#17 非人間的思考への誘い
尋問室でのやり取りから数時間後、キミヒコは衛兵隊の庁舎の一室にいた。
石造りで、小さい窓には鉄格子が嵌められていて、汚い毛布と便所用の壺が置かれているだけの部屋だ。ついでに通路側は鉄格子で仕切られていて、扉は外側から鍵がかけられている。
端的にいえば、牢獄だった。
「畜生がっ! 舐めやがって!」
絶叫と共にそんな言葉を吐き出す。
煙のトラウマから意識を失いかけた一件で、いったんは穏やかな心持ちになったキミヒコだったが、すっかり元の調子に戻っていた。
「豚がッ! 豚がッ! 豚がッ! 豚がッ! 豚がッ! 豚がッ! 豚がッ! 豚がッ! 豚がッ! 豚がッ! あの豚野郎がぁッ!」
ひとしきり吠えて、心を落ち着ける。
なにが不当な扱いはさせない、だ。騙しやがってあの豚騎士がぁ……。
苛立ちの元は、騎士ヴァレンタインだ。キミヒコに対して不当な扱いはさせないと約束したあの騎士は、結局その後も現れることはなかった。
ぜぇぜぇと肩で息をしているキミヒコに、向かい側の牢から声がかかった。
「兄さん、元気がいいねぇ。いったいなにをしてこんなところにぶち込まれたんだい?」
「俺は無実だ!」
「ひひひ、ここに来るやつは皆そう言うのさ。ま、無実かどうか、裁判が楽しみだね」
向かいの牢にはボロ布を纏った老人がいた。ずいぶんと年季の入った囚人に見える。
「私はただのケチなコソ泥だよ。ここの世話になるのも一度や二度じゃなくてねぇ。今回はもう駄目かもね」
「……ここに入るのが一度や二度じゃないなら、以前はどうやってここから出たんだ?」
「そりゃ、裁判で無罪を勝ち取ったのさ」
意外なことを老人は言った。
泥棒で捕まって無罪を勝ち取るとは、見かけによらず弁が立つのだろうか。
キミヒコが胡乱げに見ていると、老人は言葉を続けた。
「なにか勘違いしているかもしれないが、ちゃんと弁護士を雇ったからね。高い金払ってさ」
「……コソ泥で捕まっても、弁護士の実力によっては無罪を勝ち取れるのか」
「ああ。逆に言えば、弁護士に金を払わなければ無罪なんかとれないよ。有罪確定。泥棒なら腕を落とされるか死刑だね」
弁護士。その単語を聞いた途端に、キミヒコの機嫌は露骨に悪くなった。
「ふん……弁護士、ね」
「お、なんだい兄さん。弁護士にツテでもあるのかい?」
「ないよ。弁護士なんて、ろくでなし連中のツテなんてよ」
嫌いな両親が弁護士だった。ただそれだけの理由で、キミヒコは弁護士を毛嫌いしていた。
気に入らない国だ。弁護士に積んだ金で有罪無罪が決まるとはな……。未開な土人どもには法治国家なんて無理な話か……。
勢い余って、心の中で連合王国のことまでこき下ろす。
「……で? そう言うあんたは優秀な弁護士のツテがあるのか」
「なにか期待しているなら諦めなよ。昔はともかく今はこの有様さ。それで、兄さんはなんの罪でここに来たんだい?」
「殺しだとよ。まったくの誤解だがな」
憤然とした面持ちでキミヒコが言う。
「そりゃあ、一大事だね。あんた、なんとかしないと死刑確定だよ」
そんなことを話していると、看守がこちらまでやってきた。
「おっとお迎えだ。じゃあな、兄さん。お互い生きて出られるといいな」
おしゃべりな老人は看守に連れられ、牢獄から出ていった。
……死刑確定、か。もう連合王国に喧嘩を売りたくないとか言ってる場合じゃないな。
普通であれば絶望するような状況であるが、キミヒコには余裕があった。
耳に指をあて、トントンと叩く。
『会話しても大丈夫ですよ。現在、そちらに監視の様子はありません』
キミヒコの耳にホワイトの声が響いた。
「……そうか。ホワイト、こちらの声は聞こえるか? そっちの状況を教えろ」
自分以外誰もいない牢の中で、キミヒコは小さな声で呟く。
『問題なく聞こえています。こちらは結界付きの部屋に押し込められてますよ。結界と言っても脱出に支障はありません。場所は貴方と同じ建物の地下ですね。監視は十人ほどの衛兵がいます』
キミヒコの余裕の理由がこれだった。
尋問室の壁を破壊したホワイトは、キミヒコからさらに離れた別室へと連行された。キミヒコがなだめすかしたため、おとなしいものだった。
だが、キミヒコも馬鹿ではない。ホワイトとの交信手段を残していた。
耳の中に詰めた白いドレスの切れ端が、魔力糸を通じてホワイトにつながっている。これにより、糸電話のような交信を可能としていた。
先程の尋問室にいた際もそうしていたのだ。
「まだお前が大人しくしているってことは、今のところ連中はこちらを殺す気がないのか」
ホワイトが動いていないということは、まだ危険ではない。大方、あの老人が言っていたとおり、裁判で有罪にしてから処刑する気なのだろう。
『建物内の衛兵からは殺意は感じません。衛兵隊長は件の騎士と揉めていて、それどころではなさそうです。牢から貴方を出すように直訴されているようですね』
騎士ヴァレンタインはキミヒコとの約束を果たす意思はあったらしい。
……あの無能騎士が。あんな奴は、もうあてにできないな。
だが、キミヒコは内心でそう吐き捨てる。
キミヒコからすれば、こうして牢獄に入れられ裁判にかけられるのを待つ身となった以上、ヴァレンタインがなにをしようが、もはやどうでもいいことだった。
「庁舎内とその周辺の監視を怠るな。夜間に隙を見て脱出するぞ」
『了解ですが、その場合はもう衛兵たちの安否は気にしない、ということでよろしいですね?』
「構わんぞ。ただし、余計な殺生は避けろ」
キミヒコは冷酷な声色で殺害の許可を出した。
無駄な殺しを避けろというのも、無用な恨みを買ったり、衛兵隊の面子を潰し過ぎれば追跡はより激しくなるだろうという理由だ。
殺人への忌避感は、もはやない。
キミヒコ自身、そういった自らの心象の変化には気が付いていた。そのうえで、今まで避けていた現実と向き合う覚悟を決めた。
「……確認なんだが、お前……カタリナを殺したのか?」
『はい。私が殺りました』
あっさりと自白するホワイト。やはり、あの殺人事件はホワイトの仕業だった。
今までそれを認めることが怖くて、事実確認を避けていたキミヒコだったが、もはやそれを聞いても、ああそうなんだくらいにしか感じない。
だがそれとは別に、こうして牢に入れられる原因となったホワイトに悪態をつかずにはいられなかった。
「あのさあ、君、なんで殺人とかやっちゃうわけ?」
『なんでって、我々に明確な敵対者であるなら対処は任せると、シノーペ村で言ってたじゃないですか。こういう場合、猫でも殺していいんでしょう?』
「いや、おま、人間は駄目だろ。殺人だぞ殺人!」
もはや必要とあれば容赦無く殺しの許可を出すキミヒコであるが、一方でそれを悪いことだとは自覚していた。必要もなさそうなのに人殺しをしたホワイトに駄目出しをする。
『はい? ゴキブリは気持ち悪いから殺してよくて、猫は可愛いから駄目。では、人間はいったいどんな理由付けなんですか? 可愛いから?』
ホワイトの発言にキミヒコは絶句した。
この人形の中では、ゴキブリも猫も人間も大差はないのだ。ゴキブリを潰す感覚で殺人すらやってしまう。悪いことなどとは毛ほどにも思っていない。
「はあぁ……。もう、いい。過ぎたことだ。これからは俺が引っ叩かれたくらいで、殺人はやめろよな」
それだけ言って、殺人事件を過ぎたことで済ませるキミヒコ。
こんなことでホイホイ人殺しをやられてはたまらない。今回の件を切り抜けても、また追われる羽目になってしまう。
ホワイトの殺人を嗜めるのは、あくまで自分の都合のみでの考えだ。
『別に理由はそれだけではないですが』
「……なに?」
キミヒコはカタリナが殺されたのは、自身が平手打ちをくらったことに対しての過剰な報復によるものだと今まで考えていた。だが、ホワイトは理由はそれだけではないと言う。
『あの商売女は貴方に怪しい薬を盛ろうとしていましたから、それを取り上げに行ったんですよ』
「……それは、確かか?」
ホワイトは説明した。
カタリナが怪しい男に会って、ホワイトを手に入れる算段を練っていたこと。その過程で怪しい薬をもらっていたこと。そして、あの夜に、それを使う決意を固めたこと。
一連の流れを聞いていてキミヒコは自分に報告しろよと思ったが、もうホワイトにはなにを言っても無駄だと諦めた。ついでに、自身が風俗に通って事に及んでいる最中もホワイトに監視されていたことにも気がついたが、深く考えるのをやめた。
重要なのは、カタリナがキミヒコを騙して、ホワイトを奪おうとしていたことだ。自身の知らない所で陰謀が企てられ、嵌められる。
前の世界で自死に追い込まれたときと同じ状況だったことに、憎悪が芽生える。
「なるほど。あの女、俺を嵌めようとしたってわけか」
殺されて当然だな。口には出さないが、キミヒコはそう思った。
カタリナに対して、ほんの僅かにあった後ろめたい思いが、完全に霧散した。
自殺の原因。あの会社でそれを作った人間は最後までわからなかった。カタリナの企てもホワイトが察知してくれなければ、嵌められるまで気が付かなかっただろう。
「ホワイト、よくやった。だが、次からは実行前に報告を入れろ」
自分を嵌めようとする奴は許さない。未然にそれを防ぎ、さらに報復までしてくれたホワイトに労いの言葉をかけるキミヒコ。
『……』
「どうした?」
『貴方、やはり変わりましたね』
ホワイトに変わったと、また言われる。
キミヒコは言われるまでもなく自分が変わった自覚があった。今までなら殺人の命令を下すことなどできなかっただろう。この世界に来てから好き放題するようになってからでさえそうだ。前の世界のいい子ちゃんの自分では、ありえないことだ。
「だから、いろいろ思い出したんだよ。ここが死後の世界だとかさ」
『死後の世界?』
「ああ、そうさ。どうせ一度は死んだ身だ。この地獄だか天国だかわからないような場所で、いったいなにに遠慮する必要がある?」
周囲に遠慮して、清く正しく懸命に生きて、あのザマ。最低の生き方で最悪の死に方だった。今生は、絶対にそうならない。そのためなら他人を蹴落とすことも厭わない。
『よくわかりませんが、いいですね。そういうの』
キミヒコの昏い意思を感じ取ったかのように、ホワイトが言った。
『人間は縛られるものが多すぎる、と感じます。モラルだとか正義だとか、まったく意味不明です。貴方は出会った当初から、そういったくだらないしがらみが少なかったようですが、完全にタガが外れましたね。よいことだと思いますよ』
ホワイトに言われ、キミヒコは冷や水をかけられたような気分になった。
まるで自分が、この人形と同じ人間でない存在になったと、そう言われた気がした。
「お前と一緒にするな。俺はまだ人間だ」
『そうですか? まあ、貴方がそう思うのなら、それもいいでしょう』
「……」
いつもと変わらぬホワイトの声が、このときは妙に蠱惑な音色に感じられて、キミヒコは押し黙った。