入内取消宣言
友達からのお題。
自分史上最高に読みづらいし書きづらい作品になった
弥生上旬、巳の日。
上巳の祓。
宮中では人形に穢れを移し、川に流していた。後宮の一角、凝華殿。寡黙と噂される尚侍の殿舎、傍らに設えられた釣殿に女房たちが集まり、各々の人形を見せ合い、その流れていく様を眺めていた。
「星合の尚侍さまもそろそろ人形を流されては?」
星合は返事をせず、ただ脇息に扇を振った。すぐさま、一重梅の襲を着せた大きめの人形が差し出される。人形の大きさや纏う単は、生家の威信を表していた。実際、星合の人形ほど、流すのが惜しいと思われるような物は見当たらなかった。
自らも女房たちに加わろうと脇息から腕を離した星合は、視界の端に人影を捉え、扇の後ろで小さく溜息を吐いた。気怠そうではあるが、伏礼の所作は流れるようで美しい。
「いつ来てもここは賑やかだな」
女より数段低い声が降る。御簾の外に出ていた女房たちが慌てて地面に伏すのが見えた。
日嗣の御子として次の天皇の座を約束された、若宮である。
「良い、頭を上げよ。久しいな、星合」
「久しく」
「お久しぶりです、星合さま!」
淡々とした星合の声を遮って、甘ったるい声が響く。星合が態とわかりやすく眉根を顰めると、側付きの女房が口を開いた。
「……花少史も、相変わらず盛んであると、星合さまは仰せです」
「ありがとうございます!」
白けた雰囲気が辺りに漂う。
花少史。花柳左少史の一人娘であり、旧年の夏に下臈女房として宣耀殿に仕え始めたが、何の故あってか東宮の目に留まり、寵愛を受けている。父親が昇殿すらも許されない地下人(位の低い貴族)であるため、殿舎を賜ることもなければ、更衣として位を授けられてもいない。
東宮の寵愛が頼みの彼女はしかし、まるで後宮の主人のように振る舞っているのだった。
おずおずと、筆頭女房が口を開く。
「東宮さまはこちらには何の御用でお越しになられたのでしょうか。まだ、祓は終わっておらず……」
「……星合に頼みたき儀がある」
静かに、東宮は告げた。
「そなたの女御宣下を取り止めたい」
星合の後ろで、扇が布に落ちて柔らかな音を立てた。
女御宣下というのは、天皇により女御として叙されることを指す。星合は東宮の即位後、中宮に冊立される予定であった。
「父君に、左大臣に取り合ってはもらえぬか」
「何故」
「茅子を更衣に迎えたい」
茅子というのは花少史の本名だ。親しい人も子も知らず、配偶者しか知らないそれを、東宮が口にした。その意味するところは明らかである。
「星合さま、許してください! あたし、あたし、子供に幸せになって欲しいんです!」
更に幾つかの扇が落ちる。
「……茅子は私の子を身籠っているのだ。私は生まれてくる子供を親王、或いは内親王にしたい」
後ろで微かに呻き声がした。星合が視線を向けると、女房の一人が卒倒していた。
「そして、品位に叙したいのだ。出来るだけ早く」
漸く話が見えた。
通常、妃や皇子女の生活を支えるのは妃の生家である。しかし、花柳家は前述の通り下位貴族、末端であれど東宮の妃に相応しい品を揃えるなど出来はしない。このように母の身分が低ければ、皇子女は親王/内親王宣下を受けず王/女王の身分に留まり、多くの場合は仏門に入る。
しかし、生まれてきた皇子女が親王/内親王宣下を受ければ話は変わってくる。
品位に叙されれば、品田が支給され、品封を賜ることが出来る。少なくとも子一人母一人の生活を支えることはできるだろう。
「ー宿下りを為せと仰らるるか」
「ん? あ、いや、宿下りなど、そのようなことは申さぬ! ただ、茅子の子が生まれ、品位に叙すまで待って欲しいのだ」
それは一体いつだろう、と星合は思う。
子が生まれるまで十月十日。宣下を下すのも品位に叙すのも反対されるだろうから、少なくとも二年近くはかかるだろう。その間、ただ尚侍として在れなんて、随分と愚かしいことを言うものだ。
星合がいるから、松陽舎を認められたというのに。
「ー辞するを申し上ぐ」
「え?」
花少史の間の抜けた声が聞こえた。
「陣定にて我が父に建言せらるるべし」
「はへ?」
「先ず公卿をして服せしめたまえ。陣定において許さるるを得、主上の許しを蒙らば、我凝華殿を去らん」
「ほ、星合さま! 何を仰ってるんですか!?」
「いや、だが先ずは君に……というか、茅子にも分かるように言わないか!」
はて、と星合は首を傾ぐ。
ただ会話しているだけなのに、何故咎められているのだろう。もしや、背中を押すための言葉でも必要なのだろうか?
「固より、易くは成るまじ。花柳家は地下にして、堂上を差し置きて親王を生み奉ること、大臣必ず許さじ」
「うっ……やっぱり星合さまはあたしが気に入らないんですね、ぶつぶつと呪いみたいに何か言ってばかりで……」
「いや、茅子、そういうわけでは。星合!」
呪い???
現状を伝えただけなのに、何が問題なのだろう。まぁ、この現状は、彼女にとっては悪夢かもしれないけれど。
「それにても、花少史にして生まるる子に位を賜はんと欲せば松陽舎を奪はるるの御覚悟をなしたまえ」
星合、という怒声と軽やかな笑い声は同時だった。
「ー星合の君、余り弟を揶揄わないでやってくれ」
「兄上……!」「主上」
東宮と反対側からやってきたのは、時の天皇である。東宮との年の差は六歳、異母兄にあたる。
はしたなく音を立てて、東宮たちも拝礼する。
「良い、顔を上げて楽にしなさい」
聞いていたよ、といっそ面白がるような声音が響く。
「東宮、そこな女子を更衣に迎えたいそうだね」
「は、はい! 茅子は私の子を身籠っているのです!」
「うん、それで、星合の女御宣下を後回しにしたいんだね」
「はい!」
わかりやすく、二人の目が輝き始める。
「いいかな?」
「主上の御心のままに」
「愚弟財尽奪
如君言不虚
婦子依然在
全奪未是真」
「栄華非心好
泡沫空相依
愚心徒自惑
任爾逐虚輝。
「あ、兄上?」
「ああごめん、星合を叱っていたんだ」
星合は僅かに眉根を寄せる。嘘だとしても叱られるだなんて、腹立たしい。
「そうでしたか!」
「東宮に良きように取り計らおう。兄からの一番初めの祝福として、騒ぎになる間、宇治の別荘に行くことを許すよ」
「宜しいのですか!?」
「勿論」
東宮と花少史が手を取り合って喜んでいる。女房たちは目を白黒させていた。
御簾越しに目が合うと、主上は悪戯っぽく微笑む。
「今宵、訪う許可を賜らん」
星合は眉根を上げ、そっぽを向いた。主上は、今度は声を上げて笑った。
夜更である。
女房を下がらせ、星合は釣殿にひとりで佇んでいた。
「ー星合」
「主上」
星合は扇を翳したまま、主上に軽く頭を下げる。
「克仁は明後日に宇治に赴かんとす。宇治に至る途は近頃治安頗る悪しと聞く、故に懸念を禁じ得ず」
「酷烈なる御方にてましますなり。弟をして死地に赴かしめたまふとは」
「已むを得ざるなりや。愚かなるが故に」
「否むこと敢へてせず」
「……少し、砕けた話し方をしてもいいかい?」
星合は軽く眉を釣り上げる。
左大臣家の娘、隙は見せるなと育てられた。近頃新しく作られた話し方は知識として知っているが、伝統を尊べと言われ続けた星合にしてみれば、使いたいものではない。
そこで星合は目を見開く。
「よもや……」
「ん?」
「花少史……彼女は、この話し方しか出来ないのでしょうか」
主上は肩を竦めた。ただただ星合は驚いていた。
星合は生まれ育った時から、漢文口調以外は口にするな、と言われていたのだ。公卿の会議である陣定、諸々の定めある儀式では漢文口調を用いるから、身分ある者は仮名口調を用いないと思っていた。
花少史の為に、東宮は話し方を変えていたのだ。そこまでさせる恋というのは、どんなものなのだろう。
「貴族といえど花柳家は庶人と大差ない。陰陽師や古くからの武家ならいざ知らず、この話し方をする者は増えてきているからね。女房でも、この話し方しか解さぬ者がいるのではないかい?」
「……下女ならば」
「……そういえば左大臣はすごく過保護な親馬鹿だったね」
「は?」
「君の父君は君の為に最高の環境を作ってるって言ったのさ」
ところで、と主上は星合の手の中を指す。
「まだ、人形を流していなかったのかい?」
「是……女房が何人か卒倒して、大変だったので」
「おやおや」
一緒に流そうか、と誘われ目を瞬くと、私もまだなんだ、と主上は懐から人形を出した。星合は口元を綻ばせ、招かれるがまま隣に並び、人形を流した。
「……懐かしいですね。主上が我が家にいらした時のことを思い出します」
「覚えているよ。五年ほど前だったかな」
実は星合と主上ははとこにあたる。主上の伯父が子を残さないまま早くに亡くなったので、星合の父が後見人を務めているのだった。漸く大臣に上がり、その祝いの宴に態々足を運んでくれたのだ。
星合はその時裳着を済ませておらず、宴には参加しなかった。けれど楽の音を近くで聴きたくて音を頼りに歩いていたら、自分がどこにいるか分からなくなってしまったのだ。女房とも逸れ、泣き出しそうになった星合を見つけてくれたのが主上だった。泣き出しそうな星合を前にして慌て、綺麗なものをー蛍を見せよう、と釣殿に連れ出してくれたのだ。
けれど、あの時とは、色んなことが変わった。
被後見人と後見人の娘。
天皇と東宮の尚侍。
きっともう、同じような目線ではいられない。
「……主上。次の松陽舎には誰が入られるのですか」
「どうしようねぇ」
間延びした声に、星合は眉根を寄せた。
今上帝は御歳二十三。父帝の早世後十年間天下を治めている。即位後間もなく三人の妃を娶ったが、現在に至るまで、ひとりは里帰りして後三年以上後宮に戻って来ず、ひとりは皇女を死産した後儚くなり、今ひとりは孕まぬまま弘郗殿にいる。
今上帝には東宮の他にも二人弟がいるが、どちらも後ろ盾が頼りない。東宮を外すとなれば、一刻も早く子を成すことを求められるはずなのだ。
何故こんなに余裕で、と考えていた時だ。
名を、呼ばれた。
驚いて目を見開くと、主上は真剣な顔をしている。
「久しく、汝を恋うていた」
「主上」
「我の尚侍になりてはくれぬか」
恋とは、
「ー是」
言葉を超えてもその人を愛しく思うことを言うのかもしれない。
***
「ーこんばんは、左大臣」
聞き慣れた声音を耳にして、左大臣は振り返る。相変わらず胡散臭い笑みを浮かべた主君が立っていた。
「これはこれは主上、如何なさいましたか」
「織姫は彦星に出逢えたようだよ」
左大臣は片眉を跳ね上げた。
左大臣が掌中の珠として育てた星合ーその名の由来は、彼女が七夕の夜に生まれたことに依る。
「……最悪だ」
「私だけが今世で辿り着くことが出来る至上の位を与えられるというのに?」
お前だからだーと左大臣は口に出さなかったが、主上はそれを分かっているかのように言葉を続ける。
「私に与えたくないから、態々東宮が立つのを待って尚侍にしていたけれど……東宮が自ら位を降りると言うのだから仕方あるまい」
「態々花少史を宛てがった主上が仰る言葉ではないかと」
主上は口角を上げるに留めたーーだからこの若者は嫌なのだ。
弟も妃も、自ら片をつけ、ただ恋う者の為に舞台を整えるなんて。
これでは恐れた通り、星合が傾国になってしまう。
「星合の幼い夢物語を聞いて、それを実現するなど……そんな酔狂な若者にどうして任せられましょうや」
「ははっ、なかなかにいいじゃないか。后に一途に尽くす皇というのも」
「……お決めになられたのであれば、何も言うことはありません」
そうかい、と主上は微笑む。
「それではまたね、義父上」
ー遠からず星は堕ちるという予感がした。