#36 遠い日の歌
昼下がり、その酒場は閑散としていた。
こんな昼間から酒を飲む人間がそれほどいるはずもなく、客はカウンター席に座る二人の女性だけ。青い髪の若い女と、ブロンドヘアの少女の二人組だった。
ちょっと遅めの昼食でもとっていたのだろう。カウンターテーブルには空になった皿と、水が注がれたグラスだけ。アルコールの類は頼んでいないようだ。
そんな酒場の入り口の扉が開かれる。
入店してきたのは、キミヒコとホワイトだ。
キミヒコは先客二人を一瞥すると、それきり視線を外してテーブル席に向かう。静かな店内に、コツコツという足音が響いた。
悠然と歩く、キミヒコとホワイトの間を、風が通り抜ける。
風のした方へと視線を向ければ、窓から秋風が吹き込みカーテンを揺らしているのが目に映った。今日は爽やかな秋晴れで、肌を撫でる空気が心地よい。
「この席でいいんですか?」
席に着くなり、人形がそんなことを言う。
どういう意味かと一瞬悩んで、すぐに理解した。
キミヒコが選んだテーブルは、ホワイトと二人で使うには大きい。この人形と来るときは、二人掛けのテーブルかカウンターに寄り添うようにして座るのが常だった。
こうしたテーブルに座るのは、気の合う友人二人と来るときだ。だが、その二人は、もういない。
「……いいんだよ。閑古鳥が鳴いてるんだから、広々と使わせてもらうとしよう」
そう言って、軽食を頼もうと手を挙げて店の人間を呼ぶ。
「ワインをグラスで二つ。赤ね。銘柄はお任せで。ああ、それから、なにか軽く食べられるものを――」
店員と注文のための会話をしながら、キミヒコはそれとなく、視線を先客二人に向けた。
青髪の女性は、見るからに普通の状態ではない。遠目でもわかるくらいに、ガタガタと体を震わせていた。そうして、隣に座るブロンドヘアの少女に何事か呟いている。
ここからでは何を話しているかは聞こえないが、見当はつく。早く店を出ようと、そう言っているのだろう。
「うちは儲かるからいいけど、こんな時間からアルコールかい? お兄さん、仕事は?」
「最近、でかい仕事を片付けてね。しがらみとかそういうのから解放されて、自由を謳歌してるのさ。もう当分、仕事はしたくないね」
お節介を焼く店員に、わざわざ大きい声でキミヒコはそう返した。
カウンター席に座っている女性客らの耳にも入っただろう。キミヒコの仕事は終わって、もうしがらみはないと。そう伝わったはずだ。
注文を終えてから、しばらくして。キミヒコたちに害意がないとわかったからかなのか定かではないが、彼女たちは席を立った。
彼女たちの去り際、ブロンドヘアの少女の方と目が合う。こちらを見据えるブルーグリーンの瞳が、揺れている。その瞳の奥にどんな感情が潜んでいるのか、キミヒコにはわからなかった。
キミヒコが特に反応を見せずにいると、彼女は静かに一礼をしてから、店を出ていった。
その背に縋り付くようにして、青髪の女性も慌てたように続いていく。
メリー……あいつ、無事だったか。それに、騎士アンビエントも……。だがあの騎士、いくらなんでもビビりすぎだろ。あれじゃどっちが護衛か、わかったもんじゃないな。
内心でそう笑いながら、キミヒコは彼女らを見送った。
「……始末しなくて、よろしかったので?」
「いや、なんでだよ。もうとっくに仕事は終わったんだっつーの。余計なことは、やらなくていいんだ」
「仕事は終わり、ですか。じゃあまた、あちこち放浪する生活の再開ですか」
ホワイトはそう言うが、話はそう簡単ではない。
ため息をつきたくなるのを堪えて、キミヒコは状況を説明しようと口を開く。
「……いや、そこは色々、考えないとな」
「なぜです?」
「騎士を四人も殺っちまったんだぞ。しかも、そのうち一人はアマルテア最強の騎士オルレアだ。今までみたいに、自由に放浪できるかどうか……」
騎士とは、国家武力の顔のような存在である。シュバーデン帝国は例外として、アマルテアに存在する国ではだいたいそうなっている。抱える騎士の数が、国力のバロメーターになっていたりもする。
そんな騎士を、ホワイトは四人も殺してしまった。
ホワイト単騎では、正規の軍隊など相手にできない。キミヒコはそう思っているが、他の人間はどう考えるかわからない。
この人形が一軍に匹敵するなどと思われれば、ヒステリックな反応をされる恐れもある。
「なら、帝国に定住すればよかったのでは? 当初はそういう予定でした」
その言葉はもっともで、その予定だったからこそ、キミヒコはホワイトを遠慮なく暴れさせた。
だが、その予定どおりには、もうならない。キミヒコ自身がそう決めていた。
「それはもう考えるな。当初の目標三つのうちの二つ、この左目と金は手に入れた。後ついでに、シュバーデン帝国にコネもできた。今はそれで良しとしよう」
声をひそめながら、キミヒコが言う。
良くも悪くも、今回の仕事で人形遣いの名前は売れた。何事もなく今まで通り、とはいかない。国家やらギルドやら、あらゆる組織がキミヒコたちを放ってはおかないだろう。
ま……言語教会の伝手を使うなり、金を使って身を隠しながら移動するなりで、どうにかするか。金の心配はもういらないし、な。
今後の展望について考えているキミヒコを、ホワイトがじっと見つめていた。見つめるだけでなく、糸が蠢き、キミヒコに絡みついている。
なにか、言いたいことがあるらしい。
「どうした?」
「貴方、あの話はよかったのですか?」
「……どの話だよ?」
あの話、と言われてもどの話のことなのかさっぱりわからない。
怪訝な顔で、話の続きを促す。
「結婚、しないんですか?」
続く人形の言葉に、キミヒコは唖然とした。
どうやら、あの話とは、前にウォーターマンがキミヒコに婿入りを勧めた件についてらしい。
ホワイトからそんなことを聞かれたのが予想外すぎて、開いた口が塞がらない。
「騎士オルレアは、赤子を望んでいました」
二の句を継げないでいる主人に向けて、人形はさらに言葉を重ねる。
いきなり、なに言ってんのこいつ。赤子だと? 結婚して、所帯を持って、それで……。オルレアはそれを望んでいた? だが、俺は……。
ホワイトの問いを、頭の中で反芻する。考えれば考えるほど、恐怖とも嫌悪ともつかないような感情の濁りが、心の底に沈殿していく。
「俺は……俺は、子供なんて欲しくない。俺に父親なんて、できない……」
絞り出すように、そう言う。
それだけ言うのが、キミヒコには精一杯だった。
「良かった。……ナラ、ワタシノカチデスネ」
「……は?」
ホワイトの言葉に、キミヒコはまたしても絶句した。
人形の言葉の後半部分。そこだけが何故か、いつもと異なるような声色に聞こえた。
「勝っただと……? 騎士オルレアにか? あいつはもう、とっくに死んだ。お前に負けて死んだんだぞ」
動揺も露わに、キミヒコが言う。
どうも、ホワイトの様子がおかしい。
結婚だの赤子だの、そんな内容の会話もおかしいのだが、この人形が明確に他人を意識して発言をしたことにも違和感がある。
騎士オルレアを名指しにして、彼女との勝敗についてこだわるなど、この人形の普段の様子からは考えられることではない。
「あの女は捨てられましたが、私はそうではない。そういうことです」
「……なんだそれ。ドロドロした女みたいなことを言うんだな」
ホワイトの言うところの、勝ち負けの意味。
どうやらそれは、戦闘の末の結果のような単純なものではないらしい。
「おかしいですか?」
「おかしいさ。お前は人形だぞ」
「確かに私は人形です。しかし、私のパーソナリティを表現するには、その言葉は適切と言えませんね」
なら、お前はなんだ?
そう問いかけようとして、キミヒコは躊躇した。
いつになく饒舌で、喜色に満ちた雰囲気をまとうこの人形に、気圧されていた。
「お兄さん、待たせたね。ご注文の品だよ」
ホワイトに対して、どんな反応をしてやればいいかわからなくなっているキミヒコに、そんな声がかかる。
いつの間にか、この酒場の店員がテーブルの脇に立っていた。そのまま、客の反応も見ずに、配膳を進めていく。
これ幸いとばかりに、キミヒコはホワイトから視線を外した。
「銘柄は任せると言ったが、ずいぶん高そうだな、それ……」
店員がグラスに注ぐワインのボトルを見て、キミヒコはそう言った。
ボトルに書かれた銘柄は、キミヒコも知っている有名なものだ。
「お代の心配なら大丈夫。このワインは、さっきカウンターに座っていた娘さんからだよ。銘柄は念を押して指定されてね。……あの娘さん、知り合いかい?」
「いや、全然。……ま、イケメンですから。一目惚れというやつかな」
そんなふうにすっとぼけてみせるキミヒコに、店員は呆れた顔をする。
「その男前も、昼間から飲んだくれれば台無しだよ。ほどほどにしておくんだね」
それだけ言って、店員は店の奥へと引っ込んでいった。
それを見送ってから、キミヒコはグラスを手に取り、ホワイトの方へと向ける。人形もその手にグラスを持ち、キミヒコのものと軽く打ち合わせ、乾杯をした。
カチンという音が、静かな店内に響く。
ホワイトは先程までの怪しげな雰囲気は鳴りを潜め、いつもどおりの様子に戻っている。それを横目で確認しながら、キミヒコはグラスのワインを口に含んだ。
熟成されたワインの香りが口内に広がり、鼻の方まで抜けていくのがわかる。
「……アルスターワイン、か。メリーのやつ、なかなか気取った真似をしてくれる……」
ほうというため息と共に、そんな言葉が口から漏れた。
かつて、故郷のワインを贈ってくれると言った友人の顔が、キミヒコの脳裏に浮かぶ。
「祝杯として、満足いきませんか?」
過去を懐かしむようにして、ワインを味わうキミヒコに、ホワイトがそう言った。
「……このワインには満足してる。満点だよ。あいつが……ラミーのやつが絶品なんだと言うだけあるさ」
「ふむ。では、今回の仕事も、満足されましたか?」
「そうだな……今回は、まあ、おおよそうまくいった。金は得たし、視力も取り戻した。だが……」
そこでいったん言葉を切り、キミヒコは視線を落とした。
手元のグラスの中で、赤いワインが揺れている。
「俺のことではうまくいった。だが、それだけじゃあ満たされないことも、あるんだな……」
ラミーは死んだ。もう彼と、酒を飲み交わすことも、会話をすることも永劫ない。
ミルヒとも、もうあれきりだ。彼女はこれからも各地の戦場を渡り歩き、そのうちに死ぬかもしれない。
「満たされませんか?」
「いや……俺には結局、お前がいる。それだけでいい。十分すぎる。これ以上は、高望みというものだろうさ」
それだけ言って、話は終わりとばかりに、キミヒコは食事に入った。その様子を人形は黙って見つめる。
静かな昼食を楽しむキミヒコの耳に、秋風に揺れるカーテンの音が聞こえる。穏やかな風が、グラスのワインを波立たせた。
「なあ……また、あれを歌ってくれ……」
食事を終え、一息ついたキミヒコがホワイトにそう言った。
食休みに、一曲歌ってもらおうと思いついたのだ。この人形の歌唱は大したもので、故郷の曲を教えて歌わせることが、キミヒコの密かな楽しみだった。
「……遠い日の歌、ですか?」
キミヒコが具体的な曲のリクエストをする前に、ホワイトがそれを当ててみせる。
あまりにも察しが良すぎるこの人形に、キミヒコは目を丸くした。今日はこの人形には驚かされてばかりだ。
「驚いた。お前、今日はずいぶん察しがいいな。……どうしてわかった?」
「……あの時、騎士オルレアが私と共に見た記憶が、こうでした。未来は、貴方と私……我らの手の内にある。それを、再確認しました」
理由を聞いても、ホワイトの回答は要領を得ないものだった。
だが、それ以上深く聞こうとは思わない。キミヒコは「そうか」とだけ言って、それでこの問いかけを終えた。
「なぜこの曲なのです?」
「卒業式って感じでさ、嫌なことから解放されるような、そんな気がする曲なんだよ。ま、実際は解放なんぞされずに、次のステップに移るだけなんだけどさ。次へ次へと移り続けて、行き着く先は……」
いつか、何度か経験した卒業式。あの時、嫌々歌わされた合唱曲がこれだった。他の学校ではどうだかわからないが、キミヒコの中で卒業式といえばこの曲だ。
当時は好きともなんとも思わなかったこの曲が、キミヒコはいつの間にか好きになっていた。
昼下がりのこの酒場のノスタルジックな空気が、余計にそうさせたのかもしれない。
今、キミヒコはこの曲が聴きたくなっていた。
「……わかりました。歌います」
それだけ言って、ホワイトは歌い始めた。
人形のアカペラが、酒場の中に響き渡る。
いつの間にか、酒場の店員たちがギャラリーとなってその歌を聴いていた。夜の忙しい時間のための仕込みを放り出して、人形の歌を聴くために表に出てきたらしい。その中には先程の店員もいて、その顔にはひどく感心したような表情が浮かんでいる。
それだけ、人を惹きつけるような、清廉な歌唱だった。
キミヒコはそれに聴き入りながら、ゆったりと椅子に深く腰掛け、瞼を閉じる。耳に入る人形の歌声は、どこか寂しげに聴こえる。
だがそれは、今のキミヒコには心地よく感じられた。




