#6 チャウシェスクの落とし子
二十世紀後半、鉄のカーテンにより、東西陣営に分断された欧州。共産主義陣営に属する国家の一つに、ルーマニアがあった。
当時のこの国は、チャウシェスクという独裁者の統治下にあった。
この独裁者は人口増加こそが国力増強につながると考え、中絶や避妊を禁止する法律、「法令第770号」を制定。その結果、当時のルーマニアの出生率は大きく上昇する。そしてそれに伴い、大量の捨て子も発生した。
この子供たちが、後世にて『チャウシェスクの落とし子』と呼ばれる孤児たちである。
エミリアは、国に溢れかえる孤児の一人だった。エミリアには両親の記憶がない。物心ついた時には孤児院にいた。
孤児院は最悪だった。
食事も服も寝床も、満足に与えられはしなかった。
常に飢えに苦しめられたし、服がもらえずに裸のまま寒さに震えて過ごすこともあった。
大人たちの言うことに素直に従わなければ、体罰もある。反抗的な態度をとれば、容赦なく殴打された。体罰で殴られたせいで骨折し、栄養失調も相まって、手足が変形したまま治らない子供もいた。
そうした環境にあって、幸か不幸か、エミリアは五体満足のまま、成長することができた。
そしてある年のクリスマスの日、エミリアに転機が訪れる。国を支配していた独裁者、ニコラエ・チャウシェスクが死んだのだ。
エミリアには全く理解の及ばぬことだったが、どうも複雑な事情があったらしい。
ちょっと前まで、この独裁者を賛美する放送しか流さなかったラジオが、革命がどうとか、裁判がどうとか言い始め、あれよこれよという間に、こうなった。
ともかく、独裁者は死んだ。
だがそれで、エミリアの人生が良くなることはなかった。
孤児院の仲間たちのその後は様々だった。孤児院に残る者もいたし、孤児院を逃げ出しストリートチルドレンになってしまう者もいた。親を名乗る人物に引き取られていったり、西側国家のお金持ちに貰われていったりといった者もいた。
エミリアは父親を名乗る人物に引き取られた。
だがその男は本当の父親ではなかった。エミリアはそう信じている。
父親が、自分の娘に、してはいけないこと。それを、あの男はエミリアにやろうとしたのだ。
いざその時になって、エミリアは必死に抵抗した。無我夢中だった。衣服を剥ぎ取られ、大人の力で組み伏せられてもなお抵抗した。
そんな暴れ続けるエミリアに、男は怒りを覚えたらしい。
彼は、エミリアの顔に拳を振り下ろした。何度も何度も殴打した。
エミリアの頭の中は、殴られたことで骨が揺れる衝撃音と、自らの喉から発せられる悲鳴で満たされた。だがそれも、だんだん遠くなっていく。
朦朧とする意識の中、最後に、それが聞こえた。
『何を望む?』
◇
弾かれたように、布団を跳ね除け身体を起こす。
一瞬ここがどこかわからなくなるが、光が差し込む方を見て思い出す。
ここはエミリアの部屋だ。世話になっている、ガルグイユ島の先住民族の族長一家。その家の一室である。ベッドもドアも、光が差し込む窓も、先住民族用のサイズでかなり小さめだ。
エミリアは荒い息を吐きながら、先程のことを思い返した。
「何を望む……私の、願い……。私はいったい、何を望んだの……?」
息を落ち着けながら、エミリアは独りごちる。
狭いベッドの上でぼんやりしていると、部屋の扉がノックされた。
「エミリア? 部屋にいないのか?」
「あ。ルセリィさん……」
「おお、いたか。ずいぶんお寝坊さんだねぇ。まだ寝ていたのかい?」
入室して呆れたように言うルセリィだったが、エミリアを見るなり、心配そうな顔になる。
「……悪い夢でも、見た? すごい顔色」
「夢……? ええ、そうですね……。あれは、夢……悪い夢でした……」
うわごとのようにそう呟くエミリアの額に、ルセリィが自身の額を当てる。その小さな額と、頬に当てられた小さい手のひんやりとした感触で、エミリアは自身の心が落ち着いていくのがわかった。
「んー……熱はないようだね」
「……すみません。心配をおかけしたみたいですけど、大丈夫ですよ」
エミリアがそう言えば、ルセリィは「そうか」とだけ言って手と額を離す。
心地よい人肌の感触が離れていくのを少し残念に感じながら「それで、どうしました?」とエミリアは問う。それに対してルセリィは「おお、そうだそうだ」と言って手を叩いた。
「首尾よくいったぞ! 君のおかげだよ、エミリア」
「え……あの人、頷いたんですか?」
聞かされた報せは、喜ばしいものだった。
自陣営に加えたい加えたいと、ルセリィがずっと言っていた人物の勧誘に成功したようだ。
しかし、それはエミリアにとっては変に思えた。先の交渉で、件の男、キミヒコはそう簡単に組織に加わってくれそうな雰囲気ではなかった。
「どうして……? あの人、全然そんな素振りはなかったと思うんですけど……」
「エミリアが可愛いからさ。きっと」
冗談めかしたルセリィの言葉に、エミリアは首を傾げるしかなかった。
◇
「ホワイト。あのエミリアとかいう小娘、殺れるか?」
エミリアが目を覚ましたのと、同時刻。
キミヒコは泊まっている宿の一室で、冷たい目をして人形に問いかけていた。
「問題ありません。今から殺してきましょうか?」
「いや……警戒に留めておけ。油断ならんぞ。あれは」
「なぜです?」
「アレは異世界人だ。俺と、同じ……。そうすると、あいつも、何かを願ったはず。大いなる意思から何かを授かったとすれば、スペックはお前と同等かもしれん……」
警戒感を滲ませながら、キミヒコは言う。
エミリアは、身体能力も魔力も凡人のそれなのに、騎士並みの戦闘能力を保持している。これだけでも奇妙すぎる存在なのだが、キミヒコと同じ異世界人であるというのがそれに拍車をかけていた。
ホワイトも異常なまでの戦闘能力に加え、様々な用途に使える魔力糸や不死身ともいえる再生能力を持っている。エミリアも、何か特殊な能力を秘めている可能性があった。あるいは、何か強力なアーティファクトでも所持しているかもしれない。
「……警戒しているのなら、なぜ、あの女の組織に与すると決めたのですか?」
「俺たちの知らないどこか……それも同じ島の中で、お前のような超常の存在がいるってのは、好ましくない。動向を常に見ておきたい」
「監視ですか」
「それもあるし……大いなる意思から何を貰ったとか、何をされたのかとか、そういうことの探りを入れたい。……俺も、自分のことがよくわからんし……な」
ため息まじりに、キミヒコが言った。
その言葉どおり、キミヒコ自身、大いなる意思に何を願ったか覚えていない。最初の頃は、自分の願いについて気にしていたのだが、今はそうでもなかった。
願いの産物らしい、キミヒコの絶対的な味方。ホワイトという人形がそばにいてくれるのなら、もうそれでいいと考えていた。
しかし、別の異世界人が現れたことで、キミヒコは方針を修正した。大いなる意思が叶える願いについて、改めて考えを巡らせている。
「俺もそうだけど……あいつ、何を願ったんだろうな……。天下無双とか全知全能になりたいとか、そういう苛烈なやつだと困るよな……」
「あの女の願いが何であれ、戦えば私が勝ちます」
不安げなキミヒコに、ホワイトが言い切った。
いつもどおりの頼もしさに、キミヒコは笑って応える。
「ふふ……頼もしいな。相変わらず。でもお前は自信過剰だからなぁ……」
「確実です。負けることなどありえません」
「……根拠は?」
「根拠? 貴方は理解しているはずです」
ホワイトは基本的に表情を崩すことはない。
しかし、今。この人形の表情は、ゾッとするような満面の笑みだった。
「だって、そうでしょう……? 『愛』は最強ですから」




