第15話 ミュレーヌの午後
昼下がり、ミュレーヌはいつものようにお買い物に出かける。
もちろん、淑女たるもの重い荷物を持つはずがない。
荷物持ちは必ず誰かしらが付き従うのが鉄則である。
今日はティガーが村の柵の補修に駆り出されているため、仕方なくカイエンが随伴役に任命された。
「母ちゃん、今日の買い物は絶対に銀貨一枚! 一枚だけだかな!」
出発前、カイエンはまるで遺言のように念を押した。
だがその言葉は、ミュレーヌの耳をすり抜け、風に紛れて消えていく。
カイエンは心底分かっていた。母に倹約を説くのは、海に向かって桶で水を撒くようなものだと。
村の商店街に到着すると、いつもの光景が広がる。
もっとも「商店街」といっても実際は二軒しかない。
それでも今日は、噂を聞きつけた行商人たちが十組ほど集まっており、皆が「我こそは!」とミュレーヌを待ち構えていた。
「奥方様! お美しい!」
「その瞳に映るだけで、我が品も輝きを増します!」
「その指! その爪! いや、爪の形すら芸術!」
褒め言葉の乱れ打ちである。誰も商品説明などしていない。だが、褒められ慣れているはずのミュレーヌも、つい気を良くしてしまう。
「まあ……ふふ、仕方ありませんわね」
そう言って、羽ペンを一つ、魔法書を一冊、籠に鍬や鋤まで次々と放り込んでいく。
ただし、食材に関しては別だった。
ミュレーヌは一つひとつ手にとって吟味する。その真剣さに行商人たちも息を呑む。
「本日入荷しました、東方の燕の巣でございます!」
「こちらは西方の黒トリュフ! 香りが違いますぞ!」
「千匹に一匹しか獲れぬ幻の銀鱗魚! いかがでしょう!」
カイエンの顔色は刻一刻と悪くなる。が、ミュレーヌは吟味の末に笑顔で購入する。
じゃがいもだろうが幻の食材だろうが、美味しそうなら即座に「ぽん」と籠に入れる。
「うちには、冷蔵庫も冷凍庫もありますから♪」
そう、ベルクスが作ったこの世界に存在しない文明の利器のおかげで、食材の大量買いが可能なのだ。
行商人たちの「まいどありー!」という景気の良い声が、村の空気を震わせる。
そのたびに、カイエンの顔から表情が抜け落ちていく。
買い物を終えた頃には、カイエンの腕には到底持ちきれぬ荷物が山のように積まれていた。
結局いつものように貸し馬車を借り、荷物を満載して家へと戻る。
なお、この馬車、ミュレーヌがほぼ毎日借りているため、今や「ミュレーヌ専用」と呼ばれる始末である。
帰り道、カイエンは金袋を開いて蒼ざめた。
「……金貨、八枚……」
普通の家庭なら金貨五枚でひと月暮らせるはずだ。だが今日の買い物だけで八枚が吹き飛んだ。
「うちの家計……終わった……」
カイエンの頭の中で、未来の自分が胃潰瘍で倒れる光景が走馬灯のように流れる。
先日ベルクスが妙に得意げに告げた一言が蘇る。
「我が家のエンゲル係数、九十パーセント突破したよ!」
「とほほ……」
カイエンの呻きは、貸し馬車の軋む音にかき消されていった。