#7 プレゼントタイム
『雨宮さん』
どこからか、声がした。
『雨宮さん、今週末に課内のみんなで懇親会があるんですけど……どうでしょう?』
女の声がする。面倒でたまらない、他人の声だ。
『そ、そうですか。残念です。もし予定が空いたら、いつでも声をかけてくださいね』
煩雑に書類が置かれたデスクに、動作の重たいPC。年季の入っている黄ばんだキーボードにマウス。
窓の外は暗い。すっかり日が落ちているようだ。
『あいつは付き合いが……から……無駄……て……』
『ああ、雨宮くん。この資料なんだけどさ、悪いけど明日までに……』
遠くから聞こえる不快な声に、近くから聞こえる迷惑な声。
それらに反応せずにぼんやりとしていると、周囲の景色が暗転した。
今度は昼下がり、白を基調とした建物の一室だった。
『お待たせしました、雨宮さん。今回も処方内容に変わりありませんね。用法は先生の指示通り、一日三回、毎食後に一錠です。眠気には気を付けてください』
白衣の女性が、カウンター越しに言葉を投げかけてくる。カウンターの上には、何事かプリントしてある白い紙袋。
『え? いや、それは駄目ですよ。処方せんの日数でしか薬局では出せません。それにこの薬は日数制限があるので、三十日以上は無理なんです。来月またクリニックを受診して、先生から処方せんをもらってくださいね』
紙袋を手に、自動ドアの前に立つ。
天井近くのセンサーが赤く点灯し、ガラスのドアが左右に割れる。ドアの向こうの光が、視界いっぱいに広がった。
『いつまでも、そうして無言でいられてはね……』
夕焼け空の、茜色の光が差し込む一室。窓を背に、夕陽を遮ることで真っ黒に映る複数の人影。
影法師たちが、悪意と疑念と怒りに満ちた言葉を、穏やかな雰囲気を装って投げかけてくる。
『なあ、正直に話してくれないか? 魔が差してしまったんだろう?』
『君以外に考えられないんだよ、雨宮くん』
忌まわしい言葉が、連続して耳を打つ。
『着服……円はどこに……会社として……だが……信じた……ないが……』
『ご実家は……弁護士……ら……の……ご両親も……』
『それに……薬……科の通院歴……で……面接では……』
視界がぼやけ、耳に入ってくる音声にノイズが走る。
不愉快で、嫌悪に満ちて、どうしようもない言葉の羅列。それらがどんどん遠くなっていく。
『………………』
無音。もう何も聞こえない。
そして、もう何も見えない。目の前は真っ暗だ。
なぜ暗いのか。そう考えた後に、気が付いた。瞼を閉じているからだ。目の前が真っ暗なのは当たり前だ。
瞼を開けると、目の前に光が広がって、弾けた。
◇
「おはようございます、貴方」
「うん……おはよう。ホワイト」
瞼を開けたキミヒコの目に映るのは、宿の一室の天井だった。
先程の夢の影響か、視界になにか違和感があるような気がする。何度もまばたきをしてから、キミヒコは思い出した。
ああ、そうか。俺、もう左目が駄目になってたな……。
夢の中の視界に比べ、今の視界は狭かった。
眼帯を探して、ベッドサイドのテーブルに手をやるキミヒコに、同じベッドで横になっていたホワイトがすり寄ってくる。
ホワイトはキミヒコの顔にそっと手を添えると、その左目に眼帯を優しく取り付けた。
「ん……ありがとう、ホワイト」
言いながら、キミヒコはホワイトを抱き寄せ、その胸元に顔を埋めながら再び横になる。ドレス越しに、人形の硬質な感触が、顔いっぱいに伝わってくる。
「夢を見ましたか?」
されるがままのホワイトが、そんなことを聞いてきた。
「ああ、見たよ。この世界はいつも夢見が悪い……」
「……なにが見えました? 過去? それとも未来?」
「過去……この世界に来る前。昔のことだ」
昨日の飲み会のせいだろう。家名がどうこうなどという話題が頭に残っていて、夢に影響したらしい。
「てか、未来のことなんて見えないだろ……」
ホワイトの発言に対して、キミヒコはそうこぼした。
「この世界の存在がこの世界を観測するのなら、そうでしょうね」
キミヒコが怪訝な顔をしていると、ホワイトはさらに説明を補足する。
「この宇宙は三次元空間と一次元時間で構成されています。時間は、過去から未来への方向性が存在し、それは不可逆なものです。だから、現在から未来を見ることはできない。通常ならですが」
「俺とお前は通常ではないと。高次元の存在とでも言うつもりか?」
「いえ、大いなる意思のような上位者ならともかく、私たちの観測可能な次元に差異はありません。私たちも、縦、横、奥行きの三本の空間軸と、過去から未来への一本の時間軸の中で存在しています」
ファンタジーのような、物理学のような、キミヒコにはよくわからない解説をホワイトが続ける。
「ですが、私と貴方はこの世界の外部から入り込んだ存在です。時空の位相がズレて存在しています。運命に囚われていない、と言い換えてもいいでしょう。それにより、時間軸の歪みを観測することもある」
「ふーん、なるほどー。さっぱりわかんねぇ」
興味なさげに、キミヒコが言う。
ホワイトのこの講釈を聞くのは初めてではない。その能力の一端を確認した際にも聞いたことがある。
ホワイトには、なぜ魔術的な拘束や結界が無効なのか。直近の話なら、帝国軍がホワイトから周囲への安全保証のため、厳重な魔術封印を施したことがある。だがそれは、まったく効果がなかった。
その理由が、今の話にも出てきた「時空の位相のズレ」である。
この特性により、結界などの手段でホワイトを拘束することはできない。同様に他の世界から来たキミヒコにも、この特性は備わっているらしい。
なにやら複雑な理屈があるらしいが、キミヒコの理解の及ばない話であるし、あまり興味もなかった。
「まあ、良くない夢を見たとしても、気にされることはないということです」
「仮に良くない未来を見たとして、気にしないわけないだろ」
「言ったでしょう? 私たちはこの世界の運命からは外れた存在です。過去、未来、そして今この時この一瞬。全ては貴方と私の手の内にある。運命など、しょせんは我らの奴隷に過ぎないということです」
キミヒコの頭をその胸元に抱きながら、ホワイトはそんなことを言う。
どうやら、嫌な夢を見て気落ちしている主人を慰めているつもりらしい。付き合いの長いキミヒコには、それがわかった。
おおよそ、常人には理解できない慰め方だが、キミヒコにはそれが心地よく思えた。
「それはそれとして、貴方。昨日は休肝日だったはずですが」
今度は小言が始まった。昨日のラミーとミルヒとの飲み会について、たしなめられているらしい。
確かに昨日は酒を飲まないと決めた日ではあったが、キミヒコにも言い分はあった。
「そう言うなよ……。雇われとはいえ、付き合いってものも大切なんだよ」
先程の夢の内容を反芻しながら、言い訳する。
組織で孤立した者の末路を、キミヒコは骨身に染みていた。
「別にアルコールを介する付き合いでなくともいいでしょう。……貴方、そんなことだから片目を失うようなことに――」
くどくどと文句を垂れるホワイトに、「大きなお世話だ」とか「うるせー馬鹿」など、いい加減な返事を繰り返していると、キミヒコは突然に思い付くことがあった。
「なあ、自分のことで今気が付いたんだけど」
まだ続いていたホワイトの諫言を遮り、キミヒコが自らの思い付きを切り出す。
「俺って攻撃的なコミュニケーションが結構好き……いや、憧れてたんだな」
「……はい?」
いつも一歩引いていて、丁寧な口調で当たり障りのない言葉を繰り返す。昔はそれを苦痛と感じたことはなかったし、それしか知らなかった。
今ホワイトとしているような、攻撃的な言葉の応酬。こうした気の置けないコミュニケーションは存外悪くない。そんなことを唐突に思いついた。
「まあわからんなら、それでいい。俺はお前のことが好きなんだと、再認識したってだけ」
よくわかっていない雰囲気の人形に、キミヒコはそんなことを言う。
そして今度は逆に、人形の頭を自身の胸元へ手繰り寄せて、抱き締めた。
「ふん……雨宮公彦、か。馬鹿でマヌケな、あんなクズ野郎はとっくにくたばった。俺は違う。もう、あんな……」
過去への決別の言葉を呟くキミヒコの背に、人形はそっと手を這わした。




