#32 ホワイト・ザ・キラードール
あの魔力の糸は、人形の剥き出しの心だとオルレアは思う。
以前、アンビエントが教えてくれたように、あの糸は人形の意識を介在している。それらが折り重なるようにして、心や精神といったものを形成しているのだろう。
これまで幾度も相対して、あの糸に何度も触れたことで、オルレアにはそれが実感できた。今こうして、殺し合いをしているさなかでも。
だが、そういう性質の一端を理解しても、この怪物の全貌は掴めない。
「お前は何者なんだ!? この世界でいったい何を、どうしようというんだ!? 人形遣いは、お前の……!」
人形の剣戟を打ち払いながら、オルレアが問いかけるが答えが返ってくるわけもない。
すでに王国軍の計画、アーティファクト『星の涙』による帝国軍の撃滅作戦は儚く散った。アーティファクトの燭台のうち、二つは完全に破壊され、起動はもはや叶わない。
途中まで呼び出された隕石もすでに粉々になってしまったらしく、地表に到達する前に燃え尽きる、ただの流れ星の群れと化してしまった。
もはやこの状況で、戦う意味など残されてはいない。
事実、王城内での戦闘は終結しつつあった。
その身を餌に地下礼拝堂から人形を釣り出してから、王城内を縦横無尽に駆け回りながら戦うオルレアだったが、戦闘行動に及んでいる兵はもう見つけられなかった。
敵も味方も、もはや戦闘の意志は喪失しつつあり、オルレアや人形に対して攻撃を仕掛けようなどという者は、すでにいない。
だというのに、この人形の執拗さは尋常ではない。
今は王城三階にある画廊で、鍔迫り合いの真っ最中だ。オルレアに向けられた絶対の殺意に、思わず気圧されそうになる。
――どうせ、お前には死んでもらうからさ。
いつかの人形遣いの言葉が、オルレアの脳裏によぎる。
この執念は人形遣いの意思なのか、あるいはこの人形自身の殺意によるものか。考えてみたところで、どうしようもない。オルレアにできるのは、この人形とのケリをつけることだけだ。
アンビエント卿の言葉どおりなら、この人形を完全に倒すことはできない。ダメージを与えて撤退させるか、行動不能にするかしなければ……。
友人からの忠告をオルレアは思い返す。
この人形の魔核晶は異次元に存在して、こちらから攻撃することはできない。損傷を負わせたところで自己修復してしまう。はっきり言えば、無敵の存在だ。それゆえ、アンビエントは戦ってはいけないと言っていたのだが、この場に至ってそれはもう避けようのないことだ。
すでに王国の敗北は決定的で、戦後のオルレアの身を保障できるものは何もない。だがそれでも、タダでこの命をくれてやる気にはならなかった。
生きてさえいれば、またメリエスに会えるかもしれない。あれが今生の別れでは、あまりに寂しすぎる。
オルレアがそんな思いでいると、鍔迫り合いの最中の人形の両刃剣にヒビが走った。
力任せに無茶苦茶な取り扱いをしてきたからだろう。騎士武装とはいえ、規格外の人形の魔力と膂力に晒され、限界が近いらしかった。
このまま刀身を破壊してやろうと、オルレアが二つの剣に魔力を込める。大剣を上、曲剣を下にして、刀身を交差するようにして敵の刃を受け止めていたのだが、この状態のままテコの原理を利用してへし折る腹づもりだ。
オルレアのその動きに、人形は即座に対応。鍔迫り合い中の刀身を引くようにして両刃剣を回転させ、今度は反対側の刀身で突きを放つ。
その攻撃を大剣で打ち払いながら、オルレアはバックステップで後退する。
それを見て、人形はすぐさま追撃の姿勢に移行した。両刃剣を頭上に掲げ、回転させながら突撃をかけてくる。刃の回転に合わせて、画廊に飾られている彫刻や絵画が無惨に切り裂かれていく。それに合わせて、糸がうねるようにして波打つ。
糸だ。奴の糸を切断すれば、隙は作れる。その隙を突いて、まずは得物を奪う……!
刃の回転とともに揺れる糸を見て、オルレアはそう決めた。
人形の糸は、二種類ある。索敵用の細い触手のような糸と、身体を駆動させるための太い糸。太い糸の方は、伸縮することで筋肉のように働き、人形の体を動かしている。
そしてこの戦いにおいて猛威を振るっているクラインの両刃剣は、人形の質量に対して重すぎる武器だ。人形自身の体のみならず、その刀身や周囲の地面や壁に駆動用の糸を張り巡らせることで、人形は剣を振るっている。
無論、そこら辺に張り巡らせている糸を一本や二本切断したくらいで、人形の戦闘行動に支障はない。数本の糸がなくなったところで、別の糸がバランスをとる。
切断すべきは、他で代替の利かない急所とも呼べる糸だ。アキレス腱が切れれば歩行できなくなるように、人形の剣技において急所となる糸を切る。
狙う糸を、オルレアは見定める。
両刃剣を握る人形の手に、二つの刀身から糸が集まっている。その手首から背を回るようにして、肩甲と首のあたりに糸が伸びているのがオルレアにはわかった。
重要な急所を、背後に隠している……か? やってみる価値はある……!
狙うは人形の背後。右手首から背面の首下に伸びている糸だ。
あの人形と戦いながら、背後を取るのは至難の業。それゆえにオルレアは一計を案じた。
まずは向かってくる人形の足元に向けて、左手に持つ曲剣を投擲。だがそれは人形には命中しない。易々と回避され、曲剣はそのまま床に突き刺さった。
矢継ぎ早に、オルレアは次の一手を打つ。大剣を両手持ちに切り替え、下段から切り上げるようにして魔力の光波を放った。
が、それも命中することはない。地面スレスレを飛んでいく光波を、人形は跳躍して回避。そうしてそのまま、オルレアに向かって飛び掛かってくる。
回転と跳躍により威力の乗った斬撃を、オルレアは大剣で受け止めた。想像以上に重たい一撃に腕が痺れ、オルレアの口から低い声が漏れる。
その様子から、人形は今が好機と思ったらしい。着地と同時に、両刃剣をくるりと回転させ、反対側の刀身を突き出してくる。
先の一撃で、オルレアの腕は痺れ、即座に受けることは叶わない。だが人形の攻撃もまた、オルレアに届くことはなかった。
攻撃を繰り出す間際に、人形の背面に魔力の斬撃が直撃したからだ。
これは、先程オルレアが放ったものが、地面に突き立った曲剣により反射されたものだ。自身の攻撃に共鳴、反射するように、オルレアは自身の曲剣に術式を仕込んでいた。
この攻撃は人形の体勢を崩すにとどまらず、両刃剣と人形の背面をつなぐ糸をも切断。その結果、重心のコントロールが崩れたのだろう。人形は両刃剣の重みに引きずられ、明後日の方向へと転がっていく。
そして、オルレアは人形本体ではなく、その武器である両刃剣に狙いを定めた。
クライン卿、すまない……!
心中で戦友に詫びると同時、オルレアの大剣が両刃剣に向けて振るわれた。人形は得物を諦めたらしい。柄から手を離して、オルレアの攻撃から距離を取る。
床に放置された両刃剣の柄の中心に、オルレアの剣が叩きつけられた。
騎士クラインの両刃剣は元々、ガタがきていたのだろう。オルレアの攻撃により、魔核晶が内蔵されていた柄の中心はあっさり砕けた。騎士武装の心臓である魔核晶が失われたことにより、両刃剣はボロボロと崩壊していく。
ようやく人形の武器を奪うことができたオルレアだったが、息をつく暇はなかった。
得物を破壊された人形も、やられっぱなしではない。白手袋で覆われた両手の指先を口で咬み、そのまま器用に手袋を外す。球体関節が特徴的な人形の手が露わになり、人形はその両手の指先をオルレアに向けた。
両手の十本の指先に糸が巻き付けられていき、魔力が集中されるのがオルレアに見える。
次の瞬間、人形の指先、第一関節から先が弾丸のように射出された。十発の弾丸となった指関節が、オルレアの下へと殺到する。
その軌道を瞬時に見切り、回避可能なものは身をよじることで、回避不可能なものは剣の腹を盾にすることで、オルレアは攻撃を凌いだ。
人形の攻撃はオルレアの体には命中しなかったものの、刀身で受けた人形の指が剣の腹に突き刺さる。
刀身にめり込んだ指が、ミシリと嫌な音を立てている。
だが、その音に気をやる暇はない。大剣に突き立てられたもの以外の指先を、糸を巻き取るようにして回収しつつ、人形が駆けてくる。
オルレアに接近し、手刀の構えを見せると同時、反対側の腕の肘から先が分離した。分離したパーツで、死角から攻撃する気だろう。今までもさんざんやってきた、この人形の十八番の戦法だ。
またそのやり口か。いい加減にこちらも目が慣れた。剣一本でも凌いでみせる……!
差し当たりは人形の攻撃を凌ぎつつ、隙を見て曲剣を回収する。そんな考えで、青眼の構えで人形を待ち受ける。
だが、人形は剣の間合いの外で停止。仕掛けてこない。
本体の攻撃体勢はフェイントで、先程に分離させたパーツによる攻撃が本命なのか。あるいは、分離させたパーツの攻撃を受けさせてから手刀を叩き込むつもりか。
即座に人形の次の一手を推測し、両方のパターンに対処できるようにしていると、人形の腕パーツが横合いから飛来した。
眼前の人形本体にも対応できるよう、オルレアは最低限の動きで剣を振るい、飛来した攻撃を弾き飛ばそうとする。この人形相手に何度も行なった動作で、今回も問題はないはずだった。
――!? 手応えが妙だ……!?
違和感の先へ視線を走らせると、飛来した人形の手が弾き飛ばされることはなく、そのまま刀身を掴んでいた。剣の腹にめり込んだ指先を起点にして取り付いたらしい。
人形の握力は凄まじく、掴まれた刀身が軋み、ミシミシと音を立てている。
手を引き剥がそうにも、そんな隙もない。得物がそんな状態のオルレアに対して、人形は容赦なく攻撃を繰り出してくる。
片腕の状態ながらも、手刀に貫手、それに足技を連続で放つ。剣一本でそれらをいなすオルレアだったが、とうとう限界がきた。
オルレアの大剣が、甲高い音を響かせながら半ばからへし折れた。それと同時、人形の手が本体へカチャリとはまり込む。
意趣返しのつもりか……? 剣の魔核晶は無事だが、これではこの人形の相手はできない……。
舌打ちしながら、オルレアは冷静に状況を見定める。
半ばまで折られたこの剣では、とても戦えない。武器を奪ったとはいえ、この人形は徒手空拳でも全身が凶器のようなものだ。このままやりあえば、確実に殺される。
自然、オルレアの視線はもう一つの得物、投擲した曲剣へと向けられた。なんとかして、あれを回収しなければ命はない。
一瞬でいい。どうにか一瞬の隙を作って、あれを回収しなければ……!
そうは思うが、容易なことではない。人形は武器を喪失こそしたものの、その攻めを緩めることはなかった。
どうにか人形の攻撃をいなし続けるうちに、その時はきた。
人形の手刀を折れた剣で受け止めた際のことだ。その一撃は重く、弾き返す動作が一瞬遅れる。
その一瞬の隙に、オルレアの左手首が人形に掴まれていた。
しまったと思うよりも先に、反射的にオルレアは動いていた。掴まれた腕の肘から先を、剣で即座に切断。掴んだ腕を引き寄せようとしていた人形は、体勢を崩した。それと同時に人形に向けて前蹴りを放つ。
「片腕はくれてやる! だから、もう寝ていろ!!」
オルレアの蹴りは人形の腹にクリーンヒットし、その身体が地面に転がる。
人形の状態を確認することなく、オルレアは駆けた。折れた剣を放り捨て、脇目も振らず、床に突き立てられている自身の曲剣へ向かっていく。
床に転がっていた人形は、立ち上がると同時、その手にあったオルレアの手首を握りつぶす。肉と骨が砕け、鮮血が滴るそれを放り投げ、オルレアの方へと向き直った。
背を向けて駆けるオルレアを追撃するため、人形がその足に力を込める。
しかし、人形が跳躍する前に、複数の人間がこの画廊に駆け込んでくる音がした。
「オルレア卿をお助けしろ!!」
ちょうど曲剣を床から引き抜いたところで、オルレアの背後からそんな声が聞こえる。
振り向けば、血潮が舞っていた。
近衛兵たちが、人形に無謀な攻撃を仕掛けて返り討ちにあっている。
「閣下、腕の手当てを……!」
唐突に始まった目の前の惨劇に、オルレアが戸惑っていると、彼女の従騎士二人が駆け寄ってきた。そうして、切断されたオルレアの左腕の、応急手当てを行なう。
「無謀なことはやめさせろ! あの人形のターゲットは私だけだ。お前たちは降伏するん――」
「レオーネ様が自決されました」
オルレアの言葉を遮ったのは、近衛兵の一人だ。
手当中のオルレアたちを庇うようにして、二人の近衛兵が寄ってきていた。
「守るべき主君を失った近衛に、なんの価値がありましょう?」
「せめて一矢報いるため、我らの命、卿の盾としてお使いください」
近衛兵の二人がそう言う間に、人形に立ち向かっていった者の最後の一人が倒れた。
攻撃を仕掛けてきた近衛兵たちを殺し尽くし、血と臓物に塗れた人形が、オルレアたちの方へ体を向ける。白かった衣服と髪は真っ赤に染まり、鮮血を滴らせている。
彼らの犠牲は無駄ではなかった。従騎士の手早い応急処置により、オルレアの腕の止血は完了した。
オルレアは立ち上がり、片腕を失ったことによる体幹バランスの歪みに体を慣らす。利き腕に握られた曲剣に魔力を流して、その感触を確かめた。
まだ戦える。だが、もう長期戦は不可能。それがオルレアの判断だった。
ならば、次の一撃で勝負を決める。決めなければならない。
「我々で、奴の動きを止めます」
オルレアの意思を汲んだのか、近衛兵の一人がそう言った。
「不要だ。命を粗末にするな。もう……私だけでいい。私だけでたくさんだ。だから、お前たちは――」
「後のこと、お頼み申します。それでは、おさらばです……!」
「おい! 待てッ!!」
オルレアの制止に耳を貸さず、二人の近衛兵が人形に向かっていく。
彼らは完全に死ぬ気だった。手にもつ剣すら放り捨て、人形へ飛び掛かっていく。
そんな彼らに対して、人形は一切の容赦がない。無造作に振るわれた両手の手刀により、近衛兵ふたりは腰のあたりから上下に寸断された。
人形はそれきり彼らには目もくれず、そのままオルレアの下へ跳ぼうと、その足に魔力を込める。
だがその足に絡みつくものがあった。上半身だけになった近衛兵の一人が、人形の足に、その腕を絡めている。
それを受け、人形はもう片方の足を近衛兵の頭へと乗せ、その頭蓋を踏み潰した。
その動作はほんの一瞬のこと。ほんの一瞬だけ、人形の意識は、命を捨てて人形の足止めをしようと試みた、近衛兵へと向けられていた。
「命を粗末にするなと、言ったろうがッ!!」
その目尻に涙を浮かべ、オルレアが叫ぶ。
人形が気を取られた一瞬の合間に、オルレアはその剣の間合いに、人形を捉えていた。その手に持った曲剣には、渾身の魔力が込められている。
人形は即座に迎撃の体勢をとろうとする。貫手の構えをとるが、それよりもオルレアの剣の方が早い。
下から上に向けて振るわれた、縦の一閃。人形とすれ違うようにして放たれたその斬撃には、確かな手応えがあった。
だが、その威力を確かめる前に、オルレアは膝をつく。その口からは鮮血がこぼれた。
人形の貫手が、オルレアの脇腹を抉り取っていた。傷は臓腑まで達しているのだろう。口から流れ出る血が止まらない。
やってくれる……。防御より、カウンターを優先したか。だが、私の方も、手応えは十二分……。
血がとめどなく流れる口元を押さえながら、オルレアは振り返る。
果たしてそこには、人形がそのままの位置で立っていた。
その姿を認めて、オルレアは立ちあがろうとするも、それは叶わない。腕を失い、脇腹を抉られ、それらによる失血は、彼女の意識を朦朧とさせた。
無防備を晒すオルレアだが、そんな彼女に対して人形がとどめを刺しにくることはない。そんな状態ではないのだろう。
人形の顔は、オルレアの一閃により真っ二つに割られていた。右半分はどこかに飛ばされたらしく、首から上にあるのは左半分の顔面だけ。
顔の断面から、糸が噴き出し、その塊がこぼれ落ちた。
「キャアアアァァアアアアッ!!!」
甲高い絶叫。女の悲鳴が、響き渡る。
それは、糸がまるで血のように噴き出る、人形の顔の切断面から、聞こえるようだった。
斬り飛ばされた顔半分を探して、人形がフラフラと歩き回る。手足を、首を、そして顔に残された左眼球をガクガクと震わせながら徘徊する。顔の断面からは、糸の塊が次々とこぼれ落ちている。それらは床に落ちると、塊がほどけ、糸は死にかけの芋虫やミミズのようにのたうち回った。
人形が探している顔半分は、この画廊のバルコニーまで飛ばされていた。
人形が震える足でそこまで辿り着くと同時、従騎士レナードがその場に駆け寄る。
「とっとと消えろよ、この悪魔が!!」
そう言って、レナードが人形を突き飛ばす。人形はさしたる抵抗もせずに、バルコニーの下、外の地面へと落下していった。
◇
とりあえず人形を退け、危機は脱した。
だが、レナードの顔は険しい。主である、騎士オルレアの容態は芳しくなかった。
「手を……出すな、と、言ったはず……」
「申し訳ありません、閣下……」
相方の従騎士、レイの手当てを受けているオルレアの下に行くなり、レナードはそんなことを言われる。
あの人形を、バルコニーから突き落としたことについてらしい。
従騎士の二人はオルレアから、あの人形には絶対に手出しをするなと厳命されていた。それゆえ、主が苦戦しようが近衛兵たちが殺されようが傍観に徹していたのだが、最後の最後でレナードは手を出した。
とはいえ、攻撃しようとは考えなかった。顔面を割られ、大きなダメージを負っているように見える人形だったが、レナードごときの攻撃では、それ以上どうこうできるようには思えない。
そうした考えで、あの人形を遠ざけるために、レナードはあのようにしたのだった。
オルレアも本気で怒っているわけではない。その声に、いつも従騎士たちを叱責する際の重圧感は感じられない。
だがそれは逆に、レナードの心を不安にさせた。
「奴は……?」
「バルコニーから落下しました。そのまま、追ってくる様子はありません」
「もう、捨て置け……。こちらから、関わるな。あれは……もう、誰にも、どうにもできない……」
オルレアのその口から、血泡とともに、途切れ途切れに言葉が紡がれる。
そんな彼女にレイが必死の手当てを続けているが、容態は思わしくないようだ。
「……どうだ?」
レナードの短い問いに、レイは無言で首を振った。
もう、彼らの仕える騎士は、助からない。
「姫様に、メリーに……もう一度……」
オルレアも、自らのことは察しているのだろう。うわごとのように、そんなことを呟く。
「……レナード。確かこの画廊に、メリエス姫の肖像画があったな」
「なるほど、わかった。ここは任せるぞ。すぐに戻る」
皆まで言われずとも、レイの言わんとすることがレナードにはわかった。主人の最後の望みを多少なりとも叶えるべく、この場をレイに預けて駆け出す。
そうしてこの場を離れてから、五分とかからずレナードは戻ってきた。
息を切らして走ってきた彼の手には一つの絵画が抱えられていた。
「間に合ったか!?」
息も絶え絶え、そう問いかけるレナードに、レイは黙って頷いた。
レナードが絵画をオルレアの眼前に持っていき、レイが彼女の肩を優しくゆする。
「閣下、どうぞ、ご覧ください」
レイに言われ、それまで瞼を閉じて微かな息をしていたオルレアが、薄く目を開いた。
オルレアの視線の先。レナードが持ってきた絵画には、幼き日のメリエスが描かれている。
静かにそれを見つめていたオルレアだったが、しばらくして、ふっと息を吐いて瞼を閉じる。
「よく、今まで仕えてくれた……。もう、私は、これまで、だ……」
先程よりも安らかな表情で、オルレアが呟く。
「連合王国に行け……姫様を、頼む……」
「必ずや。ですから、閣下。今はもう、お休みください」
仕える騎士の最後の命令に、レイがそう答える。
「そうだな。さすがに……疲れた。少し、休む……だから……」
「心配無用です。姫様のこと、お任せください」
レナードのその言葉に、オルレアは安堵の表情のまま、静かになった。
従騎士二人はしばらくその場で佇んでいたが、やがて意を決したように互いに頷き合う。帝国軍の手に落ちたこの王都から脱出し、最後の指令を果たさなければならない。
メリエスの絵画をすぐそばの柱に立てかけ、この場から離れるべく歩き出す。
だが、そんな二人の目に、それは映った。
「……どうする?」
「どうするって言われても……なあ? これはもう……俺たち、死んだよな」
レイの問いかけに返事をしつつ、レナードが見つめるのはこの画廊にある窓の一つだ。
月光と流れ星による光が差し込んでいる窓ガラス。そこに張り付いている、影があった。
真っ二つに割られ、切り離されたはずの顔面の右半分。それが、おぞましい糸により、顔の左半分に巻き付けられるようにしてくっついている。その接合面はややずれ、歪に張り付いた右顔面の眼球は不規則にギョロギョロと蠢いていた。
本物の悪魔がそこにいた。少なくとも、双子の従騎士にはそう見えた。
まともな状態ではなさそうだが、だからといって勝てる相手ではあり得ない。
「つかあいつ、マジ、どうやったら死ぬんだよ。なんなんだよあの化け物……」
「異次元にある魔核晶を砕けばって話だったろう。あの人形、本当に地獄から来た悪魔なのかもな……」
そんなやりとりをしている間に、人形は窓を破り、屋内に降り立つ。
「……姫様の下へは、行けそうにないか」
「閣下、お許しください。私たちは、ご信頼にお応えできそうにありません」
双子が懺悔の言葉を呟いてから少しして、この場に血潮が跳ねて、踊った。
それは、肖像画の中のメリエスを赤く汚した。




