。
世界征服を目指した魔王タイカンが、愛のために変わった瞬間――
それは、みすぼらしい奴隷の女の、諦めた笑顔から始まった奇跡だった。