十四 第一章・転移直後 帝國からの提案
十四
引き続き赤坂離宮の迎賓館で行われた日本国とルクシニア帝國の外交交渉は、日本政府の事前の予想通り順調に進んでいた。
そもそも転移前に日本に「来訪」したルキフェラ帝との間で、必要な条約の締結は済ませてあるのだ。今回の交渉はその細部のつめであり、どちらかがよほど無茶な要求を出さない限りもめるわけがない。
「それでは両国間の関税は、それぞれの国が自由に決められるということでよろしいですな?」
「はい。我が国と帝國の経済力や技術力の格差が極めて大きいことは理解しております。貴国が自国の産業保護のために高率の関税をかける必要があることは、我が国も認めるところです」
「ふむ、お気遣いまことにありがたくあります」
「なに、これから長い付き合いになりますからね。互いにとって利がある関係を築いてゆくことこそ、末永い友好関係の構築のために必要なことと理解しております」
ヨルハド・ルツ=ヴィス大使の正面に座る早河太一外務大臣は、笑顔でそう言いきった。
日本国から見たルクシニア帝國の技術レベルは、わかっている範囲では地球における二十世紀初頭レベルである。使節団が提示した資料では、産業用エネルギーの主力は石炭であり、ボイラーを焚いてレシプロ機関を駆動させていると記述されていた。
とはいえ、石油の採掘もおこなわれており、船舶を中心に燃料の変更が進んでゆくだろうという話であったが。なおタービン機関は、帝國では今のところ研究室レベルだそうである。
「それでは、日本国のご好意に甘える形で一つ提案があるのですが」
「是非ともうかがいましょう」
机の上で手指を組み笑顔を浮かべているルツ=ヴィス大使が、後ろの随行員から手渡された資料を表紙が見えるように机に置き、早河大臣にむけて押し出した。
「……帝國国土開発大綱草案、ですか?」
「はい。貴国の「日本列島改造論」は、我が国の経済官僚の必読書となっております。単なる産業的見地からのみではなく、国富の国土全体への還元と、それにともなう環境問題も含めた総合的な国土開発による経済基盤の構築と発展、その事業への協力を是非ともお願いしたいのです」
早河大臣は、目の前に置かれた資料を手に取り、ざっとななめ読みで目を通した。
「……確かにこれは、土地開発、物流網の構築、一次二次三次産業の育成と、実に壮大ですばらしい計画ですね」
「おほめにあずかり恐縮です。というわけですので、日本国としてどの程度まで協力いただけるか、検討してはいただけませんでしょうか?」
「なるほど、……基本的な協力形態にご希望はおありですか?」
「はい。帝國と日本国の企業間で合弁会社を設立し、資本は帝國が、ノウハウは日本国が提供する、という形になればと」
ルツ=ヴィス大使のバラ色の夢あふれる言葉に、だが早河大臣は笑顔は崩さず言葉を重ねる。
「なるほど。これだけの事業ならば、十年二十年で終わるはずもありません。貴国が景気動向に左右されずに、それだけの資金を常に提供し続けられるならば、ではありますが」
ルクシニア帝國の国土は、日本国の北側にある北方大陸の西側、全体のほぼ三分の一にも相当する広さをほこっている。その国土全体を開発しインフラを整備するとなれば、数十年単位の時間と気の遠くなるような額の資金が必要になるのが明白であった。
帝國の経済規模は、どうひいき目に見ても日本国の二〇分の一未満、低く見積もれば三〇分の一程度しかないと日本政府は予想していた。第一次世界大戦前の国家としては破格の規模であっても、地球世界の二十一世紀において世界第三位の経済大国であった日本国にとっては、吹けば飛ぶような代物でしかない。
だがルツ=ヴィス大使は、全く笑顔を崩さないまま言葉を続けた。
「もちろん、大臣のご懸念はもっともです。実は我が国は、貴国に借款を申し込むことを検討しておりました」
「確かにそれが、両国にとってもっとも妥当な落としどころでしょうな」
「ですが、これでは日本国にとって利が薄くはありませぬかな?」
異世界に転移してきた日本は、地球世界で海外の資産を処分してきたこともあって、特に政府の特別会計には莫大な資金が貯めこまれていた。なにしろ二兆ドルにも達するかという外為特会の外貨準備を清算し、流通していた日本円を全て回収してきたのだ。その額は概算で約六百兆円を超えるとされている。
この特別会計の資金を帝國相手のODAに使ったとしても、その利子収入は地球世界での外為特会の収入と比較して、大したものにはならないのは明らかであった。
「なので皇帝陛下は、皇室財産より日本国に対して金の売却を検討なさっておいでです」
「金、ですか? それも、皇室財産から?」
「はい。こちらの世界でも、黄金は貨幣価値の裏づけとして使われております。日本国の貨幣は管理通貨制度でしたな?」
「ええ、我が国の貨幣は中央銀行である日本銀行が発行し、その価値を日本国が保証する制度となっています」
早河大臣はこれまでの笑顔をくずし、いぶかしげな表情を浮かべてしまった。
たしかにこの異世界で他国と交易をおこなうのであれば、日本円の価値を現地貨幣とどう連動させるかは、細心の注意が必要となる。ルクシニア帝國の経済規模でもこの世界における大国であるのならば、日本円の価値はこの世界にとってとんでもないものとなりかねないからだ。
「貴国に金兌換貨幣を発行するよう求めるつもりは、帝國にはみじんもありません。それは明らかな内政干渉ですからな。ですが、貴国が周辺諸国と関係を持つ上で、彼らが貨幣として欲しがる金を大量に保有することは、決して小さくない利益となるかと愚考する次第です」
「なるほど、おっしゃりたいことは理解しました。それで、どれほどの量の売却をお考えなのですか?」
一応日本政府も、異世界での交易のための原資として金を用意してはいた。その量は約一千トンにもおよぶ。アメリカ合衆国政府の金保有量が八千二百トンであるのを考えれば、これは相当がんばった数値といえた。
「皇帝陛下は、友好の証として五千トンの売却をお考えであらせられます」
「ご、せんとん!?」
ルツ=ヴィス大使の言葉に、早河大臣はおもわず声がうわずってしまった。五千トンともなれば、それこそ地球世界では金保有量で第二位であったドイツ政府の三千四百トンをも超える量である。
「それは、随分と重たい友情ですな」
「それでも皇室には、同量の黄金が残るそうですが。はは、帝國の皇室は伊達ではないということになりますな」
日本側に与えた精神的奇襲の成果に、ルツ=ヴィス大使はさらに笑顔を深めて追撃をかける。
「当然、支払いは日本円でお願いしたいのですが、よろしいでしょうか。我が国も日本国との交易に支払う貨幣が必要となりますので」
「もちろん、問題はありません。ええ、我が国にとっては願ってもないお話です」
日本が転移する直前、地球世界で金の相場は一グラム一万二千円にまで高騰していた。ウクライナ戦争による経済恐慌と、経済大国日本の消失が金相場をそこまで押し上げたのである。
つまりルクシニア帝國は、日本国との間で六十兆円規模もの貿易をおこなうつもりでいる、と表明したのにも等しい。
「ふむ、この取引が日本国の利益になるのでしたら、重畳というものです。では、お言葉に甘えてもう一つお願いがあるのですが」
「……お聞きいたしましょう」
「日本国のすぐ南西に群島があるのは、確認されましたでしょうか?」
「はい。頂いた地図によれば帝國領となっておりましたが」
「その群島は豊富な鉱物資源を有しているのですが、今の我が国では開発するための余力がありませぬ。なにしろ大陸本土の開発に全力をかたむけねばなりませんので」
笑顔を崩さずたたみかけてくるルツ=ヴィス大使の言葉に早河大臣は、これこそがこの交渉でのルクシニア帝國の本命であると直感が働いた。
そんな大臣の雰囲気が変わったのを目ざとくも察知したのか、大使は新たな資料を彼の前に置いた。
「パラヴィジュラ諸島、と呼ばれている島々です。我が国が確認できただけでも、この世界最大級の銅鉱山があり、さらにはニッケル、マンガン、ボーキサイト、そしてタングステンが豊富に埋蔵されているようですな」
ルツ=ヴィス大使の言葉に、早河大臣はすうっと冷静さが戻ってくるのが自覚できた。
鉱物資源とは、近代国家にとって生命線足りえるほどに貴重な存在なのである。いくらルクシニア帝國が日本国との友好を重視するといっても、これはあまりにも気前が良すぎるというものであろう。
「なるほど、実に素晴らしいお話ですな。何も問題が無ければ、ですが」
「ええ、何も問題が無ければ」
「つまり、その群島を帝國は手放してもかまわない、という理由があるわけですな?」
「お恥ずかしながら」
ルツ=ヴィス大使は、真面目な表情をつくると言葉を続けた。
「実は二十年前、帝國の西方に転移国家があらわれました。名前をイリオン人民社会主義連邦と名乗っております」
「……人民社会主義、ですか」
「はい。そして帝國は、かの国と対立状態にあります。なにしろ我が国よりも進んだ文明を持ちながら拡張主義的であり、周辺諸国に侵略を繰り返しておりまして」
早河大臣は、この会談の直前に内閣情報局よりもたらされた使節団についての情報の中に、そのイリオン連邦がルクシニア帝國にとって甚大な脅威となっていることが強調されていたのを思い出していた。
「つまり貴国は、パラヴィジュラ諸島がそのイリオン連邦に奪われるくらいならば、日本国に譲ってしまった方が利益になる、と判断されたわけですね?」
「左様。いかに宝の山であっても、守り切れないであれば価値はありませぬからな。しかも場所が、帝國の裏庭ともいえる場所を突ける位置にあるというのが困りものでして。ならば、友好の証として貴国に売却してしまった方が両国の利益になる。というのが、皇帝陛下の御英慮であらせられます」
今の時点で日本国は、イリオン連邦についてほとんど情報をもっていない。なにしろこの世界に転移してきてからひと月とたっていない上、転移直後の不審船の来寇による混乱からまだ立ち直れていないのだ。
情報収集衛星の打ち上げ計画も、その混乱のあおりを受けたせいで、この惑星の軌道要素と物理的性質についての情報の収集がはかどっていないために遅れている。
とはいえ、二十年にわたって対立しつつもルクシニア帝國がその軍門に下っていないということは、そこまで国力や技術力に差があるわけではない、ということを意味していると早河大臣は判断した。
「なるほど。我が国のすぐ近くに武力による侵略をためらわない国家が領土を得るのは、極めて憂慮するべき事態となるでしょうな」
「もちろん帝國は、日本国と締結した相互防衛条約にもとづき、貴国が連邦と戦争になるようでしたら遅滞なく参戦いたしますとも」
「これは心強いお言葉をいただけました。あらためて感謝の意を表させていただきましょう」
なるほど、ルクシニア帝國が日本との相互防衛条約に自動参戦条項を入れたがっている理由はこれか、と早河大臣は理解した。
そして、今の日本にこの話を断ることが極めて困難であることも理解できてしまった。なにしろかつて台湾諸島があった位置に、膨大な鉱物資源の埋蔵が確認されている群島が存在し、そこを人民社会主義を標榜する覇権主義的国家が狙っているのである。
地球世界で日本国が、北にソ連と日本人民共和国、西に中国と朝鮮という敵を抱えていた状況の再現になりかねないのだ。それが今の日本にとって絶対に許容できないことは、防衛大臣もつとめた早河大臣にとっては自明の理といっても過言ではない。
「大使閣下、今回は大変に素晴らしいお話を聞かせていただけました。この件は是非とも閣議にかけて検討させていただきたく思いますが、よろしいでしょうか」
「ええ、もちろんですとも。是非とも前向きな回答をいただけることを願っております」
ルツ=ヴィス大使のおもてに満面の笑みがもどったのを見て早河大臣は、ルクシニア帝國が自称ではなく本当にこの世界の大国のひとつである、という事を実感した。
異世界転移という形でこれまでの国際関係を全て失い、この異世界であらためてそれを構築する苦労は筆舌に尽くしがたいものとなるだろう。その困難をかなりのところまで緩和できるよう協力する、というのが帝國が出してきたオファーなのである。
つまり帝國は、日本国が必要とするこの世界での他国との関係の構築を手伝えるだけの影響力を有している、と言外に示してきたのだ。しかも情勢を見極めて損切りをし、切るべき時に取引のカードとして切ることができる国は、間違いなく大国と呼ぶにふさわしい。
早河大臣は、ルツ=ヴィス大使にこの交渉でのポイントを先取されたことを理解し、そしてひそかに闘志を燃やしていた。