エウテス国へ
変わらない田園風景が続く道を馬車が走る。
道中色々あったが、マリスクは無事エウテス国に入国していた。あと数日で王都に着く予定だ。
「シータ、注意しなければならないことをもう一度教えてくれ」
マリスクは向かい側に座るシータに声をかけるが聞こえていないようだ。
「シータ?」
「あっ、はい。何でしょう?」
母エリタの腹心として、帝国では皇帝にまで恐れられていたシータも故郷に帰ってきて何か思うことがあるようだ。
「何を考えて?」
「失礼しました。戻ってきたと思うと感慨深く…」
シータはカーテンが開けられた窓に視線を向けている。その手は固く握られたままだ。
「あやつらを(会った時に)殴らないようにするにはどれ程の忍耐が必要かと考えていました」
その答えにマリスクは苦笑するしかない。それが相当の忍耐力を必要とするのが分かっているからだ。
「殴る機会はあると思うよ」
マリスクは手に持つ報告書の重みでそれは叶うだろうと思っている。彼らは愚か過ぎた。何故これほどまで愚かになれたのかが不思議なくらいに。
「取り敢えずシータには頼んだことを優先にしてほしい」
「最善を尽くします」
にっこり笑うシータをマリスクは頼もしく思う。シータに任せておけば大丈夫だろう。
ずっしり重い報告書。届く度にマリスクの中から躊躇いが消えていった。いや、躊躇うことが馬鹿らしくなってしまった。蛙の子は蛙というわけか。
「帝国の、いや社会の常識はエウテスでは守らなくてもいいみたいだね」
マリスクは呆れた声で呟く。それはそれでマリスクにとってはとても有難いことだ。
「一部、ほんの一部の者だけです。今も常識ある者たちがほとんどです」
シータは苦々しく答える。シータも届く情報に始終顔をしかめ母国の変貌に嘆いていた。
「まあいいけど、僕は存分に使わせてもらうから」
マリスクの口元に笑みが浮かぶ。貞節に沿った行動などこれで取る必要はない。要らないのなら遠慮なくいただく。心から欲しているから。
「マリスク様、嫌われぬようお気をつけなさいませ」
シータの生暖かい視線を受けながら、マリスクはこれからのことに笑みを深めた。
マリスクはエウテス国の王城に着いていた。
歓迎されてないのは分かっていたが、国としての品位を疑いたくなる。出迎える者たちが誰一人いない。他国の賓客が来たというのに。
王都に入った時点で先触れは出してある。王都の宿舎で一泊し翌日午後一に城に向かう、と。それは儀礼に則ったものであり、相手に出迎えの準備時間を与えるためでもある。準備が間に合いそうになければ宿舎の方に城から連絡が来ることになっている。
城から『諾』の書状が宿舎に届いていたから、予定通りマリスクたちは動いていた。城門を潜った時点で門番が来訪者を報せる鐘を鳴らしていた。馬車が城の玄関に着いた時、真っ青の顔をした衛兵たちがいただけだった。
「どうしたらいいんだろうね」
マリスクは窓から城から出てきた者たちがオロオロとしているのを見ながらそう呟いた。彼らは誰かを待っているようだった。恐らくマリスクの出迎えを任された責任者を。誰だか知らないが、馬車が扉の前に着いてから随分経ってしまった。臣下なら首が、いや一族郎党処分されるレベルだ。
シータからは冷たい冷気が漂ってきている。マリスクは凍り付く前に宿舎に戻り出直すべきか悩んでいた。
閉ざされていた扉が大きく開き、一人の金髪の男性が足早に出てきた。この国の王子ケルンだ。その後ろから水色の髪の女性、ケルンの婚約者ハーマが出てくる。ハーマの方は息が切れている。ケルンに置いていかれないよう必死に付いてきたのだろう。
マリスクはハーマを食い入るように見つめた。魔具で観たよりも美しい。似合わない地味なドレスを着ていてもその美しさを損なうことはない。マリスクは気力を振り絞ってハーマから視線を逸らした。とりあえずこの早まる動悸を落ち着かせなければいけない。会えたことに舞い上がって挨拶をトチらないようにしなければ。みっともない姿を彼女に見せられない。マリスクは必死に深呼吸を繰り返していた。
馬車の外で少し揉めた声が聞こえたが、マリスクはあの王妃の国だと諦めた。素直に謝罪の言葉だけ言えばよいのに。
「マリスク様」
先に降りたシータか呼ぶ。
マリスクは馬車を降りると笑みを浮かべてゆっくりと口を開いた。
「これほど盛大に迎えていただき、ご配慮にとても感謝しております」
苦虫を噛み潰したような顔をしたケルンと真っ青な顔色をしたハーマが目に入る。
貴女にそんな顔をさせたくはなかった。
マリスクは心の中でそっと詫びた。
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