#38 無月散水
何かが空から落ちてくる。
最初にヒュー、と風を切る音がして、その後すぐに爆発音が響く。爆発の音の後には、パラパラと破片が落ちる音。それらの主旋律の他、人々の悲鳴、絶叫、泣き声が副旋律となり、悲惨な音楽を奏でている。
そんな混沌に包まれている市街を単独で走り抜け、エミリアは目的地に到達していた。
ここが、ドゴーラ市の聖堂……。デュクス卿は……まいた、か? いずれにせよ、彼を倒すよりも、アーティファクト確保の方が優先順位は高い。今は王笏の回収を済ませて、彼のことはその後ね……。
ドゴーラ市大聖堂。言語教会の施設であるそこは、このような有事であれば本来、市民の避難所としても機能するはずだった。
しかし、今。その聖堂の周辺は閑散としている。正面入り口にはバリケードが設けられ、そこには張り紙が貼られている。貼り付けられた紙には、総督府通達として立ち入り禁止の旨が記載されていた。
エミリアはバリケードを無視して、建物の裏手の方へと向かっていく。そうして、とある窓の前に立ち、三回、窓ガラスを軽く叩いた。
「誰だ? ここは閉鎖中だ」
しばらくの静寂の後、そんな声が窓から聞こえる。
「この浮世も、しょせんは幻」
「……どうぞ」
エミリアが合言葉を口にすると、カチャリと窓の鍵が開く音がする。
そっと窓を押して開き、音のしないように注意しながらエミリアは内部へと侵入した。中にいたのは、総督府の人間。キミヒコの調略により、解放軍と内通している総督が用意した人員だ。
「早いですね。それに、まさかあなたが来るとは。計画では——」
「外の状況はわかっていよう? 時間が惜しい」
「失礼しました。こちらです」
そう言って、内通者の男がエミリアを先導する。
音を立てぬように静かに移動する間、エミリアはいくつか確認のために小さく声をかけた。
「品物の場所は?」
「礼拝室です。本国の正規軍の手の者が見張っています」
「人数は?」
「三人、いずれも正規兵です」
「わかった。それは私が処理する」
小声でそんなやり取りをしているうちに、目的の部屋の前に二人は到着した。
礼拝室の裏口、聖職者が聖句を朗読するための壇上にほど近い、小さい扉。その取手に手をやろうとするエミリアを、案内の男が手で制止した。
「私が先に入室して、注意を引きましょう。その隙に——」
「そこまでしなくていい。もう、十分。……帝国軍の爆撃は、アーティファクトのありそうな場所を狙わないはず。どこかに隠れて、やり過ごしなさい」
「……あの、人形遣い……キミヒコ殿には……」
不安気なその表情に、エミリアはフッと笑う。
どうも、彼はこの後のことを心配しているらしい。危険を犯して裏切りをやっているが、あっさり切り捨てられるのではないか。そんな不安を抱いている。
キミヒコはずいぶんと恐れられているようだ。
「心配しなくていい。私からも言っておくし、あの人は、あれで結構優しいよ。だから、まずは生き残りなさい」
エミリアの言葉に男は深々と頭を下げ、静かに去っていった。
それを見送ってから、エミリアは突入前に武器の確認をする。
手持ちの武器は三つ。
メインウェポンのロングソードがその手に一振り。サブとして、左右の腰にくくりつけてある二つの鞘に短剣が一本ずつ。アーティファクトや騎士武装のような特殊な力はない、いずれもごく一般的な武器である。
得物の確認を終え、扉の取手に、エミリアは剣を持っていない方の手を置いた。
そして意を決して、勢いよく開け放つ。
大きな音を立てて扉は開き、そのすぐ近くには兵士が一人。
裏口を警戒していたであろう彼が、侵入者を視覚し、脳で理解し、何らかのアクションを起こすまでのその刹那。その一瞬の時間をエミリアは許さなかった。
瞬時に振るわれた無拍子の一閃。それにより、兵士は死を知覚する時間すらもらえず、その首を刎ねられた。
まずは一人。
「な、貴様——」
壇上にいた一人が驚愕の声を漏らすが、最後まで言わせる時間すら与えることはなく、エミリアの剣が走る。兵士は袈裟斬りの一刀を浴び、絶命。
これで二人目。
最後の一人は礼拝室入り口の扉の前にいた。
数秒もかかっていない、あまりに突然の出来事。最後の一人がまだ反応できずにいるうちに、エミリアは腰の短刀を抜き放ち、投擲。刃は兵士の喉に突き刺さった。
膝をついて、いったい何が起きたのかと血まみれの喉に手をやる兵士のすぐ側に、エミリアは一瞬で接近。血と涙を流し、掠れる声で何事かを発する兵士の心臓を、剣でひと突きにした。
これで三人目。鏖殺はつつがなく完了した。
「……急がないと……私は……」
一仕事を終え、大きく息を吐いてからエミリアは呟く。その手に命を奪った感触を残したままでも、目的意識が彼女をつき動かした。
礼拝室に当初はあったはずの座席は全てなくなっている。バリケードにでも使われたのだろう。
そんな、がらんどうな礼拝室の中央に、それはあった。
……あった。あの時、ルセリィさんに頼まれて、暗黒騎士から奪った、あの杖……。
かつて、エミリアが手にしたこともあるアーティファクト。『カイラリィの王笏』が再び、エミリアの手に渡った。
その杖を拾い上げると、先端の鈴がシャリンと音を鳴らす。その音が、礼拝室に木霊して消える間際。今度は別の音が室内に響いた。
礼拝室入り口の、大きな扉。それがギィと鈍い音を立てて、ゆっくりと開かれる。
開けられた扉の先、そこに立っていた人物が身につけているのは、黒い兜、黒い鎧、そしてあの特徴的な細身の刀剣。
暗黒騎士カレンが、そこにいた。
「久しいね、エミリア。会いたかったよ」
「カレン……私は——」
エミリアの言葉を遮るように、今度は背後から音がした。
何かが飛んできて、転がる。そして、転がりながら何かを撒き散らす音。
カレンに背を向けぬよう、身体を横にして、それを確認する。飛んできたのは、先程、エミリアを案内してくれた男の身体。撒き散らされたのは、男の身体から漏れた血液と臓物だった。
「やれやれ。状況が状況だからな。そりゃ裏切りだってあるだろうが……許すわけにはいかんよな」
そう言って、裏口から姿を見せたのは騎士デュクスだった。
まずい位置取りだ。
礼拝室の正面口にはカレンが、裏口にはデュクスがいて逃げ道はない。そしてその二人ともが、エミリアに対して露骨なまでの殺気を放っている。
カレンは……一対一でもだいぶ厳しい。デュクス卿も、騎士武装が彼自身の物でないことを加味して、かなり甘い見積もりをしても私と同格というところかな……。
絶体絶命の状況ながら、エミリアは冷静に彼我の戦力を計算する。
このまま挟み撃ちの状態で、二対一の戦闘に持ち込まれれば、確実に殺される。
だが、有利な点もある。この場の三者ともに必要としているモノ。アーティファクト『カイラリィの王笏』がエミリアの手にあるということ。そして、カレンとデュクスもまた敵同士であることだ。
エミリアとデュクスが協調できる可能性はゼロだが、カレンとはそうではない。
アーティファクトは無理そうならくれてやれ。戦闘が開始される前、キミヒコはそう言っていた。多少の無理なら押し通す、とも。
アーティファクトを独自に確保することを諦め、カレンに与すれば、現状は打開できる。
——暗黒騎士か。まずいな。下手に仕掛ければ、魔人と手を組まれるかもしれん……そうなれば……。
——騎士デュクス……面倒ね。奴がいなければ、即、戦闘に入れた。殺して奪えば、それで済む。それだけのシンプルな話だったのに……。
デュクスとカレンの思惑が、エミリアの脳裏を抜けていく。彼らもまた、互いを牽制し合っていて、容易に動くことはできないらしい。
今ならば、選択権はエミリアにある。選ぶことができる。
アーティファクトをカレンに渡し、そのうえでデュクスを討つ。この急場をしのぐのに、最も簡単かつ確実なのはこのやり方だ。しかし、デメリットもある。
まずアーテファクトを自前で用意できないため、帝国軍との戦後交渉に不利となる。キミヒコに苦労をかけてしまうだろう。
それに、現在の解放軍指導部では、表向きはキミヒコが親帝国派でエミリアが反帝国派ということになっている。以前と違い、エミリアは帝国軍を敵視していないが、軍内部の政治的バランスのためにそうなっている。
そんな反帝国派の旗手であるはずのエミリアが、暗黒騎士と共闘したうえにアーティファクトまで貢いでしまっては、外聞が悪い。
隠そうにも、ここは敵地で、誰に見られるかもわからない状況である。そもそも、カレンに弱味を握られる形にもなる。
これらのデメリットは、キミヒコにかなりの負荷をかけることになるだろう。だが、カレンとの協力を選択しない場合、エミリアにとってかなり苦しい展開だ。待ち受けるのは、生命を懸けた熾烈な死闘である。
カレンとデュクスは敵同士……三つ巴でなら、やりようはある。あの二人は互いに隙を見せるわけにはいかないから、私だけへの攻撃には集中できないはず。多少の無理は押し通す……通してみせる……!
エミリアは決めた。単独で、この場を切り抜けることを。
戦いの決意を固めたエミリアの手に、力が入る。王笏を握っている左手がわずかに震え、鈴の音が鳴った。
それで、カレンとデュクスも、エミリアの決断を察したらしい。
デュクスからは冷たい無情さをはらんだ殺意。カレンからは邪な喜悦の混じった殺意。それぞれの強烈なまでの思念が、エミリアへと向けられた。




