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六六 第二章・グレートゲーム 種族を超えた縁


 六六


 パラヴィジュラ諸島最大の島であるレトダ島は、二月の頭ぐらいだとかなり過ごしやすい気候となる。島に住まう褐色肌の森妖精族たちは、基本的に繊維の粗い麻の服を着用していることもあって、気温が下がって肌寒くなるととたんに活気がなくなるのだ。

 そんなレトダ島にあるカナロア王国の王都ティグリの連れ込み宿で、市村正明2等陸曹は、生まれたままの姿でなじみになった飲み屋の妖精族の女の子に腕枕をしていた。いたすことをいたして、汗まみれの身体を濡れたタオルでぬぐってさっぱりしてから、ベッドの上で麻のシーツをかむってピロートークの真っ最中というわけである。


「俺に遠慮しなくても、他の客と仲良くなってもかまわないんだがなあ」

「うちはそういうお店じゃないもの。お話したりお酌したりするだけよ。ただ、すぐそういうことしちゃう子もいるけど」


 市村2曹は、外出初日にたまたま入っただけの飲み屋で一緒に食事して酔いつぶしたこの娘がなんか気になって、外出許可がおりるたびに店に飯を食いにかよっていた。彼女がいない時には他の女の子が寄ってはきたが、そういう時には食事だけしてすぐ店を出るようにしている。

 そういう真似をしていれば、店の主人にも顔を覚えられるし、女の子たちも彼女のなじみだと理解するわけであまり寄ってはこなくなる。そして相手になじみと認めてもらったことで、ここティグリをはじめとするカナロア王国のこととか、彼女自身の身の上とか、色々なことを聞かせてもらえるようになった。当然市村2曹も、日本国のこととか、自衛隊での生活とか、そういう話をするようになる。気がついてみれば、彼女は自分の名前をアテアと告げて、市村2曹とそういう仲になっていたのであった。

 とはいえ、アテアは市村2曹に何か物をねだることはなかった。他にも妖精族の女の子が接待する飲食店はあり、そういう店では日本人自衛官は金づるとみなされて、金銭や品物と引き換えに女の子とねんごろになれるという話が駐屯地で知られるようになって久しい。ちなみに当然ティグリにも売春宿はあるが、そこは接触感染による性病の罹患をおそれた自衛隊や開発公団の上層部によって、日本人は入店を禁止されている。


「ニホンの兵隊さんと仲良くしているのを知られると、よそ者が押し込みにくるの。うちは弟と娘がいるから、目立ちたくないのよ」


 アテアは、市村2曹から一緒に買い物にゆかないか、と誘われた時にそう言ってことわっていた。とはいえ、二人きりの時に食べ物とかをプレゼントすると、喜んで受け取ってくれはする。あと木綿の地味な色合いの布地とか、裁縫道具とか、不錆鋼こと窒素添加ステンレス鋼のナイフとか。

 結局市村2曹は、アテアが弟と娘を食べさせるために働いていて、そしてこの街で生まれ育ったわけではないよそ者だから、飲み屋で働いて客の相手をしているのだと理解した。つまり彼女は、水商売の女であるにもかかわらず、用心深く自己抑制ができる、かなり地頭の良い女であるというのが彼の評価である。


「読み書きとか、おぼえようとか思わないのか?」

「わたし、お店を持つとか、お金持ちの家に嫁入りするとか、そういうの考えてないもの。でも、弟と娘はどうかな。ねえ、読み書きできるようになると、良いことってあるの?」


 並べた枕の一方に頭をのせ、市村2曹の右腕を首の下におき、彼の大きな手のひらで頭をなでられたり灰色の髪をすかされたりしながら、アテアは気持ちよさそうに眼を細めながらそう疑問を口にした。

 アテアは元々は、田舎領主の治める町の生まれだったそうである。そこでお針子をしていた母親のもとで暮らしていたという。

 そして五年前にイリオン人民社会主義連邦軍が上陸してきて、町は占領され領主一族は公開処刑され、戦いに巻きこまれて母親を失ったアテアは、連邦軍の兵隊相手の売春宿で無理矢理働かさせられることになったのだそうだ。

 とはいえ、連邦軍はすぐにルクシニア帝國軍に追い払われ、その結果アテアも自由の身になった。だがその時には彼女のお腹には新たな命が宿っており、イリオンの兵隊相手に股をひらいていたせいで町にいられなくなったので、ここ王都ティグリに流れてきたのだそうである。


「そうだなあ、読み書きと計算ができるようになると、給料がよくて安定した仕事につけるかな。自衛隊員は、基本的に全員読み書きと計算ができて、入隊試験に合格した奴しかなれないから」

「ニホンの兵隊さんって、みんな学があるのね」

「学んだことが頭に入っている奴は、そんな多くはないけどな」

「ふふ、でも、リヨスの兵隊と違って、みんな優しいし怒鳴ったり殴ったりしてこないわ」


 頭をなでられて気持ちよさげな表情で、すこしほほを上気させたアテアは、そう言って市村2曹の鍛えられたぶ厚い躯体の上に乗っかってきた。

 市村2曹は、初めて抱いた時よりもアテアが肉づきがよくなっていて、ほほも胸も尻も丸く触り心地がよくなっていることに、彼女の肢体をなでながら一種の達成感のようなものを感じていた。


「そりゃ、女の子を殴るのは性根の腐った奴だけだし、怪我とかさせたら警務隊にとっつかまるからな」


 市村2曹は、水商売をやりながら子供二人を養っているはずのアテアが、こんなにもスレていないことに驚くとともに、彼女への好意が日に日に深くなってゆくのを感じずにはいられないでいた。



 自衛隊では、海外に派遣される部隊の隊員に対して、基本的に現地で女を買うことを禁止している。一つには性病予防のためもあるが、それ以上に現地住民の反感を買わないようにするためである。

 外国人の兵隊に自国の女が買われるのを見て、不愉快にならない男はいない。そして自衛隊が派遣される先は、戦争中か戦争が終わった直後の人心が荒廃している土地なわけであり、地元住民の反感を買えばゲリラと化した民衆によって攻撃されかねないからだ。実際に太平洋戦争で敗北し米軍やソ連軍の占領下におかれて、占領軍の兵隊が現地の女性をどう扱うのか見せつけられたことで、日本人も被占領者の屈辱を学んだわけである。日本軍が中国大陸や南方でやらかしてきた事の意味を理解させられた、と言ってもよいだろう。

 そういうわけで、市村2曹がアテアとねんごろになっていることは、本来ならば許されないことなのであった。

 だが、通常の海外派遣のように3カ月から半年で日本本土に戻れるというのであるならばともかく、数年単位で駐留するのが確実である以上、なんらかの形で自衛隊員らの性欲を発散させなくてはならない。この問題は再三閣議にもちこまれ、結論として衛生隊が検査し性病その他の病気に罹患していないと診断された女性を相手に恋愛関係をもつのであれば黙認する、という形におちついている。

 なお本土のフェミニスト系市民運動団体は、この内閣の出した結論に激しくかみついており、メディアも野党もそれに乗る形で政権攻撃の材料にしていた。

 そんな本土の騒ぎが談話室のテレビで流されるのを聞き流しつつ、市村2曹は駐屯地の法務部に予約を取ってから相談に訪れていた。


「ご苦労さん。相談の件だが、本省から外国人の日本国への帰化として扱える、と通達があった」

「ありがとうございます。では、相手の同意を得られれば、結婚してもかまわないわけですか」

「そういう事になるな。あと、この三月から現地住民向けの日本語教育が始まる。それと、噂には聞いているかもしれんが、来年度から防衛省管轄で幼稚園から大学までの一貫校が開校する。扶養家族への日本語教育が済み次第、学力に応じて小学校から通わせられるぞ」

「ありがとうございます。それでは、話が本決まりになりましたら、その時はよろしくお願いします」


 市村2曹は、法務部の年かさの幹部にむかって深々と頭を下げた。

 彼はアテアとそういう関係になってから、男としての責任をとる事を考え、こうして法務部に彼女との結婚や、その家族の扱いについて相談していたのである。

 実は市村2曹のみならず、パラヴィジュラ諸島各地に駐屯している自衛隊員の少なくない数が、現地の妖精族の女の子とねんごろになっており、結婚を望む者が少なくなかったのであった。

 そしてこの動きを政府は、正確には早河太一首相は歓迎し、畠山武雄開発公団総裁と相談の上で現地勢力を相手に折衝をおこなっていたのである。


「そうそう、この三月には宿舎が完成してプレハブから引っ越しだ。結婚したら妻帯者用の官舎に部屋が与えられるから、楽しみにしておけ」

「はい、ありがとうございます」


 政府は自衛隊員の待遇改善のために、2022年度から駐屯地の各種施設の建て替えを急ピッチで進めていた。その結果、任期制隊員は営内班ごとに大部屋につめこまれるのは変わらないが、妻帯者や被扶養者がいる隊員は、任期制隊員であっても家族用官舎に部屋が与えられることになった。なお曹幹部以上は、バストイレ完備の一人部屋が与えられるように待遇が向上している。

 そしてそれは、ここパラヴィジュラ諸島に駐屯する自衛隊員たちにも適用されており、市村2曹は六畳一間の個室で寝泊まりしている。そしてもしアテアと結婚できたなら、彼女と二人きりなら1LDKの部屋が、その家族と一緒なら2LDKの部屋へ引っ越しとなる。


「市村さん、一緒に飯食いませんか?」

「おう、二見、一緒するか」


 昼飯はティグリの飲み屋で食べたとはいえ、その後アテアとよろしくすごしたせいで腹がへっていた市村2曹は、同僚の二見2曹の誘いで一緒に夕食を食べることにした。やはり自衛隊の食堂で出される料理は、ティグリの飯にくらべて香辛料とか調味料を使っている分味が違う。今日の料理は、白飯に豚肉とキャベツとかの葉物野菜の辛みそ炒めに、豆腐の味噌汁とおしんこである。


「市村さん、今日も例の店ですか?」

「まあな。お前は別の店になじみを作ったんだってな」

「ええ、あの店の女の子って、皆肉づきが薄くてあんまり好みじゃなかったんですよ。ほら、まるで中学生みたいな感じで」

「あー、それわかるわ。でも、適当に肉とか野菜とか食わせてやれば、結構肉づきはよくなるぞ」


 少なくともアテアは、最初はあばらが浮かんでいるような薄い身体だったのが、今ではすっかり肉もついてめりはりがつき、胸も寄せなくても谷間ができるくらいになっている。とはいえデブった、という印象にはならないのが、さすがは森妖精族の女の子、というところであるが。


「いやあ、そこで入れ込みすぎると、際限なくねだってくるんで加減が難しいんですよ。ほら、一応自由恋愛ってことになっていますし」

「それもそうだな。そういや、散々金目の物をねだったあげく、ドロンされた奴とかいたそうじゃないか」


 特に意味もなくそう市村2曹が話をふったところ、二見2曹はそっと声をひそめて話をひろった。


「それなんですけどね、ドロンされたんじゃなくて、寝込みを襲われて殺されたそうなんですよ。で、金目の物をあらいざらい奪われたそうで。犯人は警務隊と王宮警備隊の合同捜査で捕まったらしいんですけど、なんでもよそから流れてきた連中だったとか」

「マジか」

「マジです」


 市村2曹は、アテアが、目立つことをすると押し込みに襲われると言っていたことを思い出し、内心焦りのようなものを感じていた。

 彼女の話では、あばら屋に弟と娘の三人暮らしで、弟は血がつながっていないとはいえ子供で、娘はようやく会話ができるようになった幼子だそうである。それはよそ者に目をつけられないよう、慎重にふるまおうとするのは当然のことなのであろう。


「市村さん、どうしました?」

「……ああ、なじみがさ、押し込みに襲われるから金目の物はいらないって、な」

「へえ、その子、大したもんじゃないですか。俺達にとっては、千円って飯一食分ですけど、ここの住民にとっては五人家族二十日分の生活費だとか。それで金目の物をねだらないとか、いい子つかまえましたね」

「まだつかまえたわけじゃねえよ」


 市村2曹は、次の外出日にでもアテアに、それとなく一緒に暮らさないかと話をもちかけてみようと考えていた。



 飲み屋での仕事を終えたアテアは、市村2曹にもらった米や干し肉や野菜の漬け物、そして炭を入れた袋を肩かけ鞄の中にしまって家路についていた。

 市村2曹が店にくるのは、四日に一度くらいであるが、その時には色々おみやげを持ってきてくれるし、店でもそれなりにお金を使ってくれる。おかげで店主からもらう給金も、小銅貨から大銅貨に大幅アップしていて、前にくらべて随分と生活が楽になっていた。


「ただいま、ガレル、イナ。なにかあった?」

「姉ちゃん、おかえり。今日はなんもなかった」

「母ちゃん、おかえり。今日は兄ちゃんに遊んでもらった」


 アテアがあばら屋の家に帰ると、血のつながらない弟のガレルと、イリオンのエルフの血を引くせいで肌の白いイナの二人が出迎えてくれた。最近はこのあたりも物騒な事件が起きているが、幸いにして彼女らには、その被害はおよんでいない。


「今日も色々たくさんもらったから、ごはん作るわね」

「「わーい! 今日も肉入りのおかゆだ!」」

「あんまり騒がないの。他の人に聞かれるでしょ」


 毎日肉入りのかゆを食べていると周囲の住人に知られれば、妬み嫉みからどんな災難がふりかかってくるかわからないのだ。かつて生まれ故郷で売春婦をやらされていた時に、無理矢理イリオンの兵隊の相手をさせられる苦痛から金づかいが荒くなった女の子が、どんな目にあったのかアテアは今も忘れてはいなかった。


「母ちゃん、なんかきれい」

「そう? 食べるものに困らなくなったからじゃないかしら」

「そっかぁ。毎日おなかいっぱいごはん食べられてうれしい!」


 そろそろ幼児から子供へと育とうとしている娘のイナは、毎日ちゃんとごはんを食べられるようになったせいか、随分と元気になっていた。弟のガレルも、仕事をしても空腹で苦しまなくなったおかげで失敗が減って、毎日小銅貨何枚かの給金をもらえるようになっていた。

 アテアは普段着に着替えると、炭に魔術で火をつけてかまどで湯をわかし、市村2曹にもらったニホン製の刃物で干し肉と漬け物野菜を切りきざみ、米と一緒に煮こみだした。

 昨日と変わらない今日が終わり、夜がおとずれようとしたその時、外から悲鳴が聞こえた。


「押し込みだぁーっ!!」


 真っ先に動いたのはガレルであった。

 入口近くに積んであった石をいくつか抱えると、あっという間に外に飛び出してゆく。


「ガレル!?」

「母ちゃん、こわい」

「イナ、こっちにおいで。ほら、こうしていれば安心でしょ」

「ん」


 アテアは、土鍋の中をかき混ぜるのをやめ、抱きついてきたイナをしっかり抱きしめると、あばら屋のすみに隠れるように身体をまるめ、ナイフをかたわらに置いて、ずっと娘の背中をなで続けた。

 外では男の怒号と住人の罵声がとびかっていて、すぐに男の声は悲鳴に変わり、住人らの歓声にとってかわった。


「姉ちゃん、やったぜ!」

「ガレル、無事なの!?」

「もちろんだって! よそ者が押し込みしたから、みんなで囲んで石を投げつけてやったんだ!」

「……押し込みに襲われた人は、無事?」


 イナを抱きしめ、その背中をなで続けているアテアは、本人もびっくりするような冷たい声色でそうガレルにたずねた。

 姉のそんな声を初めて聞いたせいか、ガレルはびっくりした様子になってしどろもどに答えた。


「ええと、俺は見てないけど、なんか殴られたらしくて、怪我してぐったりしてて、それで、その、皆でかこんでて……」

「判った。……ガレル、人は簡単に死ぬのよ。だから、簡単に暴れては駄目。約束して」

「でも! 姉ちゃんとイナを守るためなんだって! 姉ちゃんとイナは、俺が守るから! 絶対に守るから!」


 冷たい声色で姉に自分の活躍を否定されたガレルは、必死になってそう訴えた。自分は、大切な姉と妹を守りたかっただけで、間違ったことをしたのではない、と。


「ガレル、約束して」

「……わかった。約束する」


 大切な姉に自分の活躍をみとめてもらえず、しょげかえっている弟の姿を見て、アテアはこれからどうしたものか、途方にくれていた。



 貧民窟でよそから流れてきた男が押し込みに入ろうとして住民らの反撃をくらってから数日後、アテアは飲み屋に飯を食べにきた市村2曹の相手をしていた。


「なんか元気ないな? 何かあったのか?」

「……そう? 気のせいじゃない」

「いや、さすがに判るから。顔色もよくないし、笑顔もぎこちないしさ」

「……ごめんなさい。ちょっと、大変な事があって」


 アテアは、向かいに座って食事をしている市村2曹に、精一杯の愛想笑いを浮かべてみせた。だが彼は、わっしわっしと豪快に出された料理をたいらげると、勘定を済ませてアテアの手をとった。


「話なら聞くからさ、話してみてくれ」


 アテアは、気づかうような表情を浮かべている市村2曹にあらがえないものを感じ、こくんとひとつうなずくと、おとなしく席を立って彼に引っ張られていった。

 二人が常用している連れ込み宿は、飲み屋からさほど離れていないところにある。市村2曹は慣れた様子で大銅貨で宿代を支払ってから部屋の鍵を受け取り、アテアの腰を抱くようにして部屋に連れていった。


「ここなら大丈夫だろ。な、話してもらえないか」

「……うん」


 もう何度も肌を合わせたこともあってアテアには、市村2曹がどれほどたくましく頼れる男か判っているつもりであった。だが、こうして真面目な表情でじっと自分を見つめている彼は、初めて見る顔つきをしていて、彼女は素直に怖いと思ってしまった。


「……うちの近くで、押し込みがあったの」

「そいつは怖かったろうな。娘さんと弟さんは、無事だったのか?」

「ええ。でも弟は、押し込みと聞いて外に飛び出していって、石を投げつけてやった、って。押し込みも、襲われた家の人も、大けがをして、でもお医者さまにかかるお金なんてないから、そのまま死んでしまったの」


 胸帯と腰巻だけの格好の上から、四角い布のまん中に穴をあけた外套を羽織ったままの格好で、アテアは自分の身体を抱きしめてそう小さい声で答えた。

 彼女の話を聞いていた市村2曹は、そっと彼女の隣に椅子をもってきて座ると、そのまま彼女の肩に腕を回して抱きよせた。


「怖かったな」

「……うん」

「そばにいてやれなくて、悪かったな」

「……ううん、こうして会いにきてくれただけで嬉しい」


 アテアは、市村2曹の太い腕に抱かれて、ずっと胸の中でざわめいていた不安が、すうっと消えてゆくような感覚をあじわっていた。そのまま、彼の肩に頭をあずけ、軽く目を閉じて息をととのえる。

 普段ならここから男と女の営みに入るのだが、今日の彼は、彼女の頭に唇を何度か落とすと、耳元でこうささやいた。


「なあ、俺と結婚しないか」

「え?」


 アテアは、全身の血が逆流するかのような感触におそわれ、心臓が音を立てて鳴りはじめたかのような錯覚をおぼえた。

 そもそも売春婦ではない彼女が、市村2曹と男女の仲になったのは、彼がイリオンの兵隊と違って優しくて気遣いのできる男だからである。毎日を貧民窟のあばら屋で過ごし、弟と娘を食べさせなくてはならず、その責任の重さからくる不安を忘れたくて彼に抱かれることにしたのだ。


「アテアが兵隊を怖がっているのは知ってる。だが俺と結婚すれば、連隊の駐屯地に住めるし、弟さんと娘さんを学校に通わせることもできる。お前も読み書きと計算を身につければ、日本人向けの仕事にだってつける」

「それって……」

「色々大変だとは思う。だが、今よりも安全で快適な生活を、家族としておくらせてやれる。それは約束する。だから、俺と結婚して、俺の子供を産んでくれないか?」

「……ん」


 アテアは、生まれて初めての結婚の申し込みに、もうすっかり忘れていたはずの女の子としての感情が湧き上がるのを感じていた。


「あ、あのね、マサアキ」

「なんだ、アテア」

「……優しくして。大切にして。それと……」


 アテアは、市村2曹の胸に顔をうずめると、恥ずかしさに顔を真っ赤にしながら答えた。


「絶対に死なないでね」

「ああ、約束する」


 そのまま市村2曹に両脇の下から手で持ち上げられ、彼の膝の上に下されたアテアは、そのまま彼に横抱きにされたまま、何度も繰り返し口づけを交わした。


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