#29 キャリーオン・ウェイワード・サン
トリルトカトル城の一室に、解放軍のとある派閥のメンバーが集まっていた。かつて、ルセリィ派と呼ばれていた集団である。
各々がそれぞれ、暗いような、焦っているような表情をしている。
「まあそういうわけで、俺らのボス、ルセリィは死んだ。各々、身の振り方は自分で考えろ。知ってると思うが、あいつは方々から恨まれることをやっていたから、慎重にな」
キミヒコがそう言って説明を終えた。派閥のトップ、ルセリィが死去したことの説明だ。当然、彼女がカイラリィ皇女レガリクスであったことは伏せている。
そして、この派閥はルセリィのワンマン経営であり、彼女がいなくなった以上は解散する。そういう話を、キミヒコはしていた。
「あの……」
「なんだよ。まだ何かあるのか?」
「この派閥、キミヒコさんが引き継がないんですか……?」
その困惑の声に、キミヒコは渋い顔だ。
全員の顔を見渡せば、どうやら皆が当然のようにキミヒコが次のトップを張ると思っていたらしい。
「……いや、それは、ちょっと……。ほら、俺って人望ないし、あんまりやりたくないっていうか……」
「えぇ……。そこは嘘でも、俺が継ぐとか言って安心させてくださいよ……」
このルセリィ派という集団は、解放軍の中でも上層に位置する組織である。ルセリィは政治闘争が大得意で、ライバルを次々と蹴落とし、時には陰謀にはめて処刑し、上り詰めていった。
先のグラモストラ城奪取後の立ち回りも大変によろしく、敵対派閥のカーリー派は帝国軍との関係悪化の全責任を押し付けられて壊滅。さらには微妙な関係となった帝国軍との橋渡しを、キミヒコというコネのあるルセリィ派で買って出ることで、地位を高めた。裏切り作戦を自らで立案しておいて、とんでもないマッチポンプである。
そんな次第で、解放軍のトップまであと少し。そんなタイミングでルセリィは死んでしまった。
戦後の栄達を夢見る派閥の面々は、急に足元が崩れたような思いだろう。諦めきれずに、ナンバーツーだったキミヒコに縋っているというわけだった。
「いや、やってくださいよ! できるでしょ!? キミヒコさんなら!」
「買い被りすぎだっつーの! できねーよ! それに俺は帝国軍大佐だぞ!? それが解放軍の指導層に入るって、他の派閥が納得するわけねーだろ!」
「というか、この件、エミリアさんはどう考えているんですか!?」
「……グラモストラ城のあいつにも連絡はいったはずだが、まだ話はできてない。この後に——」
キミヒコがそこまで言った瞬間、扉が乱暴に開かれた。いや、乱暴どころではない。力一杯に開けられたドアは、勢い余って丁番が壊れて音を立てて床に倒れる。
そんな乱暴な入室をしたのは、今ちょうど話題に上がった人物。エミリアだった。
「おい何やってんだ!? つか早いな! グラモストラ城からもう来るとか——」
「ルセリィさんは!? 死んだって……嘘ですよね!?」
乱暴な入室を咎めようとするキミヒコに、エミリアは声を荒げてそう言った。
鬼気迫るその顔に、派閥の誰もが何も言えない。
「……いったん、解散。俺はこいつとサシで話をするから」
心底嫌そうにキミヒコがそう言えば、派閥の面々は黙って従い、席を立った。尋常でない様子のエミリアとは目を合わせないように、いそいそと部屋を出ていく。
そうして、部屋に残っているのは、キミヒコとエミリア。それから、影のように黙って主人に寄り添うホワイトだけとなった。
◇
「おい。この城に乗り込んできた時の威勢はどうした? いつまでそうしてんだよ」
呆れたようにキミヒコが言うその先には、部屋の隅で体育座りをしているエミリアがいた。
ルセリィが死んだことをなかなか認めない彼女を、その遺体と対面させたのがつい先程のことだ。それからずっと、彼女はこの調子だった。
「……エミリア。ルセリィは死んだ。お前、あいつのためにこの解放軍にいたんだろ? ここらが引き際だぞ」
キミヒコのその言葉に、エミリアはピクリとも反応しない。
まーたお節介みたいなこと、俺はやってる……。ルセリィのやつ、最期に面倒なことを頼んでくれるよな……。
キミヒコは心中でそんな自嘲をしながらも、エミリアに語りかけ続けることにした。
「もう兵隊はやめろ。次のドゴーラ市攻略戦は、なかなかエグい戦いになる。敵の主力を取り逃したからな。それに、騎士アルキテウティスは始末したが、騎士デュクスがまだいる。一戦を交えたホワイトの見立てだと、デュクスはアルキテウティスよりも手強いら——」
「どうして?」
それまで無反応だったエミリアが顔を上げて、キミヒコの言葉を遮った。
涙で赤く腫らした目をキミヒコに向けている。
「キミヒコさん、どうして、私を気にかけてくれるんですか……?」
「……気にかけちゃ悪いのか?」
「いえ、ありがたいと思っています。でも……」
エミリアは言い淀んで、その先が続かない。
その様子にため息をついてから、キミヒコは口を開いた。
「素直に白状するとだな。ルセリィに頼まれてる」
ルセリィの名前が出た途端、エミリアの目はいっそう見開かれる。彼女の青い瞳が、鮮明に見えた。
「ルセリィの臨終に立ち会った時にな、あいつ、今際の際にお前のことを、俺に頼んできやがった」
いかにも、面倒ごとを引き受けてしまった、という感じにキミヒコは言う。
そんなキミヒコを、エミリアは黙って見つめている。その瞳が揺れて、どこか、キラキラとした光が混じり始めた。
「エミリア……? お前、その瞳の色は——」
「キミヒコさん。他に、何かルセリィさんから言われましたか……?」
キミヒコが彼女の瞳の違和感を口にしようとして、遮られた。
エミリアの瞳の色が、徐々に、青から金色へと変わっていく。それがキミヒコの目に映る。
……金色の瞳は、天使の瞳。こいつの瞳はホワイトと同じ色だ……。天使……大いなる意思によって創造された存在のことをそう呼ぶのかと思っていたが、異世界人のことでもあるのか? でも、俺は普通だぞ。異様な力も持ってない……どういうことなんだ……。
突然のことに、キミヒコは何も言えない。
そんなキミヒコを、じっと見つめ続けるエミリアの瞳はやがて、完全な金色となった。ホワイトと全く同じ、天使の瞳だ。
「……ルセリィは、言っていた。エミリアはいい娘なのに、酷い目に遭った。もう、不幸になってほしくない。そう言ってたよ」
エミリアの目を見ながら、キミヒコが言う。
勝手なお願いだよな……あいつ。そもそも不幸にしたくねえなら、こんな戦争に引き込むなっての……。
そう思いながらも、ルセリィのことをキミヒコは嫌いになれずにいたし、こうして頼みも聞いてやろうとしている。
最期に彼女が見せた、抑えきれない祖国への怨嗟と、内面的な脆さ。ルセリィもあるいは、エミリアを戦力として利用することに葛藤があったかもしれなかった。
「なあ……言いたくないなら、無理にとは言わないが……。酷い目ってのは、なんだ? この島に来る時のことか?」
キミヒコがそう聞けば、エミリアはまた俯く。
この世界へ来る直前、どうしていたか。この問いは、以前にもしたことがある。異世界人であるエミリアについて探りを入れるため、それとなく尋ねたことが何度かあるのだ。しかし、それを聞くたびに、彼女は暗い顔で黙して何も語りはしなかった。
だが、今、この時の彼女は違った。エミリアは俯かせていた顔を上げ、口を開いた。
「キミヒコさん。私ね、この世界に来る前……私……ね」
彼女がとつとつと語るその内容は、悲惨なものだった。
劣悪な環境の孤児院で育ち、父親が迎えにきたと思ったら、その男に犯されそうになる。そしてその内容は、ルセリィの境遇と似た点があった。
血のつながった肉親からの、性的虐待。
エミリアの場合は、本当の父親だったという証拠はない。だが、キミヒコは内心で冷や汗を流していた。
「あの人、私のお父さんだったのかなぁ……。絶対違うって、そう思うようにしてた。ねえ、キミヒコさん。キミヒコさんは、どう思う……?」
キミヒコの内心を見透かしたかのように、エミリアが聞いてくる。
エミリアが邪推したように、それは、本当の父親だったのではないか。そうキミヒコは考えていた。考えついてしまった。
エミリア……こいつが、この島に転移してルセリィと出会ったのは、たぶん、偶然じゃない。明確な意図が働いてる。こいつの『願い』のために、そうなったんだろう……。
気は進まないが、キミヒコは確かめるべく、質問をすることにした。
「あんまり思い出したくないだろうが、教えてくれ。その時、何か聞かれなかったか?」
「聞かれた? 誰に……?」
「……神様、とか」
キミヒコの言葉に虚を突かれたのだろう。エミリアはポカンとした顔をしている。
だが、すぐに、思い至ることがあったらしい。
「…………何を願う?」
そんな言葉が、エミリアの口をついて出ていた。
何を願う。キミヒコにも、聞き覚えがあるようなフレーズだった。
大いなる意思。あるいは、願いの神と呼ばれる超常の存在は、この幻影世界に真世界の存在を落とす時、その願いを叶えることがあるという。
「何を願った? お前は、その時」
「……わからない。わからないよ」
キミヒコが聞いても、エミリアは頭を抱えてそう言うだけだ。
彼女の言葉に嘘はなく、本当にわからないのだろうとキミヒコは理解している。実際に、キミヒコ自身だって何を願ったのか覚えていないのだ。
「ただ……ただあの時! 私は! あいつに殴られてて、もう死ぬのかなって……!」
「じゃあ、死にたくないって、そうは思わなかったのか?」
キミヒコの問いに、彼女はかぶりを振った。
「ただ、悲しくて……私、私だけが、どうしてこんな酷いことにって……」
エミリアは何を願ったか。
目の前の暴力から逃れたいとか、自称父親の男を殺したいとか、そういう単純なものではなさそうだ。
キミヒコがそう考えている間にも、彼女の独白じみた言葉は続いていく。
「だから、そうだ。私は、誰か、わかってくれる人がほしかった。私のこと、辛いこと、苦しいこと、それを理解して慰めてほしかった……」
「慰め……か」
「そう、そうだ。私は……慰めてほしかった。だって、あんなの酷いよ……私だけだなんて思いたくなかった。誰か、あの辛さを共有して、わかってくれる人に、慰めてほしかった……」
その瞳を金色に光らせながら、エミリアはその心情を吐露した。
ルセリィ……レガリクスは、血のつながった親兄弟に凌辱された。同じ悲しみを知ってほしい、共有する相手がほしいと、エミリアが願って、それでルセリィの下へと来たとするなら……こいつを犯そうとした男ってのは、おそらく……ルセリィと同じく、実の……。
嫌な理屈を考えついてしまったと、キミヒコは思う。
「ルセリィさんね。優しかったんだよ? 私に……家族にそんなことする人はいないって。本当のお父さんとお母さんが私にはいるはずで、きっといつか……だから、私……!」
散々に泣いた後だというのに再び目尻に涙を溜めて、エミリアは言う。
その言葉に「あの嘘つきめ」と、キミヒコは胸の内でこぼす。
あの時、ルセリィから聞かされた、彼女の過去。エミリアには伝えていないその過去を思えば、ルセリィは嘘を言っていた。ただし、その嘘はエミリアを思ってのものだったろう。
「……ルセリィが、あいつがそう言ったのなら、そうかもな」
だから、キミヒコはルセリィの嘘に追従した。
ルセリィは目的のためならば平然と嘘をつくし、それで他人を殺すこともあった。だが、エミリアに向けた優しさには嘘はなかっただろう。
「ねえ、キミヒコさん」
「なんだよ」
「ルセリィさんはなんのためにこの戦乱に身を投じたのか……キミヒコさんは知ってますか?」
「復讐のため」
簡潔に、一言で答えたキミヒコに、エミリアは目を見開く。
彼女の瞳は、いっそう金色に輝いている。
「あいつの本名は、レガリクス・ギリ。カイラリィ皇族、ギリ家の最後の生き残りだ」
「え……何それ、え……?」
困惑の声を上げるエミリアに、キミヒコはさもありなんという顔だ。
「あの……カイラリィのお姫様が、どうして復讐を……?」
「さあな。でも、こんなところに島流しにあってるんだ。ろくな目に遭わなかったんだろうよ」
知らないふりを、キミヒコはさらりとしてみせる。
あの時、ルセリィはエミリアの過去については言わなかった。キミヒコに聞かれても、言わなかった。
だったら、キミヒコだって自分の口からはルセリィの過去については言わないし、言いたくもない。エミリアに語って聞かせるには、少々、重すぎる。
「……キミヒコさんが、ルセリィさんの遺体を冷蔵保存しているのは……」
「帝国軍がこの島に来たのは、ギリ家の抹殺のためだ。つまり、あいつを探していたってわけ」
キミヒコのその言葉に、エミリアの目がスゥッと細まる。その金色の瞳が、キミヒコを見据えている。
しかし、その視線には、怒りだとか非難だとか、そういった負の感情は乗っていない。どこか、内心を見透かされたような気持ちになり、キミヒコは落ち着かなかった。
「……そう睨むなよ。自分の遺体は好きにしろと、あいつは言っていた。……帝国軍も、レガリクスの死さえ確認できれば、それ以上の無体な扱いはしねーよ。確認が終われば、遺体を返してもらって普通に弔えばいい」
「……帝国軍に渡すんですか?」
「帝国軍にレガリクスの遺体を渡せば、大きな手土産になる。エミリア、この戦争から足を洗って、大陸に行ったらどうだ? 帝国軍の引き上げの時に、船に乗せてもらえば——」
「その場合、この島はどうなりますか?」
次から次へと、面倒な質問が飛んでくる。
だがそれらに対して、キミヒコは答えることにした。言いたくないこと、知らない方がいいだろうことについては適当に誤魔化しつつ、だ。
「さぁ……な。まあ、帝国軍はドゴーラ市にあるはずの、アーティファクト『カイラリィの王笏』をどうにか奪い返そうとするだろう。結果として、カイラリィの勢力は壊滅する」
「その後は?」
「帝国軍はこの島の行く末に興味がない。大陸でやってる、列強同士の大戦争で一生懸命だからな。こんな島を統治するために労力を割かないだろう。さっさと引き上げるはずだ。敵対勢力をぶちのめすより、統治する方が大変そうだからな……ここはさ」
「……それで、この島は平和になりますか?」
「んなこと聞いてどうする?」
質問を質問で返すも、彼女から返ってきたのは視線だけだ。無言で、あの金色の、ホワイト同じ瞳でキミヒコを見つめてくる。
何もかもが見透かされているような気がして、ひどく居心地が悪い。
若干、気圧され気味に、キミヒコは口を開いた。
「……わかんねーよ、そんなこと。ただ、まあ……ガルグイユ人同士で、覇権を巡って争う感じになりそうではある。今の解放軍を見てると」
「ルセリィさんが生きていて、解放軍の実権を握っていたら、どうなっていたでしょうか……」
「……あいつは、この戦乱の最中に邪魔者を全員消す予定だった。それで、カイラリィの連中を殺し尽くして満足してから、天下を取るつもりだった。ま……あいつが天下を取ってたら、まあまあ平和だったかもな。結局無理だったけど」
言いながらも、この島が平和になったかどうかはいささか疑問だとキミヒコは思っていた。
正体がバレるのを恐れて、『カイラリィの王笏』を帝国軍から強奪したりもしてたから、戦後のことを考えてないわけではなかったろうが……あいつ、復讐が第一優先だったからな……。島の平和のことなんて、二の次、三の次以下だったろうよ……。
そう思いつつも、キミヒコはわざわざそれを口には出すことはなかった。
「キミヒコさんは、どういう予定でルセリィさんに協力したんですか?」
「俺? 俺は大陸でやってる大戦争に嫌気がさして、この島に来たんだ」
「大陸の戦争……。確か、ゴトランタ共和国とシュバーデン帝国がやっているっていう……」
「もうその二カ国だけの話じゃない。列強全部を巻き込んで、アマルテアのほぼ全ての国家を二つに割っての大戦争だ」
キミヒコがそう言えば、エミリアはどこか遠い目をする。
その空虚な顔で何を思っているのか。キミヒコにはわからない。
「……そんなに、酷い戦争なんですか?」
「まーアマルテア全土が酷いわけじゃないが、悲惨なところは本当に悲惨だな。侵攻する帝国軍相手に防衛戦をやってる、ゴトランタ本土の戦場はまじでヤバい」
カイラリィ戦線が片付いたことにより移り変わった、今次大戦の主戦場。ゴトランタ戦線の戦況について、帝国軍経由でキミヒコはある程度知っていた。
この戦線で猛威を振るっている帝国軍の航空隊には、配慮や遠慮というものは絶無だ。民間人がいようがなんだろうが、敵の拠点を容赦なく爆撃している。航空隊の空爆でいくつもの都市がガレキの山と化した。
そして、防衛側のゴトランタも中々の酷さだ。新兵器である毒ガスを撒き散らしながら、ゴトランタ軍は後退を続けている。味方の兵どころか、自国民が残っていようがおかまいなし。帝国軍の足を鈍らせるため、国土の汚染を顧みることなく化学兵器をバンバン使用しているらしい。
人道だとか生命だとかそんなものは全く意識しない、戦争遂行のためのシステムと化した国家同士が、壮絶な地獄を作り出していた。
「……それは……巻き込まれたくないというのも、わかりますね……」
「そうなんだよ。しかも俺の場合、変に名前が売れちゃっててさ。あっちこっちから、『うちに仕官しない?』みたいな誘いが多くてな。もう冗談じゃないっての……」
「それで、キミヒコさんはこの島に……?」
「そ。んで、ルセリィと組んだってわけ。あいつが天下を取ったなら、甘い汁を吸わせてもらいつつ、特権階級として贅沢に暮らしたかったなー」
キミヒコは口ではそう言うものの、これは正確な発言ではない。嘘でもないが、本命の理由を言っていない。
キミヒコがルセリィと組んだのは、眼前の異世界人、エミリアの監視と観察のためというのが最大の理由である。無論、これも本人の前で言うことはない。
「……では、私がルセリィさんの跡を継ぐと言ったら、ついてきてくれますか?」
続くエミリアの言葉に、キミヒコは絶句した。
言葉の意味をうまく理解できない。
ルセリィの跡を継ぐとは、派閥を継ぐという意味か。それを頭で理解するのに十数秒の時間を要した。
「……唐突に何言ってんの? おかしいだろ。お前はそんな野心家じゃないだろうし、向いてない。だから何度も言ってるけど、もう戦争はやめておけ」
キミヒコの言葉にエミリアは反応しない。
全てを見通すかのような、あの瞳で、キミヒコをじっと見つめるだけだ。
「いいか? お前は絶対向いてない。末端の兵隊以上にな。解放軍は足の引っ張り合いとか、政敵への陰謀が横行してる。隙を見せたら、すぐに吊し上げられるんだぞ。腹芸の一つもできそうにないお前には無理。絶対無理。だからもういい加減に足を洗ってカタギに——」
「キミヒコさん。お互い、本音で話をしませんか……?」
そう言うエミリアは、キミヒコを睨んだり糾弾するような雰囲気は全くない。
だが、どこか超然とした空気を纏っている。
「私はキミヒコさんのこと、悪い人ではないと思ってます。信頼してます。だから……もう一度、質問させてください。どうして、私を気にかけてくれるんですか……?」
先程と同じ質問だ。ついさっき、キミヒコはこの質問に「ルセリィに頼まれたから」と答えた。その答えに嘘はない。キミヒコ自身、本音を言ったつもりだった。
キミヒコは深く、深くため息をつく。そうしてから、ホワイトに目配せをした。
人形は心得たもので、サッと葉巻を用意してキミヒコがそれを咥えると同時に、マッチで火をつける。
「……キミヒコさん?」
葉巻をふかし、煙を見ながらボンヤリしているキミヒコにエミリアが声をかけてくるがそれを無視して、キミヒコは煙を眺める。
煙……今は平気になったけど、これで、俺はこの世界に……。完全にどうかしてた。完全におかしかった……のに……。
かつての真世界にいた頃の自分、この幻影世界に落ちてきた時の自分。それらについて想いを馳せる。
「キミヒコさんってば!」
「……あーもう、めんどくせぇ小娘だな……! 同郷のよしみで気を遣ってやってんだよ! 俺は!」
しつこいエミリアに、そんな言葉が口から出た。
特に深く考えずに言ったセリフだったのだが、口から出た後になって、ああそういうことだったかと、キミヒコは自分で納得した。
「同郷……ですか」
「あまり驚かないな」
「思わせぶりなこと、何度かキミヒコさん言ってましたし。この世界にはドイツもルーマニアも存在しない、とか。それに、私の出身を聞いてからルセリィさんのスカウト受けてましたから……」
察する部分があったらしく、キミヒコもまた、別世界の人間であることを彼女はすんなり受け止めていた。
「それにしても同郷ですか……私と同じで、別世界出身ということですよね。ルーマニアの人っぽくはないですし。ハンガリー人みたいな雰囲気はありますが……」
「そ。別世界……この世界ふうに言うなら、真世界の出身。で、俺は日本人」
「ニホン……どこ?」
おそらく、まともな教育も受けられなかったのだろう。エミリアは日本を知らなかった。
こいつは、冷戦時代のルーマニア出身……当時の東側で、どういう教育があったか知らんが……そもそも劣悪な孤児院だったようだし、教育なんぞ受けてないかもな。読み書きは、この世界に来たときに神聖言語でできるようになったんだろう。
エミリアの教養水準を推察しながら、キミヒコは日本について説明した。
だがその説明を聞いても、エミリアはイマイチ伝わらない。サムライとか寿司だとか、外国人が知ってそうな単語を伝えてみても、彼女にはピンとこないようだ。
「う……ごめんなさい。よくわからないです。ずっと東にある、『西側』の国ってことですよね」
「東にある『西側』ってのも変だけど、まあそうだな。……孤児院では、そういう授業はなかったのか?」
「……孤児院で習ったのは、マルクス・レーニン主義とか、プロレタリアとかブルジョワジーがどうとか、そんな感じでした。あと変なスローガンとか」
「スローガン……?」
「確か、なんだったかな……『ニコラエ・チャウシェスク書記長同志率いるルーマニア共産党万歳!』とか、そんな感じのやつです」
キミヒコは顔を顰めた。ロクな教育ではないと感じたからだ。
だがその感覚は、いわゆる『西側』の、自由と人権を重んじる思想によるものだ。そして、今のキミヒコは、この荒れ放題の異世界でそんなものは重視していない。自らの自由と人権には関心があるが、他人のそれについては無関心。
そういうスタンスの自分が、かつて存在した独裁国家の教育指針について文句を垂れるのもどうだろうか。そう思えて、キミヒコは自重気味に笑った。
そんなキミヒコに、エミリアはジトッとした目を向けている。
「む……悪かったですね。教養がなくて」
「ん、いや、そういう意味で笑ったんじゃない。悪かったな」
「本当かなぁ。キミヒコさん、すぐにいい加減なことを言って煙に巻くからなぁ……」
「か、かわいくねぇ。素直に謝ってるんだから、素直に受け取れよ。こんな生意気なセリフを言う小娘じゃなかったのに……」
「あなたのせいですよ、あなたの」
そう言ってエミリアは微笑んだ。
その瞳は金色に輝いたままで、強い意志とプレッシャーを感じさせてくる。一方で、その笑顔はひどく儚い。
その落差はキミヒコに、彼女の行く末を余計に不安に思わせた。