#22 旋律の誘い
教会の奥まった一室、そこでたどたどしいピアノの音色が響いている。
メヌエットト長調らしいその演奏は、ゆっくりでおぼつかないものではあったが、曲の最後まで奏でられた。
「な、なんとか最後まで弾けました……」
「お上手。この期間でこれだけできれば、大したもんだ。もう両手で弾けるんだからな」
「ふふ、ありがとうございます」
アデラインを相手に、キミヒコはなぜかピアノの先生をやっていた。今の彼女は、天体観測のときのような、妖しい雰囲気はない。一見して純朴な、普段の大司教様だ。
こんなことをやっていていいのだろうか。キミヒコはそう思う。
厚生局での話からは、既に丸一日経過している。
彼女は殺人容疑がかけられた、危険人物である。あの話以来、アデラインと二人きりで会うのは避けることに決めていた。今この場にもホワイトがいる。
ホワイトは特にアデラインに対して気にした様子はない。今のところ、キミヒコに危険はないらしかった。
「……どうか、されましたか?」
少し考え込んでいたら、不安そうな声がかかった。
「いや、まあ……。このところ、いろいろあったからな」
「ブラムド司教のことですか? 意外ですね」
故人について考えることを意外と言われ、キミヒコは胡乱な目を向ける。
「キミヒコさんは、あまりそういったことを気にしない人だと思ってました」
「……腕一本残して、消えちゃったからな。そりゃ、他の部分がどうなったとか、気にはなるだろ。アデラインはどうなんだ? 司教とはそれなりに付き合いがあったんじゃないの?」
「ブラムド司教ですか……。彼は父に、よく仕えてくれました。大柄で一見怖そうなんですけど、優しい鳶色の瞳を持った人でしたね……」
アデラインは自身の髪飾りを、しきりにその手でいじりながら、そんなことを言った。
人となりについては言及しても、本人に対してどう思っているかは口にしない。おそらく、どうでもいいと思っているのだろう。
「キミヒコさん。私、あなたにお礼をしたいです」
唐突に話を切って、アデラインが言った。
「……お礼?」
「ええ。ピアノの先生をやってくれているじゃないですか。ようやく一曲弾けるようになりましたからね」
ピアノの先生は、最近に始めたことではない。今も呑気にこうして続けているのは、急に態度を変えることで、アデラインへの疑いを気取られたくないからだ。
「……どうです? 今晩、私の家で夕食でも。私、料理には自信があるんです」
ピアノの先生のお礼に、自宅に招いて手料理を振る舞うとアデラインは言う。
この手の誘いは今までも何度かあったが、キミヒコはいつも断っていた。
「……そうだな。たまには、いいかもしれないな」
だが今回、キミヒコは初めて、アデラインの誘いに乗った。
断られると思っていたのか、アデラインはポカンとした表情を浮かべている。だがそれも一瞬のことで、その顔がパアッと明るくなる。
「ええ! 是非、是非来てくださいね! 私、頑張りますから!」
声を弾ませて、アデラインが言う。
表面上、本当に嬉しいような雰囲気にキミヒコには見えた。頬は紅潮し、耳まで赤く染まっている。
こいつ……いったい、なにを考えてるんだ……? これも演技なのか? 俺を招き寄せて、殺す気か?
何の裏もなさそうなアデラインの純朴な様子に、キミヒコの心中で疑念が渦巻く。
そんなキミヒコの心など、知ってか知らずかアデラインは手料理のメニューをどうするか考えているらしかった。
キミヒコの好物や嫌いなものを慎重に聞いてくる彼女は、恋に恋する少女のようだ。普段の凛々しい姿とも、キミヒコにだけ時折見せる妖艶な姿とも違っていた。
いったいどれが、アデラインの素顔なのか。キミヒコにはわからなかった。
◇
ピアノ教室が終わり、キミヒコはホワイトを連れて市内を歩いていた。
アデラインは夕食の準備のため、買い出しに出掛けている。
「貴方、どうされるおつもりで?」
「どうって、なにがだよ」
「貴方の目的がわかりません。役所に突き出すための証拠集めですか? それともあの女を抱くため?」
ホワイトが、キミヒコの目的を問いかける。
言うまでもなく、今晩のことだろう。
「……前者だ。お前も連れていく。あの女が怪しい素振りを見せたら、容赦するな。俺の指示を待たず即座に殺れ」
冷酷な声色で、ホワイトに指示を出す。
異性の家に招かれているのに、この人形を連れていくのもどうかと思われたが、仕方がない。アデラインに殺意がある可能性を思えば、ホワイト抜きでノコノコと一人で行くなど考えられないことだ。
「それは本心なので?」
キミヒコの指示に対して、この人形は重ねて問いかけてきた。
「……どういう意味だ?」
「そのままです。最近の貴方の行動はなんともチグハグで、私には理解が及びませんが……。まあ、貴方がやりたいようにすればいいでしょう」
ホワイトはそれだけ言って、話を終えた。
なんだよこいつ。人形のくせに、わかったふうな口をききやがって……。
そうも思うが、ホワイトの言うところの意味もキミヒコにはわかっていた。今の自分の行動は、合理的ではない。
厚生局の依頼など無視して、アデラインとの関係もスッパリと絶って、この都市から出ていくのが賢い選択というものだ。
馬鹿なことをしていると自嘲しながら、キミヒコは歩き続ける。
その後、キミヒコはそのまま厚生局に顔を出し、先日の話を受けることを伝えた。




