第16話 ミュレーヌの夜
夕暮れ時。村の西の空が茜色から群青に変わりつつあるころ、ミュレーヌは台所に腰掛けていた。
椅子の背に優雅に身を預け、裾の長いドレスを美しく広げ、まるで晩餐会を待つ貴婦人のように動かない。
――が、ここは王宮ではなく田舎の家。しかも夕食の準備は完全にストップしたままだった。
鍋は磨かれ、まな板には野菜がずらりと並んでいる。火もおこされている。だが主役である彼女が動かなければ、すべては静止画のようだ。
「……だって、やる気が出ないんですもの」
小さく口にした言葉は、空気に溶けて誰にも届かない。
玄関の戸がギィと音を立てて開いた。
「ただいま! 今戻ったぞー!」
畑帰りのティガーが現れる。肩には丸々とした大根が二本、腰には鍬。全身が土と汗で光っていた。
その瞬間、ミュレーヌの瞳がぱっと輝いた。
ほんの一瞬だけ、心からの喜びが顔に出る。だが彼女は慌てて口元を引き結び、眉間にしわを寄せた。
「まあ! こんな時間までどこを歩いていたの? ほんとに……クズね!」
鋭い言葉が飛ぶ。けれど、体は正直だ。
立ち上がったミュレーヌは、棚から清潔なタオルを取り出してティガーの顔をぬぐい、上着を肩越しにすっと脱がせてやった。
「感謝なんていらないわ。私は好きでやってるんじゃないもの。ただ、私の目の前で汗まみれのまま座られるのが耐えられないだけよ!」
言葉と態度のギャップに、ティガーは苦笑しながらも頬を緩める。
上着を脱がせ終えると、再びミュレーヌは椅子に腰掛けて動かなくなった。
「……さて、そろそろ料理を」
「しないの?」
「もちろんするわよ」
「じゃあ、なぜ立たない」
「あなたが、まだ私を褒めていないからでしょう!」
ティガーは天を仰いだ。これが毎晩の“儀式”である。適切に褒めなければ、夕食は始まらない。
しかも、朝と同じ言葉を繰り返すと「手抜き」と怒られる。
「ええと……今日もお前の肌はすべすべだな」
「それ、朝に言ったわよね? 却下」
「す、すまん……じゃあ、その瞳は、まるで宝石を閉じ込めた湖のようで」
「ふん……まあまあね」
わずかに唇がほころぶ。
「く、くちびるが、夜の星よりも艶めいて……」
「……うふふ」
褒めポイントが溜まっていく。朝とは違い、十分ほどでゲージが満タンになり、ミュレーヌはようやく椅子から立ち上がった。
いざ料理となれば、彼女の手際は神業だ。
包丁がリズムを刻み、鍋に油が弾ける。今日はベルクスが吹き込んだ知識をもとにした「中華料理の日」。
回鍋肉の肉が香ばしく焼け、豆板醤の香りが台所を満たす。
麻婆豆腐が赤々と煮え、山盛りの炒飯が黄金色に輝く。
「熱っ! ……でも完璧」
油の飛び跳ねに小さく悲鳴をあげつつも、ミュレーヌの手は止まらない。貴族の晩餐に並んでもおかしくない料理が次々と完成していった。
祖母のパナメーラも忙しそうに、厨房を右往左往している。何かをやっているように見えるが、彼女は基本的には何もしない。ただ、右往左往するだけだ。
やがて食卓には家族全員と、そして乱入者――タイカンに忠誠を誓う美女四天王が並ぶ。
「この餃子、私のだ!」
「馬鹿者、先に狙ったのは私だ!」
「我が主の食卓で無礼を働くな!」
食卓は大乱戦。肉の取り合い、箸の交錯、皿が宙を飛ぶ。
その中心でミュレーヌが怒声を張り上げた。
「ちょっと! まだ私が『いただきます』って言ってないでしょ! 黙って座ってなさい、この下賎な愚民ども!」
怒鳴られた四天王たちは一斉に姿勢を正すが、その目は料理に釘付け。
ティガーは苦笑いしながら隣で小声を漏らす。
「結局、一番みんなに頼られてるのはお前なんだな」
その言葉に、ミュレーヌの頬はうっすら赤く染まった。
彼女は誇らしげに胸を張り、スプーンを手に取った。
こうして、戦場よりも騒がしい夕食が始まったのだった――。
夕食の戦場――いや、食卓の乱戦――が終わると、次に待っているのは地獄の後片付けタイムだ。
もちろん中心となるのはミュレーヌである。彼女は皿を片手にシンクの前に立ち、湯気と水飛沫をものともせず、まるで舞踏会の踊り子のように手を動かす。
「ちょっと! ソースをこぼさないでちょうだい! あなたたち、油物の食器に重ねないで!」
夕食時の戦闘が終わったばかりの四天王たち――ブラチス、ブリュック、ヴァルメ、ビジョン――はしぶしぶ手伝うが、指示が細かすぎて混乱状態。
ブラチスは力任せに皿をこすり、ブリュックは計算通りに水の温度を調整、ヴァルメは美しさを保ちながら布巾で拭き、ビジョンは静かに監視する。
祖母のパナメーラも忙しそうに、厨房をいつものように右往左往している。何かをやっているように見えるが、彼女は基本的には何もしない。夕食の準備の時と同じく右往左往するだけだ。
そしてカオスの中、ミュレーヌは怒声を浴びせつつ、手際よく皿を洗い終える。
「ミュレーヌさま……完璧すぎて怖い」
ヴァルメが小声でつぶやくと、ブラチスとブリュックも同意する。
ミュレーヌは小さく肩をすくめ、「当然ですわ」と返すが、その瞳には優しさが宿っていた。
さらに後片付けを助けるのは、意外な面々――聖女ミトスと小悪魔レミリアである。
「お手伝いするよー!」
レミリアは悪戯っぽく微笑みながらも、しっかりと皿を洗い、時折ミュレーヌの手元に水が飛んで悲鳴をあげる。
ミトスは清浄魔法を使えば一瞬で皿がピカピカになるのだが、「手でやる楽しさを大事にしたい」と言い、あえて魔法の力を控える。
ミュレーヌは「もっと丁寧に拭きなさい!」と怒鳴りつつも、その声は心からの笑みで包まれている。
普段の冷徹な悪役令嬢ぶりからは想像できない温かさ。これが、家族全員の心をほぐす魔法だった。
やがて後片付けが終わると、台所はピカピカ。床も光り、シンクもまぶしいほどに磨かれていた。
しかし、夜はまだ終わらない。
家族が寝静まる頃、夜の静けさが家を包む。
夜の家はすでに静まり返り、子供たちも四天王たちも眠りについている。夕食の片付けや家事の喧騒は消え、家全体が深い静寂に包まれた。
その中で、ミュレーヌはティガーの手をそっと引き、夫婦だけの寝室へと向かう。
ミュレーヌは布団の上に腰を下ろし、ティガーを手招きする。
彼が隣に座ると、彼女の乙女モードはさらに進行。顔を赤らめ、肩をすくめ、指先を膝に揃える。昼間の冷徹な悪役令嬢とは正反対の、無防備さ。
ミュレーヌはそれを聞くと、ふっと微笑み、軽くティガーの肩に頭をもたせかける。
「あなた……この私を見て、こんな顔を……本当に……」
言葉を途切れさせ、胸の奥で小さく溜息をつくミュレーヌ。ティガーは手を差し伸べ、指先でそっと彼女の髪に触れる。
布団に身を沈め、肩を寄せ合うと、ミュレーヌは完全に昼間の悪役令嬢モードを封印する。目を閉じ、微かに笑みを浮かべるその姿は、まるで無垢な少女。
ティガーはそっとその手を握り、胸に抱きしめる。昼間の罵声や家事戦争は遠い記憶のように思える。
「昼間の怒鳴り声も、今日の家事も……すべて、この笑顔のためか……」
再び心の中でつぶやくティガー。そう、昼間の鋭いミュレーヌも素晴らしいが、この乙女モードのギャップこそが、彼にとって最大のごちそう、つまり夫婦生活の一番の魅力なのだ。
ミュレーヌはふっと顔を上げ、ティガーを見つめる。瞳に宿る光は、昼間の威厳とは異なる柔らかい光。
「ふふ、甘えてばかりじゃダメですわよ……でも今日は特別ですの」
言葉に含まれる毒はわずかで、指先は優しくティガーの手を包み込む。
ティガーは思わず笑いを噛み殺す。昼間は鋭く強い悪役令嬢、夜はうぶで優しい乙女。二つの顔のギャップに、理性は吹き飛ぶ。
そして、少しイタズラっぽく、ミュレーヌはティガーの耳元で囁く。
「……私の夜の顔は、あなた専用ですのよ」
ミュレーヌはさらに甘えるように身を寄せるが、時折毒舌も混ぜる。
「ふふ、油断しすぎじゃありませんこと? でも……今日は許してあげますわ」
その毒と甘さの混じった微妙なバランスが、ティガーの心をくすぐり、笑いと幸福を同時に与える。
夫婦の寝室は、昼間の家の騒がしさをすべて忘れさせる異空間。
昼間の悪役令嬢モード、夕食後の家事戦士モード、そして夜のうぶな乙女モード――
すべての顔を持つミュレーヌこそが、ティガーにとって最大のごちそうであり、夜の寝室はその舞台である。