#17 死様
解放軍の渡河作戦から、一週間近くが経った。
夕暮れ時、今や解放軍のものとなった砦の近く、ブラキ川の畔でぼんやりと佇む少女の姿がある。エミリアだ。
彼女はただぼんやりと、夕日であかね色に照らされる川の水面を眺めていた。砦からは、陽気な笑い声が響いてくる。解放軍の兵士たちが酒盛りでもしているらしい。
「……こんなところで、いつまで黄昏てんの?」
声をかけられ、エミリアは振り向いた。
その目に映ったのは、河辺に向けて歩いてくるキミヒコとホワイトだ。
「別に……。休日で、することがないだけです」
「休日ね。あーうらやましーなー。さすが、単騎で砦を落としてチヤホヤされてる英雄様は違うよなー」
「キミヒコさんだって、そんなに忙しいようには見えないですけど」
「だろうな。まあ俺、もう十分すぎるくらい仕事したから。後はもう、成り行きを傍観するだけだからさ」
キミヒコがケラケラと笑いながらそう言えば、エミリアは「そうですか」とだけ言って、川の方へと視線を戻した。
エミリアは現在、彼女自身が言ったとおり休暇中だった。
先の作戦で、彼女が見せた不安定さ。それに対するフォローとして、ルセリィが強引に休ませている。
本当だったら、ルセリィが直接、メンタルケアをしてやればいいんだがなぁ。あいつ、軍内部での陰謀合戦で忙しいからな……。
心ここにあらずといった雰囲気のエミリアを眺めながら、キミヒコは心中でそうこぼした。
先の解放軍の戦闘、そこでのエミリアの獅子奮迅の奮闘と、構成員の戦死。それらを確かな実績とするべく、ルセリィは解放軍内で根回しをやっている。
卒のない女だと、キミヒコは思う。
実際、今の解放軍におけるネイティブ・オーダーの地位は、戦闘前とは比べものにならないほど高くなった。
エミリアもその活躍もあってか、解放軍内では人気がある。
俗世との関わりを絶っていた隠れ騎士の系譜だとか、ガルグイユ人の悲願を願いの神が聞き入れて遣わしてくれた聖女だとか、変な噂がたっている。
どれもこれもいい加減な噂話だが、好意的なものがほとんどだ。人外じみた活躍だったので、逆に化け物だなんだと恐れられると思っていたキミヒコとしては拍子抜けだった。
そしてその評判に、ルセリィの意思が働いていることは想像に難くない。
ルセリィのやつ、こいつを解放軍のアイドルにでもするつもりか。俺のホワイトなんて、超怖がられてるのに、うまくやるもんだな……。
そんな思いでエミリアを見ていると、不意に彼女が振り返ってきて、目があった。
「どうした?」
「みんな、どこに行ったんでしょう……」
「みんな?」
「私と一緒に、この川を渡ろうとした、あの人たちです」
エミリアの言うところの『みんな』とは、あの戦闘のあった日、この川を渡ろうとしていなくなった、ネイティブ・オーダーの面々らしい。
あの日、先鋒として参加したネイティブ・オーダーの人員の中で、渡河に成功したのはエミリアだけだった。他は戦死か行方不明だ。
行方不明といっても、死体が見つからないだけの話である。川底に沈んでいるか、流されてしまったのだろう。
「あの世だろ。天国か地獄かは知らんけど」
エミリアの疑問に対して、キミヒコは端的に答えた。身も蓋もない返答に、エミリアは大きくため息をつくだけだ。
ふと、今更ながら彼女の装いについて、キミヒコは気が付くことがあった。ブーツと足袋が脱いであり、河辺の石の上で干されている。
どうやら、キミヒコが来る少し前まで、彼女は川に入っていたらしい。
「あ。死体でも探してたの?」
「せめて、遺体と言ってください……。一緒に戦った仲間なんですよ」
「……お優しいことで。俺もお前も、あいつらからは散々な扱いだったと思うけどな」
「それ、関係あります? 確かに、あの人たちは、私たちには辛く当たってましたけど……だからって……」
いつだったか、自身がルセリィに向けて言ったセリフと似たような言葉に、キミヒコは顔を渋くした。
「死んだ奴のことなんか、気にかけるのはやめておけ。忘れろ。そうでなければ、お前も死人に引っ張られるぞ」
キミヒコのそんなお節介な言葉に、エミリアは反応することはなく、その場にしゃがみ込んだ。
なんだろうと思ってキミヒコが黙って見ていると、彼女は足元にあった小さな花を摘んで、こちらに見せてきた。
「キミヒコさん。この花、なんて名前か知ってますか?」
「……勿忘草か。この島、よく自生してるよな」
エミリアの手にある小さな花は、勿忘草だった。
小さな青い花を、エミリアは慈しむように見つめている。
「私の故郷……ルーマニアに、ドナウ川という河川があります」
唐突に語り出したエミリアに、キミヒコは黙ったまま聞く姿勢だ。
無言のまま、目で話の先を促す。
「ドナウ川の上流には……今は東西に分かれていますが、ドイツという国があります。勿忘草という花の名前の由来は、中世ドイツにあるそうです」
エミリアはとつとつと、勿忘草の名前の由来について話し始めた。
キミヒコも知っている内容だ。
この島に来る前、言語教会の貸し出し本で読んだことがある。真世界の寓話が記された本に、この話は入っていた。
若い男女がドナウ川の川辺を散策していて、騎士の男が女のために花を摘もうとして、川に転落した。そして……。
「——私を忘れないで。そう言って、騎士は川に沈んだんです」
「で、その騎士が摘んだ花が、勿忘草か」
キミヒコの相槌に、エミリアはその手の花を見つめながら「そうです」と返した。
「それで? お前さんはその話に出てくる女みたいに、死んだ奴のことを覚えておいてやろうってわけか」
「……もし仮に、私が死んだとして……死んだ後に、誰からも忘れられてしまったら、怖いだろうなって……」
「それはそれは。繊細なことだな」
エミリアの心情の吐露。遠回しで、詩的な表現のなされたそれに、キミヒコは遠い目をした。
誰からも忘れられるのが……怖い、ね。理解はするけど、共感はしないな……。
死んだら終わり。死んだらそれまで。そう思っているキミヒコからすれば、死後に、自分が他人からどう思われようとも、あるいは忘却されようとも、あまり興味もないことだった。
興味があるのはいつも、即物的な事柄である。今の話でなら、この話の出どころはどこか、などだ。
「さっきの故事、誰に聞いた話?」
「私のいた孤児院で、一人だけ、優しくしてくれる職員の大人がいて……こういう話を、私に語ってくれました」
「そうかい。……ドナウ川なんて河川は、この世界に存在しない。ドイツも、ルーマニアも……な。あまり、そういうことを口にするのはやめておけ」
「……なぜです?」
エミリアの問いかけを無視して、キミヒコは葉巻を咥えて、人形に火をつけさせた。
一服するキミヒコに、自分の疑問に答える意思がないことを察して、エミリアはため息を漏らす。
「もう日が暮れる。帰るぞ」
一服を終えて、葉巻の吸い殻を地面に放り捨てながら、キミヒコが言う。
「……もう少し、散策してから戻ります」
「死体探しか? 無駄だって。見つかってねーのは、もう海まで流れてるよ。きっと」
「そうとは限ら……そうだ! ホワイトちゃんは、索敵が得意だって言ってましたよね!」
やっかいなことを閃いたらしいエミリアは、ホワイトに向けてそう言った。
だが、水を向けられた人形は微動だにしない。
「あのー……ホワイトちゃん? できれば、協力してほしいなって……」
「……」
ホワイトはいつもどおりだった。
この人形にとっての他者とは、主人にとって邪魔な攻撃するべき存在か、あるいはどうでもいい無視するべき存在か、この二択だけ。エミリアは後者だった。
エミリアの言葉も、そして存在そのものもどうでもいいとみなしているらしい。完全に無視だった。
「……おいホワイト。俺たちの組織のメンバーの死体、この辺にまだあるか?」
「はぁ。探してみます」
乗り気でないものの、キミヒコが助け船を出してやると、即座に返事がある。
自分との対応の違いにエミリアが落胆しているうちに、人形はキミヒコの指示をこなしていた。
魔力の糸が四方八方に広がり、川の中を捜索している。
「ありましたよ。一個だけ」
一分も経たないうちに、ホワイトは目当てのものを探し当てたようだ。
キミヒコが「どの辺?」と聞けば、指で差し示してくれる。
「ホワイト、回収してこい」
自ら遺体の下へと行こうとするエミリアを手で制して、キミヒコはホワイトに指示を出した。
人形は「了解しました」と言って、川に入っていく。
「あの、別にそこまでしていただかなくても、私が行きますけど……。キミヒコさん、乗り気じゃないですよね? 探し出してくれただけで十分で——」
「人間はな、死ねば終わりだ」
礼を言おうとするエミリアの言葉を遮り、キミヒコが断じる。
「……終わりませんよ。本当のおしまいは、誰からも忘れ去られた時でしょう。きっと」
「あっそ。じゃあ、好きなだけ弔ってやれよ」
もう話はないとばかりに、キミヒコは踵を返して歩き出す。
「どちらへ?」
「俺は見たくないから、ちょっと離れてる」
言って、キミヒコはその場を離れた。
ホワイトが指定されたモノを回収して、そろそろここまで来る頃合いだったからだ。
そして案の定、キミヒコがその場を退散してすぐに、ホワイトはやってきた。人形と回収されたモノが、川から上がる水飛沫の音がする。
「あ。ホワイトちゃん、ありが…………え? なにそれ……え……?」
キミヒコの背後から聞こえるエミリアの声。それが、困惑の声から、嘔吐の音へと変わるのに、そう、時間はかからなかった。
見ない方がいいものを、見たからだろう。
吐き出せるものを全て吐き出したらしく、エミリアの声は嗚咽へと変わっていった。
背後からは少女の啜り泣く声、前方の砦からは兵士たちの陽気な笑い声。それらを努めて意識の外へと追い出し、川の流れる音だけを聴こうとしているキミヒコの隣に、ホワイトが来た。
「せっかく、言われたとおりに回収したのに、見ないんですか?」
「死体、どんな状態だった?」
「ここ数日、暑かったですから、腐敗ガスで風船みたいに膨張してましたよ。おかげで眼球とかも飛び出してます。表皮も全部剥がれて全身赤くなってました。あと、貝とかカニとかが死体の中まで群がってますし、私が川底から引き上げたときに腹膜が裂けて、消化器官がこぼれて——」
「もういい。やめろ。聞きたくない」
「えぇ……貴方が聞いたんじゃないですか」
ホワイトの呆れ声に肩をすくめてから、「糸電話をスミシーに繋げ」とキミヒコは指示を出した。
ほどなくして、周囲を漂う魔力糸の一本が明滅して、糸電話が繋がった。
「あ。もしもし、スミシー聞こえてる? 俺だけど、今大丈夫か? ああ、ちょっと死体が上がってな。……え? あいつだよあいつ。俺とかホワイトに散々絡んできた、あのチビの……そうそうそいつ!」
キミヒコの通話中も、エミリアの嗚咽が聞こえてくる。
いい加減に嫌になって、エミリアの方へと視線をやる。俯いて涙を流す彼女の横に、赤黒い何かが見えた。
キミヒコは顔を顰めつつも、何事もないかのように通信を続ける。
「……死体が見つかっちまったから、仕方ない。遺族年金の等級を……そう……うん、そんな感じでよろしく頼む。……え? 遺体? あーダメダメ。一週間以上も川底だったんだぜ? もう見てらんない状態だよ。……遺髪もねーよ。全部皮ごと剥がれてる。現地で処理するから、人を手配してくれ。……あん? いや知らんし。土葬でも火葬でも、先住民のやり方で任せるから。じゃ、そういうことでよろしくー」
通信を終え、嫌な仕事がとりあえずは片付いて、キミヒコは息をついた。
「エミリア! もう人を手配したから、それはそこに置いておけ。帰るぞ」
うずくまっているエミリアにそう声をかけるが、彼女は動かない。
精神的動揺により、キミヒコの言葉が耳に入らないのか、あるいは動くこともできないのか。いずれにせよ、キミヒコに待つつもりはなかった。
「ホワイト。引きずってこい」
「はいはい」
「あ! 死体じゃなくて、エミリアの方だぞ!」
「わかってますよ」
そんなやりとりをしてから、ホワイトがエミリアをキミヒコの前まで連れてきた。
彼女の足首を掴んで、ズルズルと引きずっている。エミリアはされるがままで、河原の丸い石に頭をゴツゴツぶつけられても、文句ひとつ言わない。
ただ、仰向けのまま、茜色からほの暗い夜の色になりつつある空を眺めている。
「何度も言ってるだろうが。もう終わったことは気にするな。忘れろ。他人なんてその程度のことだ」
ピクリとも動かないエミリアに向けて、キミヒコが言う。
反応はない。
ふと、彼女が今は素足だったことをキミヒコは思い出した。
「ホワイト、こいつの履き物を持ってきてくれ。川辺に干してあったやつ」
「はぁ……。何往復させるんです? 人形使いが荒いですね……」
「うっせー、はよ行ってこい」
気の置けないやり取りをして、人形がまたキミヒコのそばを離れてしばらく。ようやくエミリアが口を開いた。
「キミヒコさんは……どうして、平気なんですか……?」
目尻に涙を溜めて、少女はそんな疑問を口にした。
どうしてと言われても、キミヒコからすればどうでもいい他人がこの世から消えて、グロテスクな水死体は目に入らないようにしただけのことだ。
だから、自らの正直な処世術を言うことにした。
「俺はな、見たくないものには目を背けて、辛いことからは逃げて、嫌な記憶はすぐに忘れる。そうして生きていくと決めてるのさ」
「そんなの、まるきり子供みたいじゃないですか……!」
「そうですけど? 世の中、そんなヤツばかりだぜ。身体だけデカくなって、中身は子供のまま。生きやすくて結構じゃないか。あやかりたいね」
キミヒコがそう言ったタイミングで、人形が戻ってきた。
その手にあったブーツと足袋を渡され、そのままエミリアに差し出す。彼女はゆっくりと立ち上がってから、それを受け取った。
「エミリア。お前、向いてないよ。もう、こんなくだらん戦争に首を突っ込むのはやめておけ」
「そんなこと……! 私はルセリィさんのために——」
「ルセリィには、俺から言っといてやるよ。もう戦えそうにないって、な。気にしなくても、新兵にはよくあることさ」
キミヒコの言葉に、エミリアは沈黙で答えた。
青い顔のまま、黙って、ブーツを履いている。
「迷惑を、かけました……。もう、一人で歩けますから……私は……」
言って、エミリアはフラフラと歩き出す。
おぼつかない足取りで砦の方へと向かっていく彼女の背を、キミヒコはため息混じりに見送った。
「嫌な記憶をすぐに忘れる……? 貴方、実践できてますか?」
トボトボと歩くエミリアの背を見つめるキミヒコに、人形が言ってくる。
「うるさい。努力目標だよ。俺も頑張って生きてんの」
キミヒコがそう返すと、ホワイトは「そうですか」と言って身体を寄せてきた。
そんな人形にキミヒコが手をやると、白い衣服のサラサラとした感触がする。先程まで川に入って死体探しをしていたはずだが、もう乾いている。この人形の自動洗浄能力がよく働いているらしい。
「なあ、ホワイト」
しばらく、人形を撫でているキミヒコが、唐突につぶやく。
それまで撫でられるがままだったホワイトは「はい」と返事をして、主人の顔を見据える。
「お前は、さっきのエミリアの考え……どう思う? 忘れ去られたら、それこそが終わりっていう、あれ」
「はあ。まあ、一定の合理性はありますね」
何気なくした問いかけだったのだが、予想外の返答にキミヒコは瞠目した。
てっきり、ホワイトはあんなセンチメンタルな考えは、あっさり切って捨てるものと思っていた。
「記録さえ残っていれば、『死』を迎えることはない。そういう思想ということですよね?」
「いや……記録というか、誰かの記憶としてというか……」
ホワイトの言っている思想は、エミリアのそれとは絶対に違う。この人形は、曲解して変なことを言っている。
キミヒコにはそう思えるのだが、否定の言葉は出てこない。どことなく、いつもと違うようなホワイトの空気感が、そうさせていた。
「意思と記録。それらが存在として確立していれば、肉体を喪失しても、生きていると言って差し支えない。この思想は合理的です。肉体はしょせん、現実に干渉するためのインターフェースに過ぎないということです。肉体の破壊は、それイコール『死』を意味しない」
「……記録はともかく、肉体……というか脳がなければ、そいつ本人の意思も思考も……自我も、消失するだろう。それは結局、『死』じゃねえのか?」
「では……肉体と別の部分で、それらが、エゴが、保全されるとするならば?」
言って、ホワイトの糸が怪しく明滅する。
蠢く糸の先には、ほのかな残照に染まる勿忘草の花が咲いていた。




