#12 天使狩りの夜
『こちらは、リシテア市保安局です。現在、非常事態警報が発令中です。市民の皆様におかれましては、自宅に待機のうえ、外出を控えていただくよう、お願い申し上げます。……繰り返しお伝えします。こちらは、リシテア市保安局です――』
拡声魔法によるアナウンスが、市内に響き渡っている。
市の職員やらギルドの人員やらが、市民の混乱を抑えるため巡回をして、しつこいくらいにこのアナウンスを続けていた。
「あーもう、うるせーな。何度も何度も同じことをさぁ。言われなくたって、この状況で不要な外出なんてしねーよ」
うるさいアナウンスに、キミヒコはそう吐き捨てた。
キミヒコが今いる場所は、アミアの喫茶店だ。店内は荒れ果て、テーブルやら椅子やらは散乱し、ところどころ窓ガラスも割れている。
キミヒコはそんな店内の、窓際のテーブルについてのんびりしていた。ここだけは窓ガラスも席もきちんとした状態で、テーブルの上には湯気を立てたマグカップが置かれている。
相席にはホワイトが腰掛けている。窓からは月光が差し込み、人形の白い顔を照らしていた。
市内に口裂け天使が湧き出してから、すでに三日。その間、太陽が昇ることは一度もなかった。夜が明けることなく、赤い満月がこのリシテア市を照らし続けている。
「アミアー。アミアさーん。コーヒーおかわり、お願いしたいんですけどー」
空になったカップを手に、キミヒコが店内の隅の方に声をかける。そこには、三角座りで俯いたままのアミアの姿があった。
キミヒコのオーダーが聞こえているのかいないのか、返事はない。
「はぁ……。ホワイト」
「はいはい。わかりましたよ」
主人の意を受けて、人形がマグカップを受け取り、厨房へと向かっていく。
人形の背に向けて「砂糖はいつもどおりな」と追加で注文をつけてから、アミアの方へと視線を向ける。彼女は俯いたままで、微動だにしない。
その様子にキミヒコの口からため息が漏れる。
「あのさぁ……。店がボロボロになったのは同情するけど、そろそろ元気だそうぜ。今のリシテア市で、悲惨でないやつなんていないんだからさ。五体満足なだけ、まだマシな境遇だよ」
若干、呆れたような口ぶりで、キミヒコはアミアに声をかける。
口裂け天使が溢れ出した、あの日。リシテア市は明けない夜に入り、化け物が闊歩する魔境と化した。
今でこそ多少落ち着いてはいるものの、当初は悲惨そのものだった。口裂け天使はあちこちどこからでも湧いて出るし、隣人や家族が突然に変異することもあった。おまけに謎の結界がリシテア市を覆い、逃げ出すこともできない。
恐怖や疑心が人々を蝕み、社会秩序は崩壊。暴行や略奪が横行し、この喫茶店もその煽りを受けることとなった。
とはいえ、彼女はまだマシな方だとキミヒコは思う。
アミア自身は店の倉庫に閉じ籠ることで、怪我を負うこともなくやり過ごすことができた。それに、拠点を探していたキミヒコとシモンがこの喫茶店に来たことで、店を占拠していた暴徒を追い払うこともできた。
このリシテア市の住民は全員不幸といえるが、その中にあってアミアは幸運な方といえるだろう。
だがこの異常な状況下で、その幸運を噛み締められるほど、彼女は強くはなかった。すっかりメンタルがやられてしまい、塞ぎ込んでいる。
「やれやれ……神経がちょろい奴は、これだから困る。……ここの設備と備蓄は、勝手に使わせてもらうからな。用心棒の代金代わりだ。あとで文句言うなよ」
いまさらなことをキミヒコが言う。
この喫茶店を拠点としてからというもの、厨房にある業務用の冷蔵庫やらポットやらを好きに使っていた。特に冷蔵庫は重宝しており、あちこちから集めてきた物資の貯蔵に活用している。
冷蔵庫は一般家庭にはない代物で、魔石を加工して生産されるマナバッテリーを動力とする。
マナバッテリーは今のリシテア市ではそうそう手に入らないが、それは問題にならない。ホワイトの持つ無尽蔵の魔力と精密な魔力コントロールにより、冷蔵庫はバッテリーなしでの稼働を続けていた。
その他にも、さまざまな魔道具を稼働させているため、店内にはホワイトの糸が蠢き、明滅している。
そんな糸がふわりと怪しく跳ねて、キミヒコにまとわりついてきた。どうやら、ホワイトが戻ってきたらしい。
「貴方。コーヒー、淹れましたよ」
「ん。サンキュー。コーヒーの備蓄は、あとどれくらい?」
「豆と砂糖は余裕があります。ただ、ミルクは冷蔵保管しているとはいえ、そろそろ傷む頃合いですね」
人形と二人して、普段と変わらないような、平静な会話をしながら、キミヒコはコーヒーに口をつけた。キミヒコ好みの甘い味が、口の中に広がる。
「それ、飲み終わったら歯磨きはしてくださいよ。また虫歯になったら、面倒です。今は満足な医者もいませんし」
「うるせーよ、大きなお世話だ。お前は俺のお袋か」
「私に母親をやってほしいというのなら、それも……来ましたよ」
和やかな会話が唐突に終わる。
人形の糸が、それまでよりも暗く冷たい雰囲気を纏うことで、キミヒコは誰か他の人間が来たことを悟った。
「誰だ?」
「あの魔獣使いのハンターです」
相変わらず、固有名詞をあまり使わないホワイトだったが、誰が来たかは理解できた。
外回りを任せていた、シモンが戻ってきたようだ。
「そうか」とだけ言って、キミヒコはコーヒーを飲み干す。
それからほどなくして、喫茶店の入り口、暴徒によって破壊されてそのままの状態のそこに、影が差す。
シモンとその使役魔獣のコロだった。
「ただいまー。いやぁ、疲れたぜ。でもその甲斐あって収穫が――」
「おう止まれ。入る前に、ボディチェックが先だ」
朗らかな笑顔で店に入ろうとするシモンだったが、キミヒコの言葉に顔が引き攣る。
「い、いや、そんなんやらなくてもよくない? ほら、俺、五体満足で、怪我なんかしてないし……」
「無理やりだと、余計に苦しいぞ? ……ホワイト」
キミヒコがそう言うと、人形が糸を展開させる。
自身の周囲が糸まみれになったことで、シモンは観念したらしい。おとなしく手を上げて、糸によるチェックを受け入れた。
「ひ、ひと思いにやってくれ……」
「あいよー。それじゃあホワイト、手早く頼む」
キミヒコの言葉を皮切りに、人形の糸がシモンの体内に羽根蟲がいないか調べ始めた。
よほど精神にくるらしい。シモンの顔色は、青色を通り越して土色になっている。
「シロですね」
「ん。じゃあ次はコロちゃんをやってくれ」
「畏まりました」
糸による検査が終わるや否や、シモンは床に突っ伏した。
そのオーバーリアクションに、キミヒコは笑う。
「はは、大袈裟な野郎だな。コロちゃんを見習ったら? 主人と違って、おとなしいもんだぞ」
肩で息をしているシモンに、そんなことを言う。
実際、その言葉のとおり、この巨大な蜘蛛はホワイトの糸が体を這い回っても全く動じていない。
「いや、仕方ないだろ……。この糸は、人間の心に……」
「人の心に?」
聞き返すキミヒコに、シモンは力無く首を振る。そうしてから、大きなため息をひとつついて、ガックリと肩を落として黙ってしまった。
人の心……か。そんなもの、俺には……いや、俺たちには……。
柄にもなく、そんな思考に耽るキミヒコの袖が引かれる。
ホワイトだ。どうやら検査を終えたらしい。
「貴方、こちらもシロです」
「ん、そうか。……それじゃ、今度は俺たちが出るぞ。護衛は任せる。いけるな?」
「無論です」
ホワイトの頼もしい返事に、キミヒコは笑って、その頭を撫でてやる。
「あれ、珍しいな。お前が出かけんの?」
キミヒコたちのやり取りに、シモンが疑問の声を上げる。ホワイトの糸による検査のショックから、多少立ち直ったらしい。血色がいくらかよくなっている。
シモンの言うとおり、キミヒコが出かけるのは珍しいことだ。物資の回収などの実務は、シモンがやるのが通例だった。
キミヒコ自身が危ないことを嫌がるというのも理由ではあるが、この喫茶店に籠りながらでも、人形の糸は物資の捜索を十分に行なえる。ホワイトが回収できそうな物資を探して、シモンが取りに行く。それがここ最近の流れだった。
「ああ、留守は頼む。回収した物資はいつもどおりに保管よろしく。ホワイトがいない間、冷蔵庫はバッテリーで稼働させといてくれ」
「あいよ。……どこ行くんだ?」
「現状、手駒が足りんからさ、あの小僧をスカウトしてくる」
あの小僧、と聞いて、シモンはすぐに誰のことかわかったらしい。「あーあいつかぁ」と言って、なんとも言えない表情をする。
キミヒコが仲間に引き入れようとしているのは、この喫茶店の主人であるアミアの弟、ネオのことだ。
「あの少年、そもそも生きてんの? 武器もなしでさ」
「死んでるどころか、この間よりイキイキしてるよ。姉貴がこんな状態なのに、困った坊やだよな……」
呆れた口調で、キミヒコが言う。
キミヒコはこの喫茶店にいながら、ネオのおおよその現状を把握していた。
時折、この店にやってくる招かれざる客。食料を求めてやってくる暴徒を半殺しにした際、偶然ネオのことを聞いたのだ。
彼の居場所は、キミヒコが以前に連れていってやった風俗店。ホワイトに糸を使って調べさせたところ、彼はこの世の春を謳歌しているらしかった。
「じゃ、あとはよろしく。……行くぞ、ホワイト」
「はいはい。どこへなりとも、お供しますよ」
ホワイトを連れて、キミヒコは店を出ていく。背後からの「気をつけてなー」という声に、背を向けたまま手を振って返事をして店の入り口をくぐった。店の前を陣取る、巨大蜘蛛の脚の間を抜け、久々に屋外の風を浴びる。
今は昼過ぎのはずだが、この街は相変わらずの真夜中の景色だ。赤い満月が空で爛々と輝いている。
喫茶店を出て、数歩進んだところで振り返ってみる。
店はひどい有様だ。扉は破壊され、窓ガラスは割れ、いかにも略奪されました、みたいな雰囲気が出ている。
だが、それ以外にも目をひく部分があった。
これじゃあな。アミアのやつも、落ち込むか……。あいつ自身が連中の一味ってわけでもないのにさ……。
そんなことを思うキミヒコの視線の先、アミアの喫茶店の壁に落書きがあった。
『カルト宗教はリシテア市から出ていけ』
『お前たちのせいだ。責任とって死ね!』
『この店は天使学派の手先』
落書きは他にもあるが、おおむね同じようなものだ。天使学派への恨みがこもった、そんな内容。
今現在のこの都市の異常事態に、天使学派が一枚噛んでいるのではないか。そういう疑念が市民の間で広がっていた。
なにか証拠があって疑っているわけではないだろうが、全くの見当違いというわけでもない。それを、キミヒコは知っている。
だが、アミアは無関係だ。彼女の両親は天使学派の信者であるため、そのあおりを受けて敵意を向けられているらしかった。
なお、両親の方は現在所在が不明だ。迫害を恐れて天使学派の施設かどこかに逃げているのか、あるいはもう死んだか。おかげで、一人残ったアミアは、差別を一身に浴びることになっている。
ろくな親じゃないな。本当に……。
不快な思いに、キミヒコが顔を歪めていると、唐突に絶叫が耳に入った。空からだ。
「た、助けてくれ! 助け……あああああッ!!」
若い男が、口裂け天使に捕まっている。彼は道を歩くキミヒコに気が付いたのか、必死に助けを求めるが、そんなことをされてもどうにもならない。
男の叫び声に反応したのか、口裂け天使がどこからともなくわらわらと集まってきて、凄惨な食事が始まった。その様子はさながら鳥葬のよう。夜空の上で、男の体は分割されて、瞬く間になくなってしまった。
こんな光景は、もはやこの都市では珍しいものではない。
地獄か? ここは……。まったく、デルヘッジのおかげでよぉ……。
どうにかして、この地獄みたいな都市から、脱出しなければならない。あの凄惨な光景に、キミヒコはそんな決意を新たにする。
だが、人形の感想はまた違うものだった。
「それにしても、今のこの都市、実に良い環境ですね。貴方」
とんでもない感想を、ホワイトが述べる。
「は……? いや、はあ!? どこがだよ!?」
「一人や二人、人間が死んだところで、誰も気にしないじゃないですか。やりやすい環境です。貴方はいつもそういうことを気にしてましたからね。ストレスから解放されるのでは?」
この人形の発言、そしてその思考回路そのものが、ストレスの大元なのだが、当の本人は全く気が付いていない。
返事の代わりに、キミヒコはデコピンを一発お見舞いしてやった。




