くるまわしの壱
──死にたくない。
死にたくない死にたくない死にたくない
頭の中でガンガン鳴り響くこれは、もはや理性のそれではなく、脊髄に刻まれている本能。
獣と同じ、生存の本能だ。
「グクロロ。クロロ。クロログロロ」
眼前の獣が鳴く。幹を石で削るような、くぐもった声で鳴いている。
およそ全長3メドルほどだろうか。僕の身体はその獣の影にすっぽりと収まっていた。
「グロロッ、グクロロロロロッ」
狩りの結末は決している。僕の右肩と左の腹には大きな孔が開き、今も血を流している。
猿型魔獣『アグロ』の特徴は何と言っても右腕の鎌と喉の魔石だ。
喉を鳴らし幻惑を見せて獲物の意識を断ち、右腕の肘から伸びる鉄並みに硬くよく斬れる爪で命を断つ。
その爪のおかげで右腕はもう上がらないし、肩と腹が出血の大部分を占めているけれど、別に傷はそれだけではない。
無数の傷。霞む視界。左手で掴む剣の感触だけが最後の綱だ。
気力も体力も枯れている。だからこそ、脳内に響くのは本能の警鐘だけだ。
死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない。
逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ。
目の前の獣は勝利を確信している。
幼児のように楽しそうに喉を鳴らしている。
ああ、もう、僕に力はないよ。
死にたくないと逃げたいも心からの本心だ。
──だが!
剣を振り上げる力もない。
ここから逃げる最後の力もない。
何よりも、だ。
僕の後ろには女の子がいるんだぞ。
「護るべきを投げ捨てるくらいなら──」
──そんな僕は死ね──・・・
ヒト達は『そこ』を【魔大陸】と呼びました。
千年よりも前から、あの空を飛ぶ鯨の背に夢を描き、そして遂に飼いならしたのは五十年ほど前でした。
夢が叶えば彼らは次の夢を見るのです。
それが魔大陸。
鯨の背に乗り、空を泳ぎ辿り着いたのは未知の鉱石や魔石や草花のある天国であり、
地面から雷が舞い上がり。消えぬ竜巻が座す谷があり。神話や御伽話の登場人物である魔獣と呼ばれる獣が住まう地獄でした。
それでもたとえ地獄であろうとも、ヒト達の欲望は絶えません。
拠点を作り、更に奥へと中継拠点を作り、破壊されようとも再び作り。奥へ。奥へ。奥へと。
冒険者。科学者。調査者。
目的は違う。まあ、職業など言葉遊びですから。
誰も彼も、無垢な大地を踏み荒らす無法者には違いないのですから。
ま、それでもヒト達の計算では魔大陸全体の二厘ほどしか未だ開拓出来ていないそうですが。
その実はともあれ、それほどに小さき彼らには魔大陸は広く深く未知に満ちているのです。
さて、そんな魔大陸の【ケシェデア大森林】にて少女と少年が今まさに魔獣の餌になるところでした。
木の幹に体を預ける少女はもう気を失っていて、服のほとんどは乱雑に破け、全身は血に濡れています。
しかし、どちらかと言えば怪我が酷いのは少女をかばうように魔獣の前に立つ少年でしょう。
彼の右肩と左の腹には風が良く通っております。背中側から貫かれたようです。
少女を抱えて森を駆け、その最中に猿型魔獣アグロによって貫かれたのでした。
だから少女の服に付いている血も彼の血の方が多い。
右腕のほとんどが鎌のような形で骨なのか爪なのか、鋭利に硬質化していて。
それは容易く、少年の身体を貫き、カモシカの如く逃げる少年を地面に打ちつけました。
とうに勝敗は決しているのです。
少年の前に立つのは一匹のアグロですが、少年たちを囲むようにその他で四匹がいて、そしてアグロ達は少年の前で、森の影で、喉を鳴らして笑っています。
──グロロッ。 ──グロロッ。 ──グロロロロロ。
森の影からは死なない程度の大きさの石や木の実を投げつけ、少年の前に立つ個体はただ力を失っていく少年を嘲笑うように踊りました。
少年の大きな傷こそ二つの孔ですが、それ以外にも無数の裂傷に打撲。
右目はもう傷の腫れと乾いた血で開くこともままなりません。
獣の世界に娯楽は二つ。
狩りを終え皮を剥ぎ肉を裂き骨をしゃぶるのは勿論、獲物の今際の際とは最高の愉快なのです。
死に絶えるまでの慟哭も、命あるままに牙を立てるもモツを開いてみるも、最高の愉快なのです。
勝敗は決しているのですから、憐憫とか情けとか、そんな余分な脂肪はありません。
嬲り、嘲り、弄ぶ。──そう、もう遊びなのです。
燃える火が大きければ怖いかもしませんけれど、小さな小さなその火は手で掠めてみたり、口で風を吹いてみたりするのが楽しいのですから。
──グロロッグロロッ・・・グェロ?
少年はそれでも左手で掴む剣先をアグロに向け、辛うじて開く左眼で睨みつけました。
折れぬ心に勝者は何を感じるでしょうか?
アグロの群はそれを侮蔑に感じた様です。
ただの鳴き声ですが、それは彼らの言語。感情の乗ったその鳴き声は白けたのがあからさまに伝わりました。
「、ァァ。はぁ・・・く・・・」
「グオオオッ!」
影から正面から一斉に。余興の時間は終わりだと、四方八方からアグロの右腕が襲い掛かりました。
──刹那。
少年の身体は緋色の輝きを発しました。まるで燃え上がるような、朝日の煌めきのような、そんな光です。
「ほー?」
突然のフラッシュに息をのむくらいの時間が生まれましたが、カランと少年の剣が落ちた音で世界は時間を取り戻しました。
「おいゴア、変更だ。いくぞ」
「わかった」
仕切り直して、いざ調理の時が再開されます。
しかし。
「グ、ロ?」
ごとり、ごとり、ごとり、ごとり。どたり。
森に響いたのは──少年の服を裂くでも、骨を断つでも、肉を貫く音でもありませんでした。
四つの猿の首が落ちるのと、それと少年が倒れる音でした。
「グロァッ!グァッ!」
「うるせえよ。ゴールデンタイムは見極め時が大事だぜ、最高の瞬間を逃しちゃいけねえんだよサル公」
地に伏せた少年の傍には二人の冒険者が立ちました。
一人は巨漢。外から見える肩から先は岩です。岩のような筋肉ではなく岩です。
両手に持つ細く長い太刀魚みたいな剣で、飛び降りながらに森の影のサルを4匹の首を地に落としました。
一人は女。腰まで伸びた黒髪を大きな三つ編みにした眼光の鋭さだとか、口調だとか、サルに向かって中指立ててイキったり、あとチビで、あらゆる意味でなんとも幼い女です。
「ヴァイ、目標はオールグリーンだ」
岩の男は少年が守っていた少女の命を確認し、
「そりゃあ、上等。脳まで岩のカタブツは勿論、ドングリ脳みそのサルだとしても仕事はちゃんとしなきゃな」
「世にも珍しき筋肉の脳の奴もだな」
「アァ?」
「早く仕事をしよう。我々にとってはゴールデンタイムではないが、不毛な時間は減らし、有効に使うべきだからな」
「全くもってその通りだ。その有効ってのが酒に酔う岩って、最高にくだらねえってのが最高だよ」
唯一首の繋がったアグロを前にヴァイと呼ばれた女は拳を構えました。
前に出した左手は心臓よりも下、右手は肩と同じ。その構えは柔らかく、飛びかかる前の蛇が如く。
「グロァァァァァァァッ!」
先に動いたのはアグロでした。距離はたったの1メドル、少年の身体に孔を開けた右腕が鋭く襲い掛かります。
「──お、二滴か。やるじゃん」
ヴァイの人差し指が薄ら赤く染まる。
ただ、それだけでした。
ただ、それだけでアグロの一撃は止まってしまうのでした。
その魔獣の右腕はヒト族の柔な身体なんぞ、皮も肉も、骨すらも断つ鋭利さを有しています。
速度が足りなかったわけでもありません。威力は十分、姿勢も十分。
しかし、それは小娘の細指の腹で押さえられてしまいました。
「じゃあ、いくぞ?」
トン、と。アグロは軽く押し返されました。
しかし、アグロは既に必殺の一撃を軽く受け止められて木の実のようなオツムはパニックです。
たったそれだけで容易に獣の体勢は崩れてしまいました。
そして、それが終わりでした。
顎に右フック、次に左ストレート。
「カラシキ──」
短い魔術詠唱。しかしそれは焔が爆ぜるでもなく、水が流れるでもなく、地が隆起するでもなく、魔術効果は発現しました。
ヴァイは何もない空を確かに握ると、右手を振り上げます。
その拳は首の前を掠めただけ。それだけで、獣の頭は身体から離れて地面に落ちていきました。
右手近くの虚空にはアグロの血が、まるで刃を伝うようにゆっくり垂れています。
「おい、ゴアっ!帰るぞ」
「女とサルとついでのガキは」
「何が聞きたい?全部お前が運ぶに決まってんだろ」
「だよな」
右の拳を解くと魔獣の血は一斉に地面へと落ちました。
ヴァイという女はそのまま歩きだし、その後ろをダゴというゴーレムの男が続きます。
左腕一つに魔獣が五匹と少年を、右腕では赤子を包むような優しさで少女を抱えながら。