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蒼天の詩~いつか空の下~  作者: 叶 響希
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 閃光が、耳をつんざくような悲鳴と共に落下したのは、礼拝堂の屋根だった。

 尖った屋根の先端に、まるで吸い寄せられるように。

 イゼルは、教会へと続く道の途中で、落雷の軌跡を見た。

 無我夢中で転ぶようにして教会に辿りつき、木戸を乱暴に開け放ったその目の前にあったのは、半壊してしまった礼拝堂と、雨の中で燻っている炎の姿だった。

「……こんな……ことって」

 急に、全身から力が抜けてしまったような感覚に襲われる。目の前の光景は、あまりにも現実感を損なって見えた。

 嘘だと信じようにも、否応なしに身体から体温を奪っていく雨の感覚だけが、やけに生々しい。

「イゼルっ」

 遅れてやってきたウィアードが、呆然と立ち尽くすイゼルの冷えた身体に頭からコートを被せ、唸るように呟く。

「――なんてことだ」

 イゼルは、従兄の存在に気付いても、振り返ることさえできなかった。

 ああ、心配して追ってきてくれたのかと。まるでもう一人の自分の声のように、思う。

 そうして身動きもせず、ただ、聴いていたのだ。

 こんな嵐のなかにあって、まるで陽だまりの中のように穏やかな声を。



 愛しい子よ……



 それは最初、ティタの笛に宿った声と同じに聞こえた。

 その柔らかな声が、風の中に響く。

 いや、少し違う。そうではない。

 イゼルは意識を集中する。

 それは、ここに集まるあらゆる想いの結晶だ。

 笛に宿った声が教会を感化したのか、もしかしたら――本当は、その逆だったのか。

「……あぁ……」

 イゼルは、寒さのせいばかりでなく、震えていた。

 その、余りにも悲しく、穏やかで、美しい旋律に。

 愛に溢れた、切ない想いに。

「どうして!?」

 堪らず、イゼルは叫んだ。

「村の人達は、ここを見捨てようとしたのに! なのに、どうして犠牲になってまで守ろうとするんだっ?」

 吹き荒ぶ風は、少年の声など一瞬で巻き取って、空高く掻き消してしまう。

 木々は悲鳴を上げ、花壇の花も千切れんばかりに揺れている。

 その中で、まるで歌うように響く、柔らかい調べ。

「この村の人達は、この声を聞くこともできないのに……」



 愛しい子よ……

 わたしの……愛しい村



 風は、いよいよ強くなる。

 煽られてよろめいたイゼルを支えたのは、ウィアードの腕だった。

「しっかりしろ。お前がそれをしなきゃ、誰ができるんだ」

「……ウィアード」

「ティタちゃんに、なんて言う? ここに何かの想いがあるなら、それを伝えてやれるのはお前だけなんだぞ」

 怒鳴るでもない、そのいつもと変わらない口調に、はっとする。

 イゼルが顔を上げると、ウィアードは動揺など微塵も感じさせない笑みを浮かべていた。

「お前にしかできないから、意味があることなんだ。――俺も、ここにいるから。最悪の場合、二人で仲良く風邪ひいて寝込むさ」

「……うん」

 頷いたイゼルは、礼拝堂を見つめながら、そっと呟いた。

「だから、僕を呼んだんだね……。ここを一番大事にしているティタに、わかってもらいたくて」

 その後不意に、風が弱まった。

 雷鳴は相変わらず続いていたが、それもいくらかは遠のいたような気がする。

 そして、イゼルは――ウィアードさえも、感じた。

 不思議な安堵感と、包み込むように温かな安らぎが、周囲に満ち足りていくのを。

 小さな小さな光の粒が、周囲を覆いつくすようにして溢れていく様を。

 祈りを姿にしたらきっとこんなふうに違いないと、イゼルは思った。




 翌朝は、前日の風雨が嘘のような晴天だった。

 ティタはベッドから飛び起きると、大急ぎで着替えをし、家を飛び出した。

 前の日から教会のことが気がかりでならなかったのだが、あの雨の中を外出することを、両親がどうしても許してくれなかったのだ。

 雷が近くに落ちたのは、窓が震えるような轟音と閃光とでわかった。どうしようもない不安でほとんど眠れない夜を過ごしたが、もう居ても立ってもいられない。

 晴れ渡った空はどこまでも澄んで、道路に残る水溜りが、いっそ恨めしかった。

 まだ夜が明けたばかりの村には小鳥達のさえずりが響き、いつもと変わらない朝を迎えようとしている。

 その中を、ティタは願いながら走った。

 どうか、何事もありませんように――。

 切実な願いと、期待と、不安とが、まるで昨日の嵐のように、胸の中で駆け巡る。

「……あ……!」

 そして、息を切らせて教会に辿り着いた途端、ティタは戸口から先に足を進めることができなくなった。

 目の前に見えたのは、半分ほど残った礼拝堂の壁と、崩壊した屋根、そして黒くすすけている柱だったのだ。

 花壇は踏み荒らされた後のように滅茶苦茶で、ほとんどの花が土にまみれて横たわっていた。

 目に鮮やかなのは空の青と木々の緑だけで、崩れ落ちた礼拝堂は、まるでずっと昔からそうだったかのように、ただ静かに雨水を滴らせている。

 両目を見開いたまましばらく動くことのできなかったティタは、緩々とした動作で、どうにか花壇まで歩み寄った。

「なにが……あったの……?」

 雷が落ちたのだと頭の端では認めながらも、そう問わずにはいられない。

 これが夢だったらいいのに。

 もしも次の瞬間飛び起きて、それが暖かいベッドの中だったら、どんなに救われるだろう。

「――神様」

 濡れた地面の上に跪いたティタは、祈るように両手を組む。

「どうして……」

 それ以上は、突き上げるような嗚咽に紛れて、言葉にならなかった。

 どっと涙が溢れ出す。そしていったん涙が溢れると、それは後から後から止まらない。

 服や足が濡れてしまうことも構わず、ぺたりと座り込んでしまったティタは、声を上げて泣き出した。

 どこから溢れるのか不思議なくらいの涙が顔中を濡らし、嗚咽で呼吸もうまくいかない。しゃくりあげながら泣きじゃくり、どうしたらいいのかわからない悲しさと憤りとで、頭の中がいっぱいになる。

 優しい牧師様に、いろんなことを教わった場所だった。

 新しい両親に引き取られた場所だった。

 たくさん泣いて、それ以上に笑って過ごした場所だった。

 なにより大切で、心の支えだったのに。

「……ど、してよぉ……」

 診療所に変わることを、一度は仕方がないと思った。けれど、残してもらえることになって、どれだけ嬉しかったことか。

 そうだ、診療所に変わってしまうのなら、まだ取り壊されてもよかったのだ。こんな無残な姿になって、こんなふうに突然に、滅茶苦茶に崩れ去ってしまうくらいなら。

 昨日までの希望が、今日は悪夢に変わってしまった。

 ついにはうつ伏せてしまったティタは、今日が世界の終わりだとさえ思った。

 いつも笑っていなさいと諭していた牧師様だって、こんな日に笑えなんて言うはずもない。

「――ティタ」

 躊躇いがちに掛けられた声に驚いて、ティタは涙と鼻水と泥とでぐしゃぐしゃの顔を上げる。

 いつの間にやってきたのか、イゼルがすぐ隣にしゃがんで、こちらを覗き込んでいた。

 柔らかそうな琥珀色の髪が、朝陽に透けている。薄く微笑んでいる表情が、こんなときだというのに、やっぱり天使みたいに綺麗だと思う。

「イ、ゼル……どうしよ……。こ、んな……な、ちゃった」

 嗚咽で言葉がうまくしゃべれない。おまけに、きっとひどい顔をしているに違いないと思ったが、どうしようもなかった。

 イゼルは小さく頷いて、しゃがんだまま空を見上げる。

「きみに、ありがとうって……言ってると思う」

「……え?」

「姿は消えてしまっても、ここにはティタや牧師様や……それから村の人達が忘れてしまった思い出が、たくさん残っているんだ」

 優しい語り口が、ウィアードに似ていた。

「雷は、この礼拝堂に呼ばれて落ちたんだよ。他の場所に……大事な畑や林檎の木や、広場の噴水や、誰かの家に落ちてしまわないように」

「ほ、んと……に?」 

 滅茶苦茶に蹂躙されてしまったように見える礼拝堂が、自らそれを望んだというのだろうか。

 ティタには、そんなことが本当にあるのかどうか、わからない。それでもイゼルの言葉は、不思議なほどするりと胸に染みていくような気がした。

「ティタがここを大好きなように、ここは村が大好きなんだ……だから」

 それが本当だとしたら、なんて嬉しいことだろう。そして、なんて悲しいことだろう。

 絶望した心がほんの少し明るくなり、そして別の痛みを覚える。

 ティタは、イゼルがするように、視線を上のほうへ向けた。そのまましばらく気持ちを落ち着けて、ようやく声を絞り出す。

「わ、たし……壊れてしまっても……やっぱり、好き。ここが……大事なことには、変わりない、わ」

 降り注ぐ朝陽の中で、ティタはしっかりと意識した。

 目の前の姿が消えてしまっても――それは、とても悲しいことだけれど、この場所に詰まった気持ちは、決して失われることはないと。

 そればかりか、感謝しなくてはならない。

 見守られていたことを。

 この場所には確かに、柔らかくて穏やかなものが息づいていることを。

「見て。この花は、昨日の雨にも負けなかったよ」

 花壇の一角を指差して、イゼルが言った。

 それは、一番最近に植え替えた、白い花だった。

 真っ白な花びらの上に、小さな雫が透明な玉を作り、そこに空を映している。

「ほら、ティタが一生懸命育てた花は、まだ生きてる。全部なくなってしまったわけじゃないんだ」

「うん……」

「それからこれも。――箱は焦げてしまったけれど、笛は無事だったよ」

「……あぁ……」

 さっきとは違う涙が、ティタの頬を伝って落ちた。




 陽がすっかり昇った頃、教会には村人達の多くが集まっていた。

 誰もが最初に言葉を失くし、次いで溜息を漏らすか、仕方がないと諦めるような言葉を吐いた。

 ほとんどの村人にとって、ここはわざわざ足を踏み入れる場所ではなくなっていたというのに、いざそこが無残な姿になると、まるで大事なものを失ったかのように重い空気が漂う。

 かつての教会が診療所に変わるという話は知れ渡っていたが、予想外の事態には誰もが戸惑い、そして互いに顔を見合わせ、目を伏せた。

「牧師様がいらした頃は……」

 そんなことを言い出したのは、誰からだったろう。

「俺は、壁の修理をしたことがあるんだ」

「昔は古いオルガンがあったんだがねえ……」

「隣町のバザーのときには、ここにお菓子やなにかを持ち寄ったものだわ」

 人々の口から零れる声は、最初は小さな囁きに過ぎなかったが、次第にそれはざわめきへと変わっていく。

 イゼルとティタは、そんな人々の様子を、少し離れた場所から見つめていた。イゼルは村人達がどんな反応をするのか見守りたかったし、ティタは何かを祈っているようだ。

 そんな中、音を響かせて馬車がやってきた。

「村長さんだわ」

 ティタが小さく呟いたとおり、しばらくして声と姿が現れる。

「ちょっと通しておくれ」

 村長は言い、それに続いて、帽子をかぶりステッキを手にした紳士が、村人達の間を縫って登場した。

 周囲のざわめきは再び、囁くような小声に変わる。

「……非常に残念だ」

 人の輪から礼拝堂のほうへ進み出たグランダート医師は、不機嫌にさえ聞こえる声で呟き、帽子を取った。そうして黙祷を捧げるように俯く姿に、イゼルとティタは息を呑む。

 村人達は、今度こそ静まり返った。

 誰が先導するでもなく、人々は医師に倣い始める。やがてしんと静まり返った周囲には、さわさわと揺れる木の葉の音と小鳥の声が、いつもと変わらずに流れ始めた。

「やっぱり見かけよりいい人ね」

 囁くように言ったティタが、涙の乾いた目を輝かせて笑った。

「きっと、悪いようにはならないよ」

 イゼルは自信を込めて答える。

 実際のところ、グランダートは非常に紳士的だった。まだこの村の住人となったわけではない彼だが、村長と共に村人を指揮し、廃屋同然となった礼拝堂を片付け、礼拝堂のあった場所を整備して人々の憩いの場となるような庭園にすることを提案したのである。そうして当初の予定通り、この敷地内に診療所を建てることを決行した。

 一見堅物で不機嫌極まりなく、少々気難しいところのある医師の提案を一番喜んだのは、ティタだった。

「わたし、これまでで一番張り切って花壇を作るわ」

 彼女自身が高からと宣言したばかりでなく、村中の手の空いた少女や婦人に混ざってイゼルも駆り出される羽目になったが、これまで村人達とほとんど接触を持たなかった楽器屋の居候の身としては、よい機会になったとも言える。

 また、新しくやって来た医者を受け入れると同時に、村人達は、この庭の中央に白い木造の塔が置かれることを喜んだ。それは大人が一人立って入れるくらいの小さなものだったが、その屋根の造りが失った礼拝堂と酷似していたこと、そして以前にはなかった鐘がその天辺に据えられたことが、話題を呼んだ。

 小さな金の鐘は、『慈しみの鐘』と名づけられることになった。この場所を一番大事にしていたティタが、村長から頼まれてそう決めたのだ。

 ティタが三日ばかり、散々頭を悩ませて決めたものだと、イゼルは知っている。

「ありきたりだと思う? 牧師様がね、慈しみの心を忘れてはいけないっておっしゃっていたわ。わたし、ここにあるのはそういう気持ちだと思うの。イゼルはどう思う?」

「僕は……僕も、そうだと思う」

 本当はティタが決めたのならそれでいいと思ったが、そのまま言うのも無責任な気がして、イゼルはそう答えた。

 イゼルは、感覚を単語と結びつけることが苦手だ。口に出してしまったら最後、どうにも本来のものと違うように思えてしまう。

 そもそもティタのことも、少し変わった女の子だという認識はしているのだが、それがはたしてどういうものなのか、よくはわかっていないのだった。

 おしゃべりで元気がよくて、普段のイゼルときたら、その勢いに気圧されてしまうことも少なくない。それなのに苦痛に思えないばかりか、ティタの言うことは、ときどきびっくりするほど受け入れやすい。

 こういう感覚をどういう言葉で言うのか、やはりイゼルにはよくわからなかったが、それに名前を付けてしまうのは少し怖かった。――言葉にすることで、違うものになってしまったら嫌だから。




 まったく新しく建築された診療所の外観の完成と当時に、庭に建てられた白い塔に鐘が取り付けられることになった。

 礼拝堂が雷に打たれてから、ふた月近く経った日のことである。

 この晴れた午後の日、村人達のほとんど全員がこの庭に集まった。誰もがその鐘の初めての音を聴こうとして、耳を澄ませる。

 『慈しみの鐘』は、その先にぶら下げられた紐を引っ張ると、音が鳴るようになっている。

 長く長く伸ばされた紐を、村中の小さな子供達が同時に引っ張った。

 カランカラン、と高い音を響かせて、鐘が揺れる。それは低すぎず、かといって耳障りに高い音でもない。どこまでも澄んだ、軽やかで透明感のある、優しい音色だ。

「いい音! 素敵だわ」

 イゼルの隣で、ティタが小さく手を叩く。

「名前にぴったりだと思うよ」

「ほんと?」

「とても綺麗な音だと、きっと誰もが思ってる」

 頷いたイゼルに、ティタは本当に嬉しそうな顔をして笑った。そして、周囲を見渡した後、あっと声を上げる。

「――見て。きらきらして、とっても綺麗」

「うん」

「でも、イゼルは何もしてないのに?」

「これは僕じゃないよ。僕が笛を吹かなくても……気付こうとさえ思えば、わかるんだ」

 鳴り止まぬ鐘の音と共に、周囲には、人々の明るい笑顔が広がっていく。

 その上に降り注ぐ、小さな光の粒。

 きらきらと満ちて、色とりどりの花を咲かせた花壇にも人々の頭上にも、降り注ぐ。

「おかーさん、みて」

「ぴかぴか、きらきら」

 小さな子供たちが、最初に歓声を上げた。

 顔を見合わせる大人達の中にも、幾つかの声が上がる。その声は次第に大きくなり、やがて庭全体を覆いつくしていった。



 天上から降る――柔らかな旋律。



「素敵。わたし、この日が記念日になると思うわ」

 ティタが、妙に自信たっぷりに言う。

 イゼルは、そうなるといいね、と微笑んだ。


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