ヘークタ
侯爵令息、国務大臣の息子ヘークタは、青い髪に緑の瞳をしていた。二つ下にケルン王子の婚約者となった妹のハーマがいた。
ヘークタは父が大嫌いだった。父は家族を家族と思わず蔑ろにしていた。そして、ヘークタの母を苦しめ死に追いやった憎むべき相手だった。
ヘークタの父には昔から慕う人がいるらしく、それを家族の前でも隠そうとしなかった。父にとって母は家を存続させるために婚姻を結んだだけの相手であり、ヘークタたちは家を存続させるための道具であった。
それでも幼き頃は平和だった。父の関心は想い人だけに向けられ、ヘークタたちのことは忘れられていたから。ヘークタは母と妹と三人でひっそりと同じ敷地内にある別宅で暮らしていた。
母は妹のハーマを父から隠すように育てていた。水色の綺麗な髪を鬘で隠し、父が別宅に来る時は体調を崩していると言って会わせなかった。
ある日突然父が別宅に来た。ヘークタがケルン王子の遊び相手に選ばれたと自慢気に。前触れもなく突然来たため、ハーマは鬘をつけずにヘークタと遊んでいた。
ハーマを見た父の顔が変わった。目を吊り上げて鬼のような形相で幼いハーマに近づいた。ヘークタはそんな父が怖くて動けなかった。母はハーマを背に隠し父から守ろうとしたが、父の力に母が敵うはずがなく母は壁に突き飛ばされてしまった。ハーマも目尻に涙を浮かべて固まっていた。怖くて動けないのだ。父はハーマの髪を引っ張り射殺さんような目で睨み付けていたが、何か思い付いたのかニタリと笑った。それは見た者を凍りつかせる笑みだった。
その日は父は何もせずに帰っていった。母は泣きじゃくるハーマを抱きしめてただ泣いていた。
ヘークタはケルン王子の遊び相手として城に通うことになった。ヘークタは城に行きたくなかった。あの日から母が怯えてハーマから離れなくなった。二人の側に居たかったが、従者が引き摺るようにヘークタを城に連れていく。城で同じ年の者たちと遊ぶのは楽しかった。母とハーマのことを唯一忘れることが出来たから。
ある日、ヘークタが城から帰ったら、ハーマの姿は消えていた。泣き叫ぶ母だけが残っていた。母はハーマを取り戻そうと本邸に父に会いに何度も行ったが門前払いされていた。
ハーマがケルン王子の婚約者として城で教育を受けていると聞き、母は倒れ寝込むようになった。そして母は瞬く間に衰弱していきヘークタに言葉を残し儚く逝ってしまった。葬儀には父は来たがハーマは来なかった。ヘークタはあれだけ母が心配していたハーマが来なかったことが許せなかった。
ハーマが王子の婚約者として、ケルンたちの遊びの場に現れるようになった。ハーマはもうヘークタが知っている可愛い妹ではなくなっていた。
ヘークタは国務大臣である父の執務室に来ていた。血を分けた家族のはずなのに話した回数は余りにも少ない。
「噂のことだが」
「はい、真実です」
疲れた顔をした父の問いに間髪を入れずに答える。
「………、そうか……」
ますます疲れた表情になった父に一礼して、ヘークタは父に背を向けた。
この失態で父は母を虐げてまで守ってきた地位と権威を失うだろう。ヘークタは仄暗く思う。これで少しは死んだ母に報いることが出来ただろうか?
「…、何処で間違えた?」
後で小さく呟かれた声に当たり前だと鼻を鳴らす。母を虐げ続けた父にそっくりの娘なのだから仕方がない、と。
「あねうえ」
扉を閉めた時に聞こえた呟きにヘークタは首を傾げる。父に姉などいなかったはずだ。それとも昔に姉と慕う者でもいたのだろうか?
ヘークタは部屋に戻ろうと少し歩いた時点で足を止めた。綺麗に磨かれた硝子に感情のない顔が映っているが、その視線は不安そうに揺れている。
『あなたは、父君に瓜二つですね』
そんな失礼なことを言ってきたのは帝国から来た留学生だ。
『ご自分の信じたいものしか信じない。血を分けた者でも簡単に見棄てた。父君にそっくりだ』
違う! 手に入らない女性への思慕を捨てられず母を蔑ろにしていた父と自分は一緒ではない。ヘークタは硝子に映る自分を睨み付けようとした。不安な表情をする必要などない。母の言葉を守れないことだけは心苦しいがそれも仕方がないことだ。そう思い込む。
『ハーマを守ってあげてね。あなただけは最後まで信じてあげて』
大切な母の言葉だが、信じられない場面を幾つも見てしまった。可愛い妹だったハーマはもういない。あれは嫉妬に狂った醜い女になってしまった。罰するのも肉親の情だ。
ヘークタは無理矢理硝子から視線を外し、足早に私室に向かった。
「父上、二十五年前に何があったのですか!」
ヘークタは父の執務室に飛び込んだ。
「何事だ、ヘークタ」
机の上に幾つもの山を作りながら、父が顔を上げた。
「父上が伯母上を王妃殿下を虐げた罪で追放した、と。実際に虐げている場面を見たわけではなく、王妃殿下がそう騒いでいるのを見て判断された、と」
父の顔色が変わり、ヘークタはそれが真実だと分かった。
「そうだ。私は姉フーラがジュリ殿下に手を出しているところは見ていない。その直後の現場を見ただけだ」
当時のことを思い出したのだろう。父が憎々しく口にする。
「…、同じだ…。ソファタの時と」
茫然と呟いたヘークタの言葉に父の眉が訝しげに上がる。
「どういうことだ?」
「私もハーマが直接ソファタに何かをしている所を見たことはないのです。ハーマの側でソファタがハーマにされたと泣いているところしか…」
父は息を吐いた。血は争えなかったのだと。傲慢な考えを持たぬように目を光らせていたのに。
「ハーマは何もしていなかった。された! とソファタが騒いでいただけで…」
「どういうことだ?」
顔色が悪いヘークタの言っている意味が父には分からない。ソファタという女性がハーマに虐げられていたのではなかったのか?
「学園に帝国の記録が出来る魔具が取り付けられていて…」
父は納得した。学園には昨年から少しずつ記憶できる魔具を取り付けるようにしている。今は試用段階だが、証拠とするためにそれを観たのだろう、と。
「…、ソファタがハーマに転ばされたように転び、騒いでいるところに私たちが駆け付けてハーマを責めていた、と」
父は息を飲んだ。それが真実ならハーマはやってもいない罪を擦り付けられたことになる。
「管理している者が二十五年前を観ているようだと。伯母上と王妃殿下に起こったことを再現しているようだ、と言ったのです!」
父は愕然とした。それが本当なら、事実だとしたら、父たちがしたことは…。
「何故、今ごろ?」
力なく父は聞く。それがその時ではなく、何故二十五年も経った今に。
「その者は平民でした。最初は申し出たそうです。けれども当時王子殿下であったジョージ陛下や父上たちの証言のほうが正しいということになり、それに悪女とされた伯母上の味方と思われて誹謗中傷をされ言えなくなった、と」
父は真っ青な顔になり頭を抱えて叫んだ。
「姉上はやっていないと言っていたんだ! 最後まで、そう最後まで私に信じて欲しい、と言っていたのに!
私は信じなかった。姉上が何を言ってもあのジュリが嘘を吐くはずがないと…。そして、姉上を見棄てた。死ぬのが分かっていたのに救いの手さえも向けなかった」
その声に嗚咽が混じっていく。
「何故姉上を信じなかったんだ。たった一人の姉だったのに…。私は何故姉上を信じなかったんだ…」
ヘークタは茫然と悔恨を叫ぶ父を見ていた。
髪を掻きむしり叫ぶ父の姿に自分の姿が重なった。ソファタの言い分だけ信じて妹のハーマを信じなかった己と。
『ご自分の信じたいものしか信じない。血を分けた者でも簡単に見棄てた。父君にそっくりだ』
ヘークタはその通りだと思った。大嫌いな父に本当に似ていたのは自分の方だと。
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