混沌とした時代
古代、まだ日本が戦時下にあった頃の話である。
そう…時代としては200年頃、日本は混沌としていた。
神話の世界の話と思われている仲哀天皇は、在位期間がわずか9年間と極端に短い、にもかかわらず、その息子が八幡宮を作ったということになっている。
本当は実在しなかったのでは?などとも言われているが、実はちゃんと実在していた。そしてその事実は悲哀に満ちていた。
さて…
時に14代、仲哀天皇は即位するや今で言う敦賀に居を構えた。つまり、敦賀に皇居があった訳である。
朝鮮半島に近い敦賀は当時、一大拠点となって、渡来人たちで賑わっていた。
そこで仲哀天皇は、大陸から来ていた、後に神功皇后と呼ばれるようになるある美しい女性と出会うことになる。それはそれは美しい女性で、仲哀天皇と結ばれるのもそれほど月日を必要としなかったようであった。
仲哀天皇はそこで政務をとっていた、日本の中心は敦賀にあったのである。もちろん経済の拠点でもあった。
敦賀には朝鮮半島経由で様々な渡来人が生活していたようであった。
仲哀天皇の妃となるその女性もそういった渡来人を出自としていた。
当時の日本は北の方にアイヌがいて、九州には熊襲がいる状態で、なおかつ、半島からは新羅が絶えず攻め込んできていたのだ。
つまり、当時の日本は常に戦時下にあったといってもよいであろう。
その中にあって、仲哀天皇と神功皇后が敦賀にいたときと言うのは、彼らにとって最も穏やかで幸せな時だったかもしれない。神功皇后は、瞳の大きい目鼻立ちのはっきりした美人で、ひとたびその瞳で見つめられるとこちらの動きを封じてしまうような力があった。
申し上げます!
その平穏を破るような甲高い声が聞こえた、参謀の武内宿祢だった。
熊襲が不穏な動きをしております。新羅も気になります、
大本営を移すことも必要かと。
仲哀天皇は立ち上がると目の前に広がる海を見やった。仲哀天皇は供の者数十名と紀伊半島の方に来ていた。
斥候を放っておけ、私はこのまま出立しよう。
どちらまで?
武内宿祢は畏まって尋ねた。
穴門。
仲哀天皇は涼やかに言い放った。
穴門とは今の山口県の長門にあたった、朝鮮半島にも近い最前線とも言えた。
次回 眷属物語 八幡編 2 に続きます。