六八 第二章・グレートゲーム イリオン人民社会主義連邦による対日交渉とその反応
六八
夏に入り樹々の葉の色合いも鮮やかに彩りはじめたルクシニア帝國の帝都イクナイオンで、イリオン人民社会主義連邦からあらたに派遣された大使が、日本大使館に挨拶のため訪問していた。
「このたび駐ルクシニア大使として赴任いたしました、イレネ・レウ=ミツォキスと申します。今後はニホン国との友好関係構築のため、互いを尊重しあうかたちで対話をおこなってゆきたいと考えておりますわ」
駐ルクシニア大使の須藤哲貞大使にむかって、温かみのある色合いの豊かな金髪を頭の後ろで結い上げた森妖精族の女性が、にこやかに微笑んでいる。歳のころあいこそ二十代後半に見えるが、実際の年齢がどれくらいかはエルフ族だけに見当もつかない。
自分が人族の雄から見て魅力的な容姿と容貌を有していることを自覚しているとおぼしきレウ=ミツォキス大使は、微笑んだまま背筋を伸ばし両手をスラックスのひざの上において、
須藤大使にむかって軽く目じりを下げてみせた。
「日本国駐ルクシニア大使の須藤哲貞と申します。今後は貴国と日本国の間で国交開設のための交渉を担当させていただきます。以後、よろしくお願いいたします」
とはいえ須藤大使も、地球世界で外交の第一線に立ち続けたベテラン外交官である。コーカソイド系の美女美少女が近づいてきたことなど、それこそ両手の指では足りないていどには経験があった。
須藤大使は、そのおもてにあいまいな笑みをはりつけたまま、まずは牽制の球を放ってみた。
「前任のエラ=ファウロ大使からは、繰り返し国交開設とタマラム諸島領有の承認を求められていました。大使も日本国に対し、同様の要求をくりかえされるのでしょうか?」
つまり、日本国の「遺憾砲」を喰らって国家経済が混乱している今も、前任者と同じ態度をとるのか、という問いかけである。
須藤大使は、現時点でイリオンが日本に対して圧倒的に劣勢であることをレウ=ミツォキス大使が自覚しているのか、それを確認しようとしたのだ。
「もちろん、基本的にそのつもりですわ。ですが、前任者よりニホン国が、このルクシニアでタマラム共和国政府を自称している政治団体に、タマラム諸島の統治権があると主張していると聞いております。そしてその主張を、連邦政府も大筋では認めてよいと考えておりますの」
「なるほど。イリオン政府が歩み寄りの姿勢を示してくださったことに感謝します。それで、タマラム共和国政府の承認のための条件を、おうかがいしてもよろしいでしょうか?」
「もちろんですわ。連邦政府は、タマラム共和国政府に対し、政治および軍事顧問団の受け入れと、善隣友好条約および防衛協力条約の締結を要求いたします」
須藤大使は、さすがにイリオンも、これまで通りの主張ではいつまでたっても日本と対立したままである、ということを理解したのだと納得した。
とはいえそれで出してきた条件が、イリオンによるタマラムの実質的な保護国化である。これで譲歩したつもりでいるのだから、須藤大使としても甘い顔をするわけにはゆかない。
「なるほど。現時点でタマラム諸島を実効支配しているのはイリオン人民連邦であり、それ故にタマラム諸島に対する影響力は保持したい、とおっしゃるわけですか」
「そういうことになりますでしょうか。ご理解いただけたようで幸いですわ」
すらりとしていて、そのうえで女性らしい丸みをおびた身体を強調するように姿勢を変えたレウ=ミツォキス大使にむかって、須藤大使はあいまいな笑みをはりつけたまま言葉を続けた。
「イリオン人民連邦政府の要求はうかがいました。では、あらためて日本国から、国交開設についての条件を提示させていただきます。これは日本政府の決定であり、条件が取り下げられることはないとご理解いただきたい」
「わかりました。うかがいましょう」
「日本政府は、タマラム共和国が主権国家として独立し、国民投票によって選出された政府による統治がおこなわれることを希望します。そして、タマラム諸島周辺海域が公海として開放され、無害航行権と自由航行権が保障されることを強く要望いたします」
「……自由航行権、ですか?」
「はい。基本的に日本政府は、公海を航行中の船舶はその船籍を置く国の領土の延長である、と法的に位置づけております。それゆえ、タマラム諸島周辺海域を公海として開放し、他国による正当な理由無きその船舶の権利の侵害を、おこなわないおこなわせないと、保証されることを要求いたします」
須藤大使の言葉にレウ=ミツォキス大使は、わずかに笑顔がひきつってしまった。
そして須藤大使は、彼女のその隙を見逃さなかった。
「そして日本政府は、タマラム共和国の独立を支援するため、諸島内の治安が回復し、周辺海域が安定化するまで、多国籍軍の駐留を要望するものです。なお多国籍軍には、ルクシニア帝國と日本人民共和国が参加するむね、両国より前向きな回答をいただいております」
イリオンが日本の「遺憾砲」を喰らって混乱しているあいだ、須藤大使、ひいては日本政府も何もしていなかったわけではない。ルクシニア帝國政府と日本人民共和国政府と協議し、タマラム共和国の独立と安定化のための平和維持部隊を派遣することで、意見のすりあわせをおこなっていたのだ。
つまり、イリオンが名目上の領有権をあきらめてみせても、実質的な統治権を放棄しないことを見越して、タマラム共和国再独立のための法的手続きを実行するための軍事力の展開をおこなうということで、三ヶ国の意思を統一したのである。
あいまいな笑みを浮かべている須藤大使の言葉を理解したレウ=ミツォキス大使は、ぎゅっと両手でスラックスを握りしめて内心の激情をおさえこむと、ひきつった笑みを整えなおして返答した。
「現在ラマラム諸島を実効支配しているのが我が国であることは、ご理解いただけているわけですね?」
「もちろんです。ですが、タマラム共和国は転移国家であり独立国であり、その主権を同じ転移国家である日本は尊重する義務があります。少なくとも中央海とその周辺に、法治と自由主義経済をゆきわたらせることが日本政府の基本的な方針であることを、イリオン政府にもご理解いただきたいものです」
須藤大使がレウ=ミツォキス大使につきつけたのは、中央海は日本の勢力圏であり、その支配の脅威となる存在を認めるつもりはない、という覇権国家としての姿勢であった。
法治と自由主義経済は、人民社会主義を標榜し「指導者原理」によって「党」指導者の意思が全てに優先されるイリオンにとっては、絶対に受け入れられない国家制度である。いうなれば須藤大使は、レウ=ミツォキス大使に向かって、日本国は今のイリオン人民連邦に対して絶対に友好的な態度を示さない、と言い放ったにも等しい。
「……日本政府の要望は、たしかにうかがいました。本国に報告し、検討させていただきましょう」
「是非とも前向きな返答を期待しております。日本国は、他国の主権を侵害している武装勢力に対し、石油等の戦略資源の供与を認めることはいたしません。そのむね、ルクシニア帝國政府にもご理解いただいております」
あまりにも露骨な脅しに、さすがに笑顔をとりつくろえなくなったレウ=ミツォキス大使は、そのおもてから表情を消した。彼女の青い瞳には、激情が炎のごとくにともり強い光を放っている。
「……イリオン人民社会主義連邦は、人民の正当な支持を受けた独立国家です。そのことは何度でもくりかえさせていただきますので」
「当然、それは理解しております。ですので、日本とイリオン、両国の間で一日も早く国交が開設されることを希望いたします」
須藤大使の斬り返しに、レウ=ミツォキス大使は何も言い返せずに、日本大使館を去るしかできなかった。
駐ルクシニア大使として派遣したイレネ・レウ=ミツォキス大使から送られてきた報告書を読んで、イリオン人民社会主義連邦の外交長官は、執務室内から全ての職員を退出させると、両手を執務机の上に叩きつけて言葉にならない叫び声をあげた。
レウ=ミツォキス大使からの報告書には、日本側の要求が簡潔にまとめられており、それは事実上のイリオンへのタマラム諸島放棄の要求であったからだ。そして現時点でも日本政府は、イリオン人民連邦を「不法にタマラム共和国領土を占領している武装集団」とみなしており、連邦政府の要求に耳をかたむけるつもりがない、と明言したのである。
「法治だの、自由主義経済だの、我が国の歴史もなにも知らぬくせに、毛無し猿どもめが!!」
ようやく意味ある言葉を叫んだ外交長官は、今度は両手で頭を抱えて机の上につっぷした。彼が「党」指導者から厳命されたのは、日本国と国交を開設し、タマラム諸島を連邦の主権の及ぶ土地と認めさせることである。だがあらためてはっきりしたのは、日本政府はイリオン政府に対してなんらかの譲歩をするつもりが一切無い、という厳しい現実であった。
元々の計画では、タマラム共和国を形だけ再興させ、しかる後にイリオンの政治顧問団の「助言を受けた」タマラム政府が、「自主的に」イリオン連邦に邦国として参加することで、タマラム諸島をイリオンの領土にする、という流れであったのだ。
だが日本側は、独立したタマラム共和国の安定化のためと称して、ルクシニア帝國と日本人民共和国なる転移国家の三ヶ国で軍事占領をおこなうことを要求してきたのである。そんな事態を許しては、とてもではないがタマラム共和国が「自主的に」イリオン連邦の邦国になることなぞ、絶対にありえなくなってしまう。
この報告書を「党」指導者に開示するべきか否か、外交長官は苦悶の表情を浮かべながら思考をめぐらせた。外交長官としては、当然今回の日本側の主張を報告し、「党」指導者の判断をあおがねばならない。だが、すでに「党」指導者の命令は下っているのである。
一度命令を受領しておきながら「できませんでした」と報告することは、命令不履行であり、けん責の対象となる。そして処罰されるのが自分のみにとどまらず、家族にも類が及ぶとなれば、正直に現状を報告することがためらわれるのも仕方がない。
「……再来年、再来年になれば連邦軍の攻勢準備が整う。そうなれば、帝國に譲歩をせまることもできるはずだ。帝國が妥協すれば、ニホンもそれにならうしかない。それまで、なんとしても交渉を引き延ばすしかない」
焦点の合っていない瞳で執務机の上の報告書を見つめながら、外交長官はそう決断をくだした。
駐ルクシニア大使の須藤大使から、イリオン人民連邦との交渉の経過について報告を受けた赤松永歳外務大臣は、何度かそれを読み返してから、外務省の局長級以上の幹部を招集した。
東京都千代田区霞ヶ関にある外務省庁舎の会議室に集まった皆を睥睨し、赤松大臣は一息吸ってから声を発した。
「駐ルクシニア大使館から、新しいイリオンの大使についての報告書が届いた。皆も概要は聞いているだろうが、あらためて確認したい。北方大陸局長」
「はい、大臣。先日、イリオン人民社会主義連邦を自称する団体より、帝都イクナイオンに新しい大使が派遣されました。お手元の資料の二枚目をご覧ください。イレネ・レウ=ミツォキス、女性であり、過去イクナイオンに外交官として派遣されていたことが、ルクシニア政府によって確認されています」
地球にいた頃は欧州局に所属していた外交官であった北方大陸局長は、抑揚のうすい声色で淡々と解説を続けてゆく。
「今回のイリオンの新任大使から、タマラム諸島の領有権について、彼らにとっては譲歩となる提案がありました。タマラム共和国の再興を認める代わりに、連邦の保護国にしたい、という内容です」
北方大陸局長の言葉に、列席している外務省幹部たちから失笑じみた声がもれる。
「やり口としては、ソ連のそれとほぼ同じとみてよろしいでしょう。善隣友好条約を締結し、軍事顧問団を送りこんで国軍を事実上掌握し、その後自分達の都合の良い人間を政府首脳にすえて自国の要求をのませる。形式的には独立を保ちつつ、実質的にはイリオンの衛星国化する、というわけです」
「それを我が国が認めると思っているのか、彼らは?」
「これまでイリオンとの交渉と、ルクシニア帝國からの情報から判断しますと、これでも彼らは相当譲歩したつもりでいるようです。少なくとも戦争で獲得した領土を放棄するようなものですから」
そこまで語った北方大陸局長は、はじめて感情らしきものをそのおもてに浮かべた。
「ロシアや中共と同じです。一度でも軍靴で踏みしめた土地は全て自分達の領土、という認識なのでしょう。その意味では典型的な大陸国家であり、全体主義国家であるかと」
侮蔑に満ちた声色でそう言い切った北方大陸局長は、一度口をつぐんで表情を消すと、あらためて資料に目を落とした。
「そして、新大使からは、我が国に対する正式な抗議や非難は発せられていません。明らかに、現時点での両国間の緊張の激化を、避けようとする姿勢を見せています。やはり先日の「遺憾の意」の表明からの経済的嫌がらせが効いたと、判断してよいと考えます」
以上です、としめくくった北方大陸局長は、静かに椅子に腰をおろした。
「解説ありがとう、北方大陸局長。では本題だ。イリオンに対する今後の対応の方向性を確認したい」
続いて立ち上がった赤松外務大臣が、列席する皆に視線を送りつつ、そう口にした。それに全員が軽くうなずいて了承の意を返し、外務省として今後の対イリオン外交についての方向を決めるための話し合いがはじまった。
お盆の時期も過ぎ、外患陰謀罪で逮捕された容疑者の裁判が各地ではじまる中、赤松外務大臣は永田町の首相官邸を訪問していた。
「総理、イリオンの新しい駐ルクシニア大使についての報告書です。なんでもえらい美人を送りこんできたそうですな。向こうもなりふり構っていられないくらいには、追いつめられているんじゃあないか、と外務省では判断しました」
「ありがとう、赤松さん。うん、なんかやり口がソ連や中共を思わせるねえ。やっぱり社会主義国家は、どこも人間の欲望を煽ってその隙をねらうのが習性なのかねえ」
「全体主義国家は、基本的に欲望の自由を認めませんからな。だからこそ、抑圧された欲望を開放することそのものが報酬になるのでしょう。で、開放したら開放した分のツケを取り立てようとするわけです」
赤松外相が持ってきた報告書に目を通しながら早河太一首相は、その悪人顔を楽しそうにゆがめて、戦後日本にとっての最大の敵国とくらべるようにイリオンのことをこきおろした。
そんな早河首相の言葉に同意するように、赤松外相もそのエネルギッシュさを感じさせる容貌をくずして嗤い顔を浮かべてみせる。
「とりあえず現地の大使館には、イリオンがどんな謀略をしかけてくるかわからないから、特に注意をはらうよう伝えてもらえるかな?」
「それはすでに訓令として発してあります。というより、まずは接待や贈答品で関心を買い、そこからハニトラや賄賂で篭絡しようとしてくるのは確実ですからな。そこはくりかえし注意を喚起しております」
赤松外相の返事に早河首相は、満足したような笑みをうかべてうなずき返すと、今度は封筒に入った書類を外務大臣に手渡した。
「大内さんからのレポートだよ。現在対イリオンで行っている情報収集活動の成果のうち、外務省に開示できる分をまとめたものだそうだ。これだけ自衛隊が諜報活動で活躍しているのを見れば、旧警察官僚があせるのも仕方がないのかもしれないねえ」
「この場で拝見してもよろしいですな?」
「どうぞどうぞ」
早河首相から封筒を受け取った赤松外相は、手早く中のレポートを取り出し目を通した。しばらくの沈黙のあと、彼はにんまりとした笑みを浮かべて、その瞳に覇気を浮かべてみせる。
「総理、お答えいただかなくても結構ですが、これは本当に自衛隊が集めた情報なのですかね?」
「大内さんが持ってきたレポートなのは確かだよ」
「わかりました。外務省の者には、そのように伝えます。それにしてもイリオンの「評議会」ですか、最高意思決定機関の会議の内容なんて、どうやって手に入れたのやら」
「それはさすがに、商売上の秘密ってやつだろうねえ」
同じようににんまりとした笑みを浮かべた早河首相の言葉に、赤松外相は楽しそうに言葉を続けた。
「で、イリオンがこっちに何か仕掛けてきたなら、こちらもやり返して構いませんな?」
「それが日本国の法にあからさまに反しない限りは、職責のうちだとわたしは思っているよ」
「ありがとうございます。では、ちょっとしたいたずらでも仕掛けてみますか」
赤松外相の楽しそうな声色に、早河首相は、満面の笑顔を浮かべることで返事にかえた。




