第13話 ミュレーヌの朝
朝――まだ東の空すら白み始めていない時刻。
その屋敷の一室、豪奢な鏡台の前で、一人の女性が気高く笑っていた。
「オホホホホホ! 今日もこのミュレーヌの美貌に世界が震えるのですわ!」
そう、彼女こそミュレーヌ。かつて悪役令嬢と呼ばれた過去を持ち、今は伝説の一家を束ねる母である。
まず彼女が手に取ったのは、長男ベルクスが異世界の知識を駆使して開発した「魔導コテ」。風と火の魔法を組み込んだ最新式美容器具である。
コテを髪に当て、一気に縦ロールを作り上げていく。
その姿はもはや職人芸。数分後には、完璧なまでのマリーアントワネット風縦巻きロールが完成していた。
次は靴だ。
この村の土道にまったくそぐわない、きらびやかなハイヒール。足音が「カツ、カツ」と響けば、鶏も犬も振り返る。
そして最後に――化粧。
本来の素顔は、近所の子供たちが「お姉さん」などと呼んで慕ってしまうような、可愛らしい童顔の雰囲気の持ち主。だがそれでは悪役令嬢には似合わない。
「ここは、きりっと釣り目でないと……!」
アイラインを入れ、シャドウを強めに塗り、リップは真紅に。
気づけば鏡の中には「近寄れば刺されそうな貴婦人」が完成していた。
気合いの入った化粧にかける時間――実に一時間。
ようやく満足した彼女は、優雅に立ち上がり、食卓へと向かう。
そこには既に祖母パナメーラが椅子に座っていたが、起きてはいるのだが、ミュレーヌの顔を見ようともせず、表情も消えている。
ミュレーヌも何もいなかったかのように、そこでしたことは――座るだけ。
テーブルの椅子にふんぞり返り、脚を組み、食器も鍋も並んでいない食卓を眺めて微笑む。まるで「料理が勝手に整うのを待つ貴族」のように。
そこへ、元勇者ティガーが現れた。
「ふぁあ……ん? おお、ミュレーヌ。今日もなんと美しい……!」
まだ太陽すら昇っていない。だが彼はすでに妻を褒めちぎる態勢に入っている。
「ミュレーヌ、君の料理を僕は誰よりも待ちわびている。いや、家族だけじゃない、村の者も、いや大地の食材たちですら、君に料理されたいと震えているのだ!」
褒め言葉の雨霰。だがミュレーヌはすぐには動かない。
彼女には「褒めポイント」があるのだ。一定量溜まらなければ、動くことはない。
「もっとですわ」
「そ、そうか! ならば……君の髪型はまるで女神の彫像! 君の瞳は深淵なる宝石! 君の笑顔は千軍万馬を退ける!」
延々30分。ティガーは必死に賛辞を並べ立て、ついにメーターが満タンになった。
「オホホホホホ! しょうがないですわね! そんなに私の料理が待ち遠しいのでしたら、作ってさしあげますわ!」
高らかに宣言し、ついに立ち上がるミュレーヌ。
ティガーがミュレーヌを30分間ベタ褒めしている間、ミトスはそそくさとテーブルに着座していた。
最初は神妙に聞いていたが、だんだん退屈し、こっそりテーブルに肘をついて「まだ終わらないのですか……」と呟く。朝は低血圧なのか、聖女らしからぬ素の姿が見えた。
冷蔵庫、冷凍庫を開ける。そこにはベルクスが現代知識で整えた保存設備が並んでいた。普通の農家では考えられないほどの高級食材がぎっしり詰まっている。
カニ、フカヒレ、フォアグラ、高級野菜、希少な調味料。
彼女はそれらを惜しげもなく取り出し、手際よく調理を始めた。
外見こそ悪役令嬢然としているが、ミュレーヌは根っからの家庭的な女性。包丁さばきは華麗そのもので、鍋を振れば香りが立ち上り、味付けは完璧。
やがて――朝食とは思えぬ豪華なフルコースが完成した。
食卓に並んだ皿は輝いて見えた。
その頃には家族が続々と集まってきた。
そこに現れたのは、タイカン。
おはようと呟き、すぐに呟き出す。今日も畑仕事のことを考えているのか、存在感を十分に放っていた。四天王をどう活かすかなどブツブツと考えているようだ。
ここで、ようやく祖母が動き出す。にっこりと太陽のような微笑みで、「旅の人おはようございます!」と挨拶をする。
朝の挨拶は誰でも、「旅の人おはようございます!」と、祖母は言ってしまう。もう、完璧にホラーだ。ただ、みんなが慣れてしまったが。
そして最後に、最も遅れてベルクスが現れた。妹に叩き起こされ、寝癖を直す間もなく、背中を蹴られて食卓に押し出されてくる。
「いってぇ! ああ、でも妹の足蹴り……尊いかも……!」
そして、娘レミリア。笑顔で兄を蹴りながらの登場だ。
兄の存在を忘れたのか如く、「今日もお母様、きらっきらだねー」と言いながら着席。
そんなことを呟いてうっとりする姿に、家族全員の眉間にしわが寄ったのは言うまでもない。
やがて皆が席につき、朝食が始まった。
「やっぱりお母さんの料理は美味しいな」
「うん、最高!」
「ミュレーヌ、君は奇跡だ!」
次々と褒め言葉が飛ぶ。ミュレーヌは頬を赤らめる。
だが、そこは元悪役令嬢。素直に喜ぶことはできない。
「ふ、ふん! この程度、豚の餌の方がまだ美味しいですわ!」
強がるが、その表情は明らかに嬉しさでにやけている。
家族もそれを承知しているので、生ぬるい笑いが広がった。
和やかで幸せな食卓。
――ただ、一人だけ。
カイエンだけは青ざめていた。
彼の目はテーブルの上の料理と財布の中身を想像し、目が交互に行き来する。
「……この食材代、庶民の一ヶ月分……いや、二ヶ月かもしれないな……」
胃を押さえ、心の中で涙を流す。
そうして、今日もミュレーヌの一日は華麗に始まるのだった。