#27 永訣の朝
キミヒコにメドーザ市からの逃亡を誘われた翌日の朝。まだ日が昇っていない時刻。アデラインは迷っていた。
キミヒコの誘いに乗るか、乗らないのか。答えはまだ出ていない。
出かける前にいつも使っているドレッサー。その前の椅子に座り、鏡を見ながら、ぼんやりと思いを巡らす。
いつまでも答えが出ないため、思考が脇道に逸れ、考えるのは自分の過去のことだった。
アデラインが自らの性癖を初めて自覚したのは、父と共にカリストからアマルテアへ帰るため、山脈を越える道中でのことだ。
そこで同行していた巡礼者が、生きながらドラゴンに喰われるのを目の当たりにしたのが最初だった。気がいい青年で、幼い自分にも気さくに話しかけてくれた彼が、自分と父に必死に助けを求め、泣き叫ぶ。
その様子を、彼の眼差しを、逃げる父に手を引かれながら見つめたとき、アデラインはそれを、この上なく美しいと思った。
その美しいものを手に入れる喜びを知ったのは、アデラインが司祭になるため、教会系列の初等学校に通っていた頃だ。
アデラインはその日、怪我をした小鳥を中庭で見つけた。窓ガラスにでもぶつかったのか、地面に蹲って動けない小鳥を、優しく手のひらで掬い上げる。
最初は怪我の手当てをするつもりだったのに、小鳥の怯えたような眼差しを見て、アデラインの中でなにかが切れた。
いつの間にかアデラインは両手を重ねて力を込めていた。顔だけ出された状態で、小鳥が手の内でもがき苦しみ、のたうちまわる。そうして、自らの手の内で死の淵にある生命が、懸命に生き足掻こうとする、その必死の眼差しをアデラインは楽しんだ。
小鳥の件で味を占めたアデラインは、それからずっと小動物でお楽しみを続けていた。同居していた父親には、ある時この趣味がバレてしまい大目玉をくらう。だが、父にいくらやめろと言われても、アデラインがこの趣味をやめることはなかった。
アデラインの父は、娘の奇行が自身の立場に悪い影響を及ぼすと考えたのか、周囲からそれを隠匿した。初等学校卒業後の魔力測定の折にしようとしていた、炎術師の申請も見送られた。許可申請の際の、人格チェックで引っかかるのを恐れてのことだ。
すでにこのとき、アデラインの火炎魔術は証拠隠滅に一役買っていた。アデラインはこの美しいものを標本にしてとっておこうと、父を何度も説得したが、聞き入れられることはなかった。彼女の美しいものは毎回、彼女の手によって焼却処分させられた。
そんな生活を続けるうちに、アデラインの父は、娘を見るたびに恐怖の眼差しをするようになる。そんな目を向けられるたび、アデラインは嬉しくなって、その瞳をずっととっておきたいと、そう思った。
そしてある日、娘を恐れるあまり、自宅にもほとんど寄り付かなくなった自分の父親の瞳を、アデラインはようやく手に入れた。
父の眼球は、アデラインのお気に入りだった。
ただ厳しいだけで、自分の趣味にも理解を示してくれなかった父親だったが、その瞳は美しかった。それを見ていると、嫌いだった父親が嫌いでなくなった。嫌いになれなくなった。
だがその瞳も、もはや失われた。
「キミヒコさん……」
アデラインの口から、意中の男の名前が漏れる。
不思議な男性だった。自分と似た魔力を持つあの美しい瞳の人形を傍に置く、年上の異性。口ではなんとでも言いつつ、彼はあの人形を本当に大切にしていた。
アデラインは自分の魔力波長を常に偽って、隠してきた。父に言われたからだ。自身の魔力は、真っ当な倫理観や道徳観を持った人間には受け入れられないと。しかし、似た気質の魔力を持つあの人形は、そんなことはまったくせずに、堂々と彼に寄り添っている。
しかも、どうやらあの人形は彼の願いの産物で、彼の望みそのもののようだった。あの人形の魔力は、人間性というものを徹底的に排斥するかのような性質だ。そしてそれを望むような人間。それはきっと、自分と同類に違いない。
アデラインは鏡に映る、自分の顔をまじまじと眺める。
あの人形ほど人間離れした美貌ではないが、どことなく似た顔立ちだ。そのうえ、魔力性質も似ている。
なら自分も、彼に受け入れられるのではないだろうか。それどころか、彼の理想に近い存在かもしれない。実の父から気味悪がられた、魔力も、趣味も、彼ならきっと受け入れる。
一度は嫌われたのだと絶望したが、彼はやはり、救いの手を差し伸べてくれた。
ああ、やっぱり、彼と行こう。たとえその先で破滅したとしても、それもきっと、悪くない……。
アデラインは決断した。
準備をしなければと、ドレッサーの前から立ち上がるアデラインの目の端に、映るものがあった。
十字の形をした髪飾りがドレッサーの上に置かれている。父の瞳を手に入れたときからずっと身に付けている、自らの業の象徴。
その髪飾りを手に取ろうとして、それは聞こえた。
――そんなもの、持っていってはいけないわ……。
思わず、口元を押さえる。
今のは、自分の独り言か。鏡の中の自分が、口を動かしていたようにアデラインには見えた。
落ち着いて、鏡を見る。怪訝な顔をした自身の顔がそこに映っているだけだった。
それを確認してから、再び髪飾りを手に取ろうとして、アデラインは躊躇した。手が震えている。
持っていくべきでは、ないかもしれない。そう思って手を引こうとしたアデラインの脳裏に、ある光景が走った。
意中の男性、キミヒコのあの眼差し。
あの日、あの晩に、数多の眼球に囲まれながら、アデラインを抱きしめながらしていた、あの冷たい目。
「あの目、欲しいな……」
アデラインの口から、そんな言葉が溢れる。
手の震えは、いつの間にか収まっていた。
◇
旅装束と顔を隠すフードを身に纏い、アデラインが自宅を出ると、昨晩は気が付かぬうちに雪が降っていたようで、街は雪化粧で彩られていた。
足早に目的地へと足を運ぶアデラインの耳に、シャクシャクと処女雪に足跡が刻まれる音が響く。
あと少し、あと少しで彼に会える。もう深いことは考えず、ただそれだけの思いで、雪に足を取られながらも一心に歩く。その髪には、いつもの十字形の髪飾りがあった。
目的の場所まであとひと息という所で、街の子供たちが雪遊びに興じている光景がアデラインの目に映った。こんな早朝に友達同士で集まって、甲高い声を上げなからはしゃいでいる。その無邪気な様子は、誰もが微笑ましいと思うような、気持ちが温かくなるような光景だ。
だがアデラインはそれを見て、どういうわけか劇しい吐き気に襲われた。
自身でもわからないなにかから隠れるようにして路地裏へと身を移し、そのままそこで嘔吐する。昨晩からなにも食べてはいないので、黄色い胃液だけが白い雪を汚した。
悪寒に身を震わせながらも、どうにか気分を落ち着けていると、薄暗い路地裏の奥から小さい人影がこちらへ向かってくるのが見える。
白くて小さい人影。キミヒコの人形、ホワイトだ。
雪に溶け込むような白い装いの中で、金色の瞳が朧げな朝日を反射し、不気味な光を放っている。
「……ああ、迎えに来てくれたんですね。少々、気分が悪くなってしまって……。遅れてすみません」
アデラインが声をかけるが、返事はない。
人形はただ、ゆっくりと歩みを進めている。魔力の糸が蠢き、その手に集中されていくのが、アデラインにも感知できた。
「ホワイトちゃん……?」
キミヒコと共にいるときとは、まったく異なる様子のホワイト。それの意味するところは、アデラインでも容易に察することができた。
「ああ、そう、そうなのね……。ふふ……こんなものを、持ってきてしまったから、か」
アデラインはそう言いながら、顔に手を当てた。その指先は十字形の髪飾りに触れている。
妖しい笑みを浮かべ、天を仰ぎ見るアデラインの下へと、人形がゆっくりと足を進める。
「ふふ……ふふふ……。だって、だってね…………だって私はッ!!」
叫ぶと同時、顔に当てていた手で髪飾りを取り外す。フードが脱げて、プラチナブロンドの髪がはらりとなびいた。
折り畳まれるように仕込まれていた隠しナイフが、髪飾りの先から飛び出す。その小さな刃はアデラインの魔力を吸ってドス黒く輝いた。
数多の人間を切り刻み、眼球を抉り、その命を奪った凶刃はしかし、人形には届かなかった。
その刃が人形の顔に触れる前に、アデラインの腕は人形の手刀により切断された。凶刃を手にしたまま、肘から先の腕が、明後日の方向へと飛んでいく。
一拍間を置いて、その切断面から鮮血が噴き出した。
ならばと、今度は反対の腕を眼前へと突き出す。その手の先から、火炎魔術が迸り、アデラインの視界を赤く染めた。
しかしそれも一瞬のことだった。人形の腕が無造作に振るわれ、その腕も難なく切り落とされる。炎は人形へ向かうことなく、その腕ごと雪の上へと落ちるだけに終わった。
指向性を失った魔力の炎はアデラインの腕の肉へと着火し、雪を溶かすことなくその血肉だけを焼き尽くし、消していく。そのあとには血痕すら残らない。
両の腕を失ったアデラインは、そのまま数歩後ずさり、仰向けに倒れ込んだ。雪が彼女の体を優しく包み込み、ふわりと羽毛のように巻き上がる。
ドクンドクンと心臓が脈打つたびに、両腕があった部位から鮮血が漏れ出て、白い雪を赤く汚していく。
急速に血圧が下がり、意識が朦朧とするアデラインの目に、それは映った。
人形の美しい、金色の瞳が、朝日を反射してキラキラと輝いている。
「あ……綺麗……夢みたい……。ねえ、キミヒコさん……あなたも、その瞳を……」
◇
メドーザ市中央東公園。シンボルの英雄像はその手にあった槍を失った状態のまま、雪を被って立っている。破壊された広場の石畳もまだ修復されていないが、雪に覆われその様子は窺えない。
「……遅いな」
そろそろ、朝の鐘が鳴る。そんな時間に、キミヒコは広場のベンチで、人を待っていた。待ち人は逃亡のお誘いをかけたアデラインと、馬車の御者への言伝を頼んだホワイトだ。
馬車は積雪でここまで入ってこられないとのことで、市外に待機していると連絡があった。アデラインを連れて行くには、そこは目立ちすぎる場所だった。そのため、馬車の御者に人通りの少ない方面への移動を指示するためホワイトに言伝を頼んだのだが、まだ戻らない。
そんな次第で、寒空の下、こうして一人でキミヒコはぼんやりと佇んでいる。
アデラインの家の方角へ視線をやると、子供たちが雪遊びに興じているのが見えた。
誰もいないと思ったのに、まったく、元気なことだな。こんな寒い朝からさ……。
雪合戦をやったり雪の上を転げ回ったりで、彼ら彼女らは雪まみれだ。キャイキャイと楽しげな声が、雪に覆われ清廉な空気に満ちた広場に響き渡る。
子供たちの様子をぼんやり眺めていると、ホワイトがそちらから歩いてくるのが見えた。
うん……? なんでそっち方面から来るんだ? あいつが向かった場所は反対方向のはずだが……。
訝しんでいると、ホワイトはキミヒコの下まで到着し、その隣へと腰を下ろす。
「お待たせしました」
「ん……ご苦労さん。遅かったな。寄り道でもしてたか? そっちはお前の――」
キミヒコが喋ってる最中に、鐘の音が鳴り響いた。
……時間か。あいつは来なかったが、どうしようか。……もう少し待ってもいいか。この雪で遅くなってるのかもしれないしな。
もう少し、ここで待つ。そう決めて、ホワイトにその旨を伝えようとしたとき、風が吹いた。ホワイトの方からキミヒコの方へ、雪を巻き上げながら冷たい空気が通りすぎる。
冷たく湿った雪の芳香と共に、なにか鉄っぽいような香りが鼻腔をくすぐる。いつだか、この人形から香ったこともある血の臭いだ。
「ホワイトお前っ……!」
ホワイトが来た方向。ホワイトが身に纏う香り。それらが意味するところを察して、キミヒコは初めてこの人形に怒りを覚えた。思えばこの世界に来てから、ホワイトにはいろいろ悩まされたこともあったが、本気で怒ったことはなかった。
なぜ殺した。キミヒコがそう問いかける前に、人形が口を開く。
「貴方への殺意があったので始末してきました。……貴方は、私がずっと守ってあげます。貴方を傷つける全部からね」
ホワイトの言葉は、キミヒコを激しく動揺させた。
あいつ、俺を殺そうとしたのか。今までそんな素振りは見せなかったのに、最後の最後で、これか……。だが、俺たちが手を下す必要はなかったんだ。どうしてこうなるんだ……。
アデラインの殺意の原因。破滅の一因を作ったキミヒコに対する逆恨みか、あるいはこの眼球が欲しくなってしまったのか。いったいどうしてなのか、キミヒコは考えを巡らすが、答えはでない。
そして、放っておいても処刑されたアデラインを、わざわざその手にかけてしまったホワイトに、どうにもならない思いが広がる。
頭の中がいろいろなことでごちゃ混ぜになり、考えがまとまらない。
「……あいつ、なにか言ってたか?」
しばらくして、ようやく口から出たのは、罵倒の言葉でも怒りに任せた詰問でもなく、そんな問いかけだった。
キミヒコ自身も、なんでそんなことを聞いたのかわからない。
「はあ。夢がどうとか言ってましたね」
ホワイトの返答を聞いて、キミヒコは黙りこくった。そのまま、背中を後ろに倒して、ベンチの背にもたれかかって空を見上げる。
雲ひとつない、澄み切った青空が視界いっぱいに広がった。子供たちのはしゃぎ声と教会の鐘の音が、まだ響いている。雪風が舞い、キミヒコの顔に粉雪が降り注いで、頬を濡らした。
夢、夢か。そういえば、こんな夢を、前に見た気がするな……。
頬に触れた雪の感触で、キミヒコはいつか見た夢を思い出した。
降りしきる雪、狭い電話ボックス、そして父親からの心無い言葉。
寒くて、辛くて、独りぼっちで。だが悪夢ではなかった。なぜだろうか。目覚めた時には、その理由を忘れてしまっていた。
「……貴方? 泣いてるんですか?」
ホワイトの言葉を受けて、キミヒコの脳裏に、あの夢の最後の記憶が蘇る。
――ああ、貴方。もう泣かないで。貴方のしたいこと、私が全部してあげるから。貴方を傷つける全部から、私がずっと守ってあげるから。私が貴方の、全部を……。
あの悪夢の中で救いになった、悪夢を悪夢でなくしてくれた、あの言葉。あれを囁いたのは――。
「…………ホワイト。ま、いいよ。お前も、俺の全部を許してくれるんだろ? これからも仲良くやってこうぜ。二人で、さ」




