五九 第二章・グレートゲーム ナヌガラ王国を取り巻く動き
五九
東京都広尾の有栖川公園近くにある旧ドイツ大使館跡地に大使館が入ったンチャナベ連合王国は、海路駐日大使が赴任してから積極的に日本国内で活動している。
ひとつには日本国についての情報収集もあるが、連合王国の諸々についても積極的に情報を発信しているのだ。今のところ旅客機などの民間航空機の相互乗り入れについて協議をおこなっている最中であり、両国間で協定が成立すれば互いにビジネスや観光で人が行き来するようになるからである。
互いに物理法則以外は全てが違う惑星上から、ここナリキア世界に転移してしまった国であるため、関係が深まることで文化の違いによる摩擦が生まれる可能性が高い。互いに不幸な行き違いを最小限におさえるためにも、民間レベルでの相互理解の促進は必須なのである。
「貴国が交易国家として長い歴史をほこっていることが知れて、まことに有意義な時間を過ごせました。あらためてお礼を申し上げます、大使」
「こちらこそ、わざわざ首相ご自身が足を運んで下さり、恐懼にたえません。連合王国とニホン国の間に、末永い友好関係が築かれることを心より願っております」
広尾の連合王国大使館で上映された、帆船時代の交易商人の冒険物語の映画の上映会に臨席した早河太一首相が、壇上でヤナム=トゥクラ・ンギ大使と笑顔で握手をしていた。その姿を、日本と国交を結んだ各国の大使館の広報関係者が撮影するのと同時に、日本のマスメディアも盛んにフラッシュをたきネットで映像を流している。
「両国の文明の成り立ちは全く違いますが、それでもこうして交流を進めてゆくことで、相互理解を深めてゆけると確信しております。駐連合王国日本大使館で、同様の催しをおこなえれば、両国にとって有意義なものとなるでしょう」
「これはまことに嬉しいお話をうかがえました。是非とも前向きに検討願いたいものです」
早河首相とヤナム=トゥクラ大使は、そろって笑顔を深めたあと、列席者の盛大な拍手を受けつつ壇上からそでに下がった。
「それでは後ほど、大使」
「はい、うかがわせていただきます、首相閣下」
舞台裏に下がった二人は、周囲の人間らに聞こえないよう小声でそう言葉を交わし、何事も無かったのように別れ、控室に下がった。
上映会のあとのレセプションで挨拶をした早河首相は、すぐに控室に下がると、最小限の随員を残して、出されたコーヒーっぽい何かを煎じた煮汁を口にしつつ大使の来訪を待っていた。
ンチャナベでは、この飲み物が社会の階層をとわず愛飲されており、地球世界のコーヒー豆同様に数多くの種類と飲み方があるとのことである。なお早河首相は、コーヒーはブラック派であり、この彼らがカーウァと呼ぶ飲み物もミルクも砂糖も入れずに口にしていた。
「お待たせして申し訳ありません、首相閣下」
「いえいえ、頂いた、カーウァですか、これに口をつけたばかりでして」
「はは、お口にあったのでしたらよいのですが」
まだ半分ほども残っている陶磁器のカップを机の上のソーサーに置くと、早河首相は、むかいに座ったヤナム=トゥクラ大使にむけて笑顔を浮かべた。
丁寧にととのえられた灰色の頭髪と口ひげの黒い肌の顔に、しわを深めるような笑顔を浮かべた大使は、笑顔のまま目だけ真剣な色をおびさせた。
「連合王国は、ニホン国との友好を心から望んでおります。それは誤解していただきたくはない事実です」
「ええ、日本国は、連合王国のその意図を疑ったことは、一度としてありません」
ヤナム=トゥクラ大使の言葉に、笑顔で大きくうなずいて早河首相もそう答えた。
「ありがとうございます。それ故に、ニホン政府には事前にお伝えしておくべきと、我が国政府は判断いたしました。連合王国は現在、貴国が進出しているナヌガラ王国の南側の隣国であるイエメザ王国に、資源探索のために調査隊を派遣しております」
ヤナム=トゥクラ大使の言葉の意味を、早河首相は間違えずに理解した。
「それが平和的なものである限り、日本国は連合王国に対して一切の敵対的行動をおこないません。……つまり貴国は、中央海における我が国の立場について、ご理解いただけている、という認識でよろしいのですね?」
「はい、閣下。連合王国は、中央海の海洋通商路の利用が保障されている限りにおいて、日本国の立場を尊重することをお約束いたします」
早河首相は、ヤナム=トゥクラ大使が続けた言葉の中に、わずかなひっかかりを覚えた。
「中央海の通商の安全の保障、ですか」
「はい。首相閣下もご存じの通り、我が国は石油資源をルクシニア帝國からの供給に頼っております。この海洋交易路が脅かされるような事態となれば、当然実力で脅威を排除せざるをえなくなります。そこは日本国にもご理解いただきたいのです」
「なるほど。そのための我が国による安全保障ですか」
「はい」
ヤナム=トゥクラ大使の言葉に早河首相は、笑顔ではっきりと答えた。
「日本国は、中央海の自由な利用と、法治をめざし、今後とも不断の努力を続けてまいります。これで答えになりますでしょうか?」
「ありがとうございます。閣下のお言葉は、たがえず本国政府に伝えさせていただきます」
互いに笑顔を浮かべてはいるが、その目は笑ってはいない。
早河首相には、ヤナム=トゥクラ大使の言葉は、イリオン人民連邦を早期にどうにかしないと、ンチャナベ連合王国が代わって軍事力で制圧する、と宣言したようにしか受け取れなかったからだ。
そしてヤナム=トゥクラ大使にも、早河首相が正しくその言外の意味を理解したことが伝わったようである。
二人は笑顔のまま立ち上がると、握手を交わして会談を終わらせた。
早河首相がヤナム=トゥクラ大使と会談をもった数日後、彼は首相官邸に外務大臣を呼んでいた。
「忙しいところ、わざわざ来てもらってすまないねえ、赤松さん」
「それはまったくかまいませんので、気にしないで下さい、総理。で、要件はなんでしょう?」
第二次早河内閣が組閣された時に、前職の外務大臣を副総理に格上げして後任として起用した赤松永歳議員は、与党保守党の政調会長として精力的に仕事をこなしていた。少々我の強いところはあるが、相手の話を聞いて調整する能力があるのははっきりしているので、このナリキア世界での外交の足場づくりを任せているのである。
「ンチャナベの大使からね、さっさと中央海を安定化させないと自分達が手をだすぞ、と、脅されたんだよねえ」
「そりゃあ、舐められたもんですな、我が国も。で、総理はなんと答えたんです?」
「自由と法治にもとずいて安定化させる、と答えたよ。今の我が国では、そうそう大日本帝国みたいな真似はできないからねえ。とはいえ、向こうも割と切実な問題だから、こちらも誠意をみせないといけないと思うんだよね」
早河首相の言葉に赤松外相は、そのエネルギッシュさがまんま表れたような顔をゆがめて笑ってみせた。
「ンチャナベの位置からすると、中央海には東大洋から入ることになりますな。つまり「北」をおとなしくさせろ、とでも言ってきましたか」
「そっちじゃないんだよね。どうやら向こうが気にしているのは、イリオンの方みたいで」
早河首相は、赤松外相の前に中央海の地図を広げると、まずタマラム諸島に指をおいた。
「今イリオンは、タマラム諸島に推定で4万人くらいの兵隊と、二十隻くらいの艦隊を配置しているそうでね。で、そのうち潜水艦は八隻から十隻くらいと見積もられているのよ。そして、こいつらが中央海で暴れたら、ンチャナベとしては石油の輸入が止まるから死活問題なわけ」
「なるほど。つまり連中は、イリオンが近々動くと情報を手に入れた可能性がある、というわけですか」
「それについては、まだ裏取りできていないからねえ。軽々しく西方シフトを敷けないのよ」
下手に戦力の再配置をして、イリオンとティエレンにいらん誤解をさせたくないからねえ。
早河首相は、困ったような表情を浮かべて、そう赤松外相に言い訳した。
実際イリオンについてはともかく、ンチャナベとティエレンが戦力の再配置を行い、海外派兵のための船を用意しつつあるのは、ルクシニア帝國経由でも情報が入ってきているのである。
当然日本も、両国の公開情報でそれは把握できている。派遣された現地大使館の職員は、決して外交ごっこにうつつをぬかしているわけではないのだ。むしろ両国の政治、経済、文化、歴史、習俗について、積極的に情報を集め東京の本省に送ってきているのである。
すくなくとも政府関係の衛星を経由した情報通信ネットワークは、JAXAの不断の努力もあって、それらの活動をささえられるだけの機能を備えるにいたっていた。
「イリオンの暴発は出来る限り遅らせる、という方針は変えないんですな?」
「もちろん。むこうに手を出させるのは変わらないし、それに最初に対処するのはルクシニア、というのも変えないよ。とはいえ、ティエレンが斜め下の動きをするかもしれない、とは思っている」
「ティエレンが、ですか? それはまた初耳ですな」
赤松外相は、口をへの字に曲げてその太い両腕を組んでみせた。
「ティエレンとイリオンの仲が、予定通り険悪化しているのは、把握しているね?」
「もちろんですとも」
「こちらの予想では、ンチャナベの戦力再配置が終わるまでは、ティエレンは身動きがとれないはずだったんだけれどもね。そのンチャナベが、南方大陸の東岸に進出をしはじめたらしい。そう向こうの大使から話をもちかけられたんだわ」
早河首相の説明に、赤松外相は机の上の地図の上に身体を乗り出させた。
「なるほど。大陸の戦線が安定化してきたから、引き抜いた戦力を大陸東岸かティエレンかどちらかに向けられるようになった、と。で、その戦力を大陸東岸に向けると判ったら、ティエレンは対ンチャナベで用意した戦力を自由にできるわけですな。となると、石油目当てに、イリオンからタマラム諸島を奪いにゆく可能性が出てくるわけですか」
「そうそう。で、ンチャナベは、ここナヌガラの南のイエメザ王国に手を出すと言ってきたのよ。つまり、本命はナヌガラだったのが、日本が先に手を出したように見えるから、まずは日本にイリオンをなんとかしろ、と」
赤松外相の理解の速さに笑顔になりつつ、早河首相は、南方大陸の北東部に位置するナヌガラ王国と、その南にあるイエメザ王国に指をおいた。
その位置関係を把握した赤松外相は、組んでいた両腕をほどいて両ひざの上に手をついた。
「我が国もそうでしたが、オイルロードの安全の確保は、死活問題ですからな。連中がたびたび空母を送ってくるあたり、中央海の航路の安全の確保は絶対にゆずれんわけだ」
「そういうことなんだろうね。で、多分だけれど、日本が早期にイリオンをなんとかしないと、ンチャナベはナヌガラやタマラムに手を出してくるんじゃないか、と、見ている」
「……ナヌガラには、我が国の商社が進出していますな。しかも、「北」のひもつきのPMCをやとって」
赤松外相の言葉に、早河首相は、さらに楽しそうに笑みを深めた。
「そうゆうことだね。「北」はンチャナベが反応するのを予想して、わざわざ我が国を中央海東側に引っ張り出すためにナヌガラに手を出した、と見ている。で、見事ンチャナベはつり出されたわけだ」
「……「北」は何が目的なんです? 総理」
「そりゃ、北方大陸への進出を邪魔されたくないのと、北方大陸と南方大陸の交易にいっちょかみすることだろうねえ。連中は、ここコルブイラ半島を制圧し、その東側の島々もおさえた。で、ナヌガラをおさえられれば、南北交易の権益は彼らのものとなるわけでね」
「ですが、連中にそれを維持できる海軍がないでしょう。あそこは、せいぜいが千島列島の防衛ができる程度の艦隊しか、持っていないはずでは?」
赤松外相の疑問も、もっともである。そもそも日本人民共和国は、その決して潤沢ではない軍事予算の大半を陸軍につぎこんでおり、海軍はあくまでロシア軍の補完程度の戦力しか有していないのである。
そもそも共和国の価値は、オホーツク海のロシアの戦略核原潜にとっての聖域化のための要害、としてのものが全てであって、それ以上のものではなかったからだ。
だからこそ彼らは、道東と道北の防衛のために陸軍の強化になりふりかまわず邁進したし、ロシアも本国仕様の各種兵器を気前よくライセンス生産するのを認めたのだ。
「だから党中央委員長は、海自の中央海東側への派遣を求めてきたよ。一応、今は無理と答えておいたけれどもね。でも向こうとしては、なんとしてでも我が国に中央海全部を抑えさせたいみたいだねえ」
いやあ、人気者はつらいねえ。そんな風に笑って見せた早河首相に、赤松外相は呆れたような表情になった。
「とはいっても、今の自衛隊にそんな余裕はないでしょうに。で、どうするんです、総理?」
「もちろん、「北」の思惑にのるよ。こいつは大きな貸しになるからね」
「随分と党中央委員長を信頼されるんですな」
「そりゃ、畠山さんがお膳立てしてくれたからねえ。あとはきっかけ、というところまできているんだよ」
実にあくどい笑みを浮かべた早河首相は、鼻白んだ様子を見せる赤松外相にきっぱりと言い切った。
「そういうわけだから、外務省にはナヌガラにも人を出してもらって、あの国とその周辺諸国についての情報収集を密におこなってもらいたい。当然、自衛隊の派遣も念頭においておいて欲しい。いいね?」
「はい、うけたまわりました、総理」
今一つ納得のゆかない表情ながら、赤松外相は早河首相の指示にうなずいて承諾の意をしめしてみせた。
外務省の外交官である那波和則は、国交開設交渉に失敗し自分の経歴に染みをつけたナヌガラ王国のことを嫌っている。正直なところを言えば、地政学的に日本にとって重要な位置にあるのは理解できるが、ここを友好国化するのは別の外交官に任せて欲しかった、というのが本心である。
だが赤松外務大臣は、ナヌガラ王国について最も詳しいのが那波だからと、再度この土地におもむくよう命じたのであった。
「まさか、御社が日本政府の庇護もなしにこの国に進出するとは、思ってもいませんでしたが」
「いえいえ、なにしろ今の日本は、あらゆる物が不足していますからね。商社の看板を背負っている以上、手に入れられる物は何でも手に入れて、日本に持ち帰りませんと」
ここナヌガラ王国の港町チャルトゥに建設中の日本人街の中央にある総合商社の仮オフィスで、那波外交官は、自分とさして歳の変わらないように見える商社マン相手に顔見せに訪れていた。
本来ならば気位の高い外交官が、山師同然と見下している商社の人間相手に下手にでることはない。だが日本国はナヌガラ王国と正式に国交を結んだわけではなく、那波外交官もしばらくは総合商社の建物の一角を借りて活動することになる。家主に対して礼儀を欠くような真似が許されないのは、常識中の常識というものであった。
「まあ、本土との連絡に政府の衛星回線を使わさせていただけるのですから、我々としてはできる限りの協力はいたしますとも。そこはお約束いたします」
「ありがとうございます。衛星回線の民間への開放は、来年以降になりますが、それまではこちらもできる範囲で協力させていただきます」
にこやかに笑って頭を下げる商社マンにむかって、那波外交官も頭を下げてみせた。
官邸がナヌガラでのなにがしかに注目し、総合商社からもらえるだけ情報をもらいたがっていることは、現在は官公庁でしか使用を許されていない衛星回線の通信網を、ここナヌガラに限って総合商社に開放したことからも明らかである。那波外交官は、その総合商社と協力して、ナヌガラ王国についての情報を収集することを命じられているのだ。
「早速ですが、「北」のPMCはどうですか?」
「いや、見た目はスラブ系なんですが、中身は日本人ですね。働きぶりがまるで違います。ロシア人と一緒に仕事をしたことがありますが、全く別の存在で驚きましたよ」
「そうなのですか。国家公安省のひも付きということは、ご存じですか?」
「もちろんです。というより「北」の会社は、オリガルヒか党のひも付きのどちらかですからね。もちろん、情報の管理は徹底させています」
商社マンの言葉に那波外交官は、その程度で国家公安省のスパイに情報が漏れないわけがないだろう、と思った。日本政府や企業から、一体どれだけの機密情報が「北」の国家公安省のスパイに抜かれたのか、全容は今もあきらかになっていないのである。
「ああ、それで思い出しました。今王宮に「北」の紹介で女の子が後宮に入っているんですが、その子は多分国家公安省のスパイです。あと、その子の護衛ということで一緒に後宮に入った女性の軍人もいるんですが、彼女、共和国英雄称号持ちでウクライナでも大活躍したそうなんですよ」
「ほう、そうなんですか」
「はい。すごい美人だったんで思い出したんですが、ロシアと「北」のニュースで勲章をもらうところを報道していたのを見たんですよ」
商社マンからの早速の情報提供に、那波外交官は内心で警戒度を一段上げることにした。「北」がそこまで堂々と動いてみせるということは、必ずなにか裏があるからだ。
「貴重な情報をありがとうございます」
「いえいえ、王宮では割と有名人なんで、すぐお耳に入ったと思いますよ」
「そうなのですか?」
「ええ。女の子も護衛も王妃のお気に入りらしくて、後宮の人間にくばるお土産を散々ねだられていましてね。とはいえ、それ以上の利権が国王から下されるので、まあ悪くはない取引だと思ってますが」
那波外交官は、内心の警戒度をさらに一段上げざるをえなかった。
確かに国家公安省の工作員でもなければ、こうもやすやすと王宮で地歩を獲得できるわけもないし、国王を篭絡して総合商社に便宜をはからせることもできないからだ。
そして、だからこそ何故「北」が総合商社に、ひいては日本国に、このように利益供与をおこなうのか疑問に思ったのである。
「ここだけの話ですが、御社の利益になるのでしたら、法に違反しない限りは先方の好意は受け取ってもよいかと思います」
とにかく王宮について情報を集め、本省に報告しなくては。
那波外交官は、面倒ではあるが成功させれば必ず得点になる仕事に、がぜんやる気がわいてくる気分になった。




