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クズ野郎異世界紀行  作者: 伊野 乙通
ep.5 天使たちのノスタルジア
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#8 セントラルドグマ

 リシテア市にある市立美術館。平日の昼間とあって、人気(ひとけ)はない。

 そんな美術館の展示室の一つ。


 この展示室のメインは彫刻らしい。部屋の中央には大理石の彫像が鎮座している。


 その彫像の前で、どこか遠い目をしながら佇む老人が一人。リシテア市言語教会の司教、デルヘッジだ。


「やあ、司教。奇遇ですね」


 声をかけられたデルヘッジが、振り向く。

 そこにいたのは、キミヒコとホワイトだ。


「……おや、キミヒコさん。あなたも美術鑑賞に?」


「ええ。そんなところです」


 朗らかな雰囲気を作りながら、キミヒコは答える。


「ここには初めてですが、なかなか立派な美術館ですね。建物自体もなんだかずいぶんと歴史があるような雰囲気です」


 キミヒコのその言葉どおり、この美術館は建築そのものからして立派だった。その外観はさながら、王侯貴族の豪邸のようである。


「ええ、そうでしょう。この美術館はかの老帝国、カイラリィの皇族の御用邸を改装したもので、二百年以上の歴史があります。見所は多いので、ぜひ楽しんでいってください」


「ほお。ここが帝国領だったときの……。貴人の別邸だったと言われると、なんだか(おもむき)が感じられます。展示品も期待できそうですね」


 ここリシテア市はかつて、列強の一角であるカイラリィ帝国の一部だった。この美術館はその時代の名残ということだ。


 デルヘッジの語るそうした歴史的背景について、キミヒコは感心したように頷いてみせる。

 だがそんな態度とは裏腹に、ここに来た目的が美術鑑賞のわけがない。お目当ては当然、今眼前にいる老人だ。


 デルヘッジには、今までも何度か接触を図ったことはある。だが、この男の足取りを掴むのは、容易なことではなかった。


 デルヘッジは組織の長という立場ながら、なかなか(おおやけ)の場には姿を見せない。おまけに基本は単独行動で、周囲の人間もその動向を完全には把握できていない。アポイントが取れたのも初回の面談の時だけだ。

 私生活も完全に謎である。本人に無断で自宅にお邪魔をしたこともあるが、そこには家具の一つも置かれていなかった。


 この老人が普段どこで何をしているのかは、まったくの不明である。


 今回こうして接触できたのは、天使学派に潜り込ませたシモンからの情報によるものだ。どうやらこの男はこの美術館によく来るらしい。今日のこの時間に、ここに来るであろうことを偶然掴むことができた。


「こうして美術鑑賞に来られたということは、キミヒコさんの今日のお仕事はお休みですか?」


「いえ、それが……。ギルドの件、ご存じと思いますが……なにしろ物騒な世の中なものでしてね。もう、リシテア市からは出ようと思ってます。ま、せっかくなんで最後に観光を、ということです」


「……なるほど」


 平然と嘘を並び立てるキミヒコに、デルヘッジはそれだけ言って、視線を彫刻の方へと戻した。

 つられて、キミヒコもそちらを見る。


 これ、超有名なやつじゃん。頭と両腕が欠損した、翼の生えた天使だか女神だかの彫刻……。ルーブル美術館かどっかにあるんじゃなかったか……。


 既視感のある彫像に、心中でそうこぼす。


「ふむ。芸術には疎いのですが、これは天使の像……なんですかね?」


 彫刻を指してキミヒコが問いかける。


 他の作品にはついている解説のプレートが、なぜかこの彫刻にはない。それゆえ、作品名すらキミヒコにはわからなかった。

 キミヒコの問いかけに、デルヘッジは静かに首を振る。


「この彫刻がモチーフとなって、現在の天使のイメージは形作られたらしいですが……これは天使ではありません」


「ほお? 天使ではない……」


「この『サモトラケのニケ』は、女神ニケの彫像です」


「……女神ニケ、ですか。聞いたことありませんね」


 デルヘッジが教えてくれたこの作品の名前も、モチーフとなった女神の名前も、キミヒコには聞き覚えのないものだった。

 とはいえ、キミヒコは芸術に明るい方ではない。キミヒコのいた世界、真世界での呼称も『サモトラケのニケ』だった可能性はある。


「本当に……そうですか?」


 疑念が多分に含まれた声色で、デルヘッジが言う。


 キミヒコについて、教会の中で噂になっていることがある。かの者は、真世界から来たのではないか。そういう噂だ。

 デルヘッジのそういう疑念に、キミヒコは首をかしげることで答えてみせる。だが、その視線には、わずかに殺意が乗っていたらしい。ホワイトがそれに反応して、糸が怪しく蠢いた。


「いや、失礼。キミヒコさんは博識でいらっしゃいますから……」


 キミヒコへの配慮か、あるいはホワイトに怯えたのか。デルヘッジはそう言って、この話を切り上げた。


「まあ私も、女神ニケについては名前くらいしか知らないのです」


「おや、司教も? すると、この像は……」


 この像はあきらかに真世界に関連するもので、それは言語教会の専門分野だ。この都市の教区長であるデルヘッジが知らないのであれば、他の誰も知らないだろう。


「この像はレプリカです。本物の『サモトラケのニケ』ではない。……この浮世もしょせんは幻。そういうことですね」


「……浮世?」


「かつての聖人の言葉です。私たちが生を受け暮らすこの世界は、しょせんはただの模造品。紛い物に過ぎない。この辺はきっと、あなたもご存知でしょう」


 眼前のこの像、それどころかこの世界の全てが紛い物だとデルヘッジは言う。教会との付き合いが深いキミヒコは、この手の講釈を受けたことは何度かある。

 こういう思想はキミヒコには理解し難い。だが教会内部、特に高位の聖職者の間では、ありふれた考えであることも知ってはいた。


「だから私たちは、真なる世界を……かの憧憬の地を……」


 そしてデルヘッジもまた、そうした考えの人間らしかった。真世界への憧れを、ぶつぶつと呟くその様に、キミヒコは若干引いてしまう。


 このご老人も結局、頭のおかしい聖職者か。行き来することもできないんだから、どっちが真実の世界とか、どうでもいいじゃねーか。こいつらの意味不明なコンプレックスは、まったく度し難いな……。


 辟易とした思いを心中でこぼしながらも、おとなしく聞き手に回る。

 そうしてしばらく、デルヘッジの真世界への憧れの言葉を聞き流し、タイミングを見計らって本題に入ることにした。


「それにしても司教。ここ最近、ずいぶん物騒なことになってきましたね」


 物騒なこととは当然、羽根蟲のことである。


 天使学派がこの件について白か黒かはまだわからない。だが当然のように、羽根蟲の情報を彼らは知っている。

 ギルドや行政の内部に信者がいるし、なんならキミヒコも羽根蟲については普通に天使学派の人間には話していた。


 どうせ知られていることなので、守秘義務だなんだと気にする必要はない。


「どうです? いったん私と、ここから離れるというのは。私の人形がいれば、道中はこの上なく安全ですよ」


 デルヘッジにそんな提案をするキミヒコだが、相手を思ってのことであるはずがない。


 この提案に乗った場合、デルヘッジは隣の都市に向かう道中は安全かもしれない。だがその後のことはその限りではない。キミヒコが教会に突き出すからだ。

 アーティファクトの行方はいまだ不明だが、天使学派の悪事についてはすでにレポートにして提出済みである。教会はデルヘッジに遠慮はしないだろう。


「ありがたい話ですが……。私は残ります」


 キミヒコの言葉に潜む悪意を察したのかは定かではないが、デルヘッジは提案を断った。


 もっとも、キミヒコはそれを意外とも思わないし、残念だとも思わない。この提案は乗ってくれたら儲けものくらいの認識だ。

 こうしてこの老人に会いに来たのは、その真意を探るためというのが大きい。


「おやおや……。それなら、この都市と運命を共にしますか?」


「……リシテア市と諸共に消えることができれば、私のような人間がこれ以上、老醜を晒すこともなくなりますから」


 その言葉の意味がわからずに、キミヒコは口をつぐむ。


 老醜。詐欺まがいの手段で金を集めていることだろうか。そうも思うが、その推測はどうもしっくりこない。


 天使学派は信者に無理な献金をさせて、何人も破滅させているカルト集団だ。だがその資金の流れはいまだにつかめていない。

 集めた金の一部は幹部の懐に直行しているが、それ以外の大部分がどこに流れているのかがわからない。


 資金洗浄をしたうえでどこかで資産形成をしているのか。あるいは教会の聖職者らしく、なにか研究をしていて、その資金にしているのか。

 後者の可能性が大であるとキミヒコは思っているが、証拠はない。研究資材の販路は教会が握っているが、そちらを洗っても怪しい所はなかった。


「キミヒコさん。生物はなぜ老いるのか、その仕組みを知っていますか?」


 黙考するキミヒコに、唐突にそんな質問が飛ぶ。

 訝しげな顔をしていると、デルヘッジはさらに言葉を続けた。


「生物というものは、細胞という小さな粒で構成されています。植物も動物も人間も、そして魔獣もね」


 困惑するキミヒコをよそに、デルヘッジの講釈が始まる。


「細胞の中には、DNAという生命の設計図が内蔵されています。DNAの情報がRNAを介してタンパク質へと伝播し、生命活動が維持される。この一連の流れは、セントラルドグマと呼ばれています」


 デルヘッジが語る内容は、高度な理科系知識だ。DNAくらいの話はキミヒコも知っているが、高校では生物を選択しなかったので、そう詳しくはない。


「……なるほど? で、その生命の神秘が、老化とどう関係しているのですか?」


「重要なのは、DNAが折り畳まれて存在する染色体。その末端です」


 わかるようなわからないような話を遮り、キミヒコが要点を問えば、デルヘッジはそう答えた。


「染色体の末端にはテロメアと呼ばれる部位があります。この部位は細胞が分裂するたび……つまり、生命が歳をとるに従い減っていく」


「そのテロメアの減少こそが、老化という現象そのもの。と、いうことでしょうか?」


 キミヒコの言葉に、デルヘッジは首を振る。


「老化という現象の一因かもしれませんが……断定はできませんでした。テロメアの短縮は、必ずしも寿命の長さとは相関しない。ネズミのテロメアの長さはヒトの十倍はありますが、寿命は二年程度しかない」


 最後の方はため息をつくような調子で、デルヘッジが言う。

 彼の研究はどうやらうまくいっていないらしい。


「老化という現象の解明を、司教はテロメアの短縮という点からアプローチしたようですが……。なかなか、うまくはいかないようですね」


「アプローチした、などというほど、上等なことはできていません。私の……いえ、教会のやる研究などはしょせん、真なる世界での探究の後追い……模倣に過ぎない」


「そう、卑下することもないと思いますが。教会の方々、特に高い地位の方は皆、熱心な研究者であるというのは知っています。……老化についての研究ということは、司教の研究テーマは不老不死ですか?」


 キミヒコが問う。


 これまでの話しぶりから、老化現象の解明を目的とした研究をデルヘッジがやっているのはわかる。であれば、その先の目標は不老不死なのかとキミヒコは勘繰った。割とありがちな、夢みたいな話である。


 俗っぽい目標ではあるが、わかりやすい。

 信者から巻き上げた金を突っ込んで、不老不死の研究。いかにも悪役という感じの、想像しやすい絵面ではある。


「いえ、違います。老化についての探究は副次的なものです」


「ほう……。では、司教の目指すものは? 差し支えなければ、教えていただきたいものです」


「目指すもの……ですか。そう、大層な目的はありません」


 そこでいったん、デルヘッジは言葉を切った。


 目を閉じ深く息を吸って、それきり沈黙する老人を、キミヒコはじっと見つめる。

 話の続きを促す視線に反応したのかは定かではないが、しばらくしてからデルヘッジはため息をひとつついてから口を開いた。


「私はただ……私が終わるとき、終末の日に、見ていたいのです」


「……なにを?」


「天使様を」


 短く告げるデルヘッジの目に、狂気の色が滲んでいるのが、キミヒコにはわかった。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  司教怖い。 [一言]  NI○E社の由来になってる女神様ですね。
[一言] 言語教会が謎の組織過ぎる… リシテア市で起こっている出来事も結局言語教会の掌の上、なのかなぁ。
[一言] 何が起こるか分からないけど嫌な予感しかしない不穏な気配にワクワクします
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