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三八 第二章・グレートゲーム 「南」「北」日本の首脳会談


 三八


 早河太一首相ら、日本国からルクシニア帝國を訪れた使節団が宿泊しているホテルには、会員制のラウンジバーがある。女性の接客がなく注文を取りにくる時以外は従業員が席に来ることもないゆえに、少人数で他に聞かれたくない話をするのに重宝されていると、ウリ=クディリ宰相から聞かされていた。

 早河首相は、宰相が送ってきた者に案内されて、そのラウンジバーを一人で訪れていた。

 ラウンジの入り口で待機していた猪鬼族の従業員が、うやうやしく一礼してから早河首相を中に案内する。室内は間接照明でライトアップされていて薄暗く、客は誰もいないように見えた。


「こちらでお客様がお待ちです」

「ありがとう。ここまででよいよ」

「はい、それではご注文の際には、卓上の鈴をお鳴らしください」


 再度丁寧な一礼をした従業員を残して早河首相は、一番奥の席でくつろいだ姿勢のままソファーに座っている、日本人民共和国共産党中央委員会委員長に近づいていった。


「相席をよろしいですかな?」

「もちろんです。総理」

「それでは、お言葉に甘えさせていただいて、中央委員長」


 早河首相は、ゆっくりとした動作でソファーに腰を下ろすと、卓上のクリスタルガラス製の鈴を鳴らして従業員を呼んだ。なにしろ机の上にはグラスもなく、灰皿もきれいなままである。


「炭酸水を二人分」

「かしこまりました」


 早河首相が注文をしている間も、党中央委員長は表情のない顔をしたまま、黙って彼を見つめているだけであった。

 炭酸水の瓶とクリスタルグラスが並べられるまで、二人はただ黙って互いの顔に視線を向けあっているままであった。場の空気は冷たく、何か話をするのもためらわれるものがある。


「お初にお目にかかります。ま、乾杯をするシーンでもありませんからな。お先に失礼を」


 いつも通りの調子で口をひらいた早河首相は、炭酸水をクリスタルグラスに注ぐと、軽くくちびるとしめらせてみせた。

 対面の党中央委員長は、早河首相がグラスにくちびるをつけたのを見てから、自分のグラスに炭酸水をそそぎ、同じように軽くくちびるをしめらせた。


「こうしてお会いした時に、何を話そうか色々と考えていたのですよ」


 早河首相は、相変わらずおもてにも眼にも表情を浮かべない党中央委員長に向かって、のんびりとした口調で言葉をかけつづけた。


「なのですが、あいにくとこれといって話すことを思いつかなかったのですな。何しろ自分は、あなたのことをほとんど存じ上げませんのでね。いや、残念な話です」

「確かに残念な話です。ですがそれは、予断なしに対話ができるということでもあります」


 ようやく口を開いた党中央委員長の言葉に、早河首相は愛嬌のある嬉しそうな笑みを浮かべてみせた。


「ええ、ええ、おっしゃる通りですな。この機会に相互理解が深まれば、それは実に喜ばしいことだと思うのですよ」

「相互理解を進めるためには、共通の認識を共有する必要があります。まずはそこから始めましょう」

「もちろんですとも。自分は日本国の代表ですが、同時にただの政治家の一人でもあります。日本人民共和国を代表してこちらにいらしたあなたと、政事についてお話できるのは、これ幸いというものですからな」


 早河首相の言葉に、党中央委員長は二度三度とまばたきをしてから、軽く目を細めて興味をひかれたような表情を浮かべた。


「国家の代表としてではなく、ですか?」

「共通の基盤に立って話をするためですよ。互いの国の利益については、それからでも遅くはないでしょう。夜はまだ更けてはいませんからねえ」

「なるほど。あなたもまた慎重な方のようです、総理」


 早河首相が軽く肩をすくめたのを見て、党中央委員長は再度クリスタルグラスにくちびるをつけた。


「共和国は日本国を恐れています。それを理解していただきたい」

「もちろん知っているつもりです。それゆえに、お国が一党独裁体制を続けざるをえないでいることも、理解しているつもりです」

「共和国が何を恐れているのか、その理解についてお聞きしたいのですが」


 党中央委員長の平坦な声色の言葉に、早河首相は楽しそうに微笑んで話を続けた。


「欧米発のポリティカル・コレクトネス、いや、言うところのリベラリズムというべきですかな? あらゆる者に機会の平等を与え、しかしハンデは彼らが決めるところの「政治的正しさ」で選んだ相手に与える、というある種の階級主義でしょうか」

「……続けてください」

「ウクライナ戦争の初期に、ロシア大統領がフランス大統領相手に散々ホットラインで自国の立場を説明したそうですが、理解してもらえなかったそうで。そりゃあ、そうでしょう。ロシア人の認識する世界観というか価値観を、西欧の人間が理解しようとするわけがない。欧米のリベラルな人士の、あのある種の独善と傲慢は、まったく無自覚なものですからねえ」


 だからこそ、あの黒人大統領とその閣僚は、マイダン革命なんてロシア側の逆鱗に触れるような真似をしでかせたわけですよ。


 そう早河首相は、残念そうな困ったような表情で話をきった。

 しばらくの沈黙のあと、党中央委員長はわずかに眉をひそめつつ口を開いた。


「共和国は、建国以来常に外と内からの脅威にさらされてきました。それは、異世界転移直前まで変わらず、そして今もまだ変わっていません」

「ふむ。少なくとも日本国を脅威から外す機会は、提供できると思っておりますが」

「それについては、疑わずにすむかもしれないと、たった今認識しました。問題は、共和国の内憂です」

「民族問題、まだくすぶっていますか」


 早河首相の言葉に、党中央委員長は、無言でうなずいて返事とした。


「お国の人々の三分の一は、混血だとうかがっております。それでもロシアに帰属したいとか、日本に戻りたいとか、そういう動きがあるのですか?」

「もちろんです。共産党というタガが外れたならば、必ずやユーゴスラビアと同じ悲劇が共和国を襲うでしょう」

「なるほど。欧米でポリティカル・コレクトネスが猖獗を極めている間は、複数政党制議会政治なんてやれないわけですな。彼らの善意からの干渉が、民族自決をあおって内戦を引き起こすことになる、と」

「ご理解いただけているようで、安心いたしました」


 早河首相のわりと容赦のない言葉に、党中央委員長は再度うなずいて肯定の意を示した。


「とはいえ、こうして異世界へと転移する羽目になったのです。お国もそろそろ一党独裁制は、限界に近づいているのではありませんか?」

「当然です。腐敗せざる権力は存在しない。それは我ら共産党もまた同じです。だからこそ、民主化は慎重に進めなくてはならないと認識しています」

「その道筋を見つけられたから、こうしてお会いする機会に恵まれた、と理解しているつもりなのですが。間違っておりますかな?」


 早河首相の問いかけに、党中央委員長は首を左右にふってみせた。


「民主化のための準備は、ソ連崩壊直後から進められてきました。ですが、機会がめぐってきたと思えた瞬間に、その希望は打ち砕かれてきたのです。2001年の911、2009年のリベラル党政権、2014年のマイダン革命、そして2022年のウクライナ事変」


 そこで言葉を切った党中央委員長は、ソファーの上に置いてあった封筒を手に取って早河首相の前に置いた。


「共和国の情報機関が、中共と朝労から入手した、日本国内の彼らの協力者のリストです。もちろん、証拠となる彼らの文章の写真も同封してあります」

「このリストにある人間を無力化しろ、と?」

「方法はお任せします。我々は、第二次北海道戦争の勃発を心から恐れている。それをご理解いただきたい」


 真剣な表情と声色で、党中央委員長は、早河首相をまっすぐに見つめた。

 しばらくの間、そうやって彼の視線を受け止めていた早河首相は、にやりと口の端を持ち上げて悪党じみた笑みを浮かべてみせた。


「当然、受け取れませんわなあ、それは」

「2010年の危機を繰り返すつもりですか?」

「いやいや、当然違いますよ。そりゃあ、そのリストに載っている人間を、自分もどうにかしたいとは思っていますよ? でもね、そいつらも日本国民で、日本国憲法によって定められた権利を、法によって保障されているんですわ」


 がらりと口調を変えた早河首相は、両腕を組んで軽くあごをしゃくって見せた。


「日本国内閣総理大臣としてはね、法にもとる真似はいたしかねるのですよ」


 再度表情を消した党中央委員長に向かって早河首相は、にやりとくちびるをめくってみせた。そういう表情をさせると本当に憎々しい悪党面になるのが、彼の政治家としての武器のひとつであったりする。


「それにね、そのリスト、お国の協力者の名前は載せていないし、証拠からも消してあるんでしょう? ま、当然ですわな。敵味方関係無しに、他国の政治中枢にかかわっているアセットを、わざわざ危険にさらすわけがない。それくらいは、太平楽な自分にもわかりますんでねえ」


 にやにやと笑いながらそう言い切った早河首相を、党中央委員長は一切の表情の浮かんでいないガラス玉のような瞳で見つめている。

 二人は黙って視線をぶつけあい、氷のような冷たい時間が流れてゆく。


「……どうやら、畠山先生の人選は間違っていなかったようだ」


 党中央委員長は机の上の封筒をとりあげ、ソファーの上に戻した。


「売国奴どもを、どうするつもりです? 総理」

「もちろん、法にもとづいて対応いたしますとも」


 早河首相の言葉に、党中央委員長は初めて笑みを浮かべてみせた。


「貴国の対処いかんによって、共和国の民主化の時期が決まります。出来る限り早く対応をお願いしたい」

「善処します、としか今の時点では申し上げられませんなあ。とはいえ、まずは互いに国家承認を行って、各種協定の更新からはじめませんか?」

「今の時点では、それが限界でしょう」


 党中央委員長は、卓上の鈴をとると、ラウンジの従業員を呼びつけた。


「乾杯に相応しいものを」

「かしこまりました」


 従業員が離れたのを確認してから、党中央委員長は、微笑みを浮かべたままささやくような声で話を再開した。


「相互不可侵協定、よろしいですね?」

「もちろんです。そうそう、日本国は、共和国がルクシニアといかなる関係を結ぼうとも、邪魔をするつもりはありませんので、それはあらかじめ申し上げておきます」

「ご配慮いただき、感謝いたします」


 従業員がワイングラス二つと、古びてくすんだ瓶とラベルのボトルを持ってきて、二人の前にグラスを並べる。そして、手際よくコルク栓を抜くと、グラスに深い赫色の液体を注いだ。

 従業員が一礼して去ってから、早河首相と党中央委員長は、ワイングラスを手にとりかかげた。


「日本人民共和国人民の未来に」

「日本国国民の未来に」


 芳醇な香りを漂わせるその酒精を、二人は一気に喉から落とすと、そっとワイングラスを机の上に置いた。


「そうそう、すっかり忘れておりました」

「何をですか? 総理」


 丁寧に時間をかけて熟成された葡萄酒の余韻を楽しみつつ、早河首相は背広の内ポケットから一通の封書を取り出した。

 その封書には封がされておらず、そして十六弁の菊の花の透かしが入れられている。


「畏き処よりお預かりして参りました。お受け取りいただきたい」

「……この場で拝見しても?」

「もちろんです」


 両手で捧げ持つようにして差し出したそれを、党中央委員長も両手で受け取り、封書に向けて軽く一礼してから中の書状を取り出し目を通しはじめた。

 しばらく読み進め、最後まで目を通してからまた最初に戻って読み返す。それを繰り返したあと、党中央委員長は書状を封書に戻し、自身のスーツの内ポケットに大切そうにしまった。


「畠山先生に、私が心から感謝していると、お伝えいただきたい」

「うけたまわりました。必ずお伝えいたします」


 党中央委員長は、ワインボトルをとって深紅の中身を早河首相のグラスに注ぐと、自分のグラスにも酒精を満たした。


「あらためて乾杯を、総理」

「もちろんです、中央委員長」


 この酒の味は間違いなく勝利の美酒であると、早河首相は心の底から湧き上がる歓喜に身をゆだねることにした。


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[気になる点] > 民主化のための準備 冷戦後から本格的な想定はされていたみたいで、だがもっと前からも考えられそうですね。 ソ連の影響国で民主主義国家だったフィンランドとは民主化のためのテストケースと…
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