パンに想いを馳せる。
リネアは悩んでいた。
それはもう深刻に。
彼女は異世界転生者であった。
事故か何かで死に、気がつけば貴族の娘に生まれ変わっていた。
死んだ瞬間はイマイチ曖昧な記憶しかないが、前世の記憶は概ねはっきりと残っているし、両親も使用人たちもそのことを知っている。
父は穏やかで優しい人だ。
舌ったらずの幼い娘が「じちゅは、べちゅせかいの人間なんでしゅ」と突然打ち明けても、まるで天気の話でもするように受け入れた。
「なるほど。だから物知りなんだね、それは素晴らしいね」
と、ニコニコ笑った。
母はというと…
「面白いじゃないの!転生って本当にあるのね!?ねぇ、前の世界ではどんな魔法があったの?え、そもそも魔法はある?概念から教えて!ねえ!」
…と、リネアが幼い頃からこの調子であった。
リネアの眉間には、今日も深いシワが寄っている。
だが、今の悩みはそこではない。
ーーー
「……だめだ。どうあがいても、グルテンが強すぎる……」
手には焼きたてのパン。
カチカチで、ナイフの刃すら押し返してきそうな硬さ。
割ってみると中身はずっしり詰まり、もそもそとした茶色い生地が顔をのぞかせる。
一応、水に浸せば少しは柔らかくはなる。
だが、それは“スープのついでに、ようやく喉を通る”というレベルだ。
「お嬢様、パンは硬いものでございますよ」
通りがかったメイドのリシャが、いつものように微笑んで言った。
「……前の世界ではね、ふわっふわのパンが食べられたのよ。
この粉……たぶん、強力粉すぎるのよ。いや、むしろ強力粉しかこの世界って存在してないのかも」
リネアはため息をついて、粉袋を睨んだ。
ーーー
前世で読んでいた異世界ファンタジーでは、
「リンゴと小麦を混ぜたら天然酵母ができて〜♪」とか、
「発酵させたらふわふわのパンになった!」みたいなノリが定番だった。
当然彼女も試した。
酵母を育て、温度を管理し、石臼で小麦を挽き、ふるいまで自作して。
火加減、釜の構造、焼き時間、全部工夫した。できる限り、前世の知識を総動員して。
……それでも、できあがったのは。
「……全粒粉の、固いパンじゃないのよ……」
ずっしり、もそもそ、茶色いパン。
噛みしめれば滋味があるが、リネアが求めていた“あれ”ではない。
「くそっ……こんなはずじゃなかった……」
ーーーー
「またリネアがなんか悩んでる」
庭から声がした。
父、アルフォンス卿が花壇に水をやりながら、苦悩顔の娘を見て笑っている。
「少しは休んでもいいんだぞ?パン、美味しかったけどな」
「……ありがとう。でも、ふわふわのパンを、みんなで食べたいの」
リネアは顔を上げた。
思い出せ、リネア。
何が足りない?何が違う?
どうして、この世界のパンは全部カッチカチなの?
ーーこの世界…?
……そうだ地域!
気候!!
脳内に、前世の知識が閃光のように駆け巡った。
「そうだわ!…温暖な地域の小麦は、グルテンが少ない傾向がある。
つまり、ふわふわパン向きの“軟質小麦”が育つ可能性がある……!」
視界がぱっと開けた。
もしこの世界の南に、それに近い品種があるなら…
そしてその種をここに持ってくれば……!
「お父さまっ!」
「おお、急に声が元気になったな。何か閃いたのかい?」
「お願いがあるの。南方に行商に出てる商人、今この街に来てる?」
「来てるぞ。…いったい何を頼むつもりだい?」
「小麦の種!できるだけ南の、暖かい土地で育ったやつがいい。お願いできる?」
アルフォンス卿は、少しだけ驚いた顔をしたが、すぐに目を細めて笑った。
「……やれやれ。お前が欲しいというなら、いくらでも用意しよう。
リネアが焼くパンがどんな味になるのか、私も楽しみでな」
その手が、優しく彼女の頭を撫でる。
リネアは目を輝かせた。
この世界に……ふわふわのパンを根づかせてみせる。