#0 プロローグ
キミヒコはただ一人、雪降る夜道を歩いていた。
等間隔に設置された街灯が、歩んでいるコンクリートの道路を照らす。その光は不安定で、ジジジと不快な音を立てて点滅している。しんしんと降りしきる雪が、体から熱を奪う。ひどく、寒い。
この寒さから逃れたくて、キミヒコは歩く速度を上げるが、見えるのは延々と続く道と街灯だけだ。歩けど歩けど、寒さと雪を凌げる場所は見つからない。
なにかないのか。コンビニでも公衆トイレでもなんでもいい。とにかく寒いんだ……。
しばらくそうして歩いていると、進む先に街灯とは違う明かりを見つける。
キミヒコはその明かりに向かって駆け出した。シャクシャクと音を立て、処女雪にキミヒコの足跡が刻まれていく。いつの間にか、雪が進む道を覆っていたらしい。
キミヒコが見つけた明かりは電話ボックスだった。
ともかくここに入れば、雪は凌げる。そんな思いで電話ボックスにキミヒコは駆け込んだ。ガラス張りの狭いボックスの中に入って、ひと息つく。
しばらくそこでぼんやりしていると、備え付けの緑色の電話機が鳴った。どういう訳か、それに対して特に疑問を感じることもなく、キミヒコは受話器をとっていた。
『情けない成績だな。もう少し頑張れないのか。――の科目はよかった? 他がダメならトータルでマイナスだろうが』
『はあ……。お前の通信簿はもう見たくないよ。まったく、養ってもらっている分際で……』
『兄のくせに、同じテストを受けたら、下の学年の弟の方が出来がよかったりしてな』
ガチャリと乱暴に叩きつけるようにして受話器を置いた。勢い余って固定位置から受話器が外れ、コードで吊り下がるようにして、地面スレスレのところで揺れている。
電話は切れたのか、ツーツーという音が受話器から漏れているのが聞こえた。
……なんだ、これは。
呆然としていると、今度は上着のポケットから着信音が鳴る。スマートフォンを取り出し確認すると、非通知での着信のようだった。
画面をタップして、受話口に耳を当てる。
『母さんはお前の保護者面談で恥をかいたんだぞ。申し訳ないと思わないのか、お前は』
『塾も家庭教師も習い事も、親心でつけてやったのに、お前はそれを全部無駄にしたな』
『また落ちたのか。もう勝手に、好きな所を受けたらどうだ。奨学金制度くらい、お前でも使えるだろう』
キミヒコはスマートフォンを投げつけた。
勢いよく電話ボックスのガラスに当たり、そこにヒビが入る。スマートフォンはボックス内の床を転がり、それきり黙った。
ああ、クソが! クソ野郎が! 誰がお前なんかのために……誰がッ!
どれくらいの時間が経っただろうか。キミヒコは電話ボックスの中で、体育座りで俯いていた。
どこからか、か細い声が聞こえてくる。声のする方に視線をやれば、フラフラと揺れる固定電話の受話器から、声が漏れているようだった。
『ごめんなさい。ごめんなさい。もう、許してよ。次のテストは頑張るから……。ピアノも習字も水泳も、もっともっと練習するから……。だから、だから……』
聞きたくない。その一心でキミヒコは両手で耳を塞いだ。
俺はもう誰にも謝らない。誰の許しも乞わない。だからそんな言葉はもう、絶対に言わないんだ……。
フッと冷たい風が頬をなでる。そちらを見上げれば、先程のガラスのひび割れがあった部分に穴ができて、雪が舞い込んでいた。
雪はキミヒコの顔へと降り注ぎ、体から奪った熱で溶け、その頬を濡らした。
――ああ、貴方。もう泣かないで。貴方のしたいこと、私が全部してあげるから。貴方を傷つける全部から、私がずっと守ってあげるから。私が貴方の、全部を許してあげるから……。
どこからか声が聞こえた。知っている声だ。誰の声だったろうか。
その優しげな声にキミヒコが反応しようとすると、世界が暗転した。
◇
「……ホワイト?」
「どうしました? こんな早い時間に」
キミヒコの身を包む羽布団の中から声が聞こえる。
同衾していたホワイトが、もぞもぞと布団から這い出てきて、キミヒコと目を合わせた。ここは借りている宿のベッドの上だ。どうやら眠っていたらしい。
寝起きのため明瞭としない意識のまま、キミヒコは直前でのことを思い返す。誰かに声をかけられた。そんな気がしていた。
「お前、さっきなにか言ったか?」
「は? いえ、なにも言ってないですが」
キミヒコの問いに、人形はそう返す。
この人形は主人に嘘は言わない。どうやら、夢でも見ていたらしい。なにを言われたのかも、キミヒコはもう覚えていなかった。
「夢見が悪かったですか? さっきまでうなされていましたよ」
「ああ、うん。よく覚えてないが、悪い夢だったような気がする」
夢の内容を思い出そうとしたが、うまくいかない。ただ、不快な夢だったような気はする。寝汗を吸った肌着が体に張り付いて、それもまたキミヒコを不快にさせた。
だが、あの最後の声。あれで、それまでの不快さは削ぎ落とされて、安らかで救われたような気持ちになった。
キミヒコはそんな気がしていたが、あれも夢の一部だったらしい。
「……いや、やっぱりそこまで悪くなかった」
「えぇ……。どっちなんですか、まったく。寝ぼけていますね」
寝ぼけている。確かにそうだとキミヒコは思った。いつも起き出す時間よりも、だいぶ早い。
窓に目を向ければ、雄大な山々が朝日を浴びて、ぼんやりとその輪郭を映している。高級宿だけあって、部屋からの眺めは壮観だった。
窓から見える連峰の向こうには、アマルテアとは別の地方、カリストの大地が広がっている。
ここはメドーザ市国。アマルテア最西端の山脈、その麓にある都市国家である。
そのメドーザ市にある、高級宿の一室にキミヒコたちはいた。
「ずいぶんと早いお目覚めですね。朝食の時間までまだ間がありますが、どうします?」
「……ん、寝直すか。まあ朝飯の時間を寝過ごしそうになったら起こしてくれ。おやすみ」
「……ええ、おやすみなさい」
まぶたを閉じ、キミヒコは再び眠りに落ちていく。今度は夢を見なかった。




