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蒼天の詩~いつか空の下~  作者: 叶 響希
6/8

 イゼルが教会で作業夫達を追い返してしまった翌朝、空は鉛色をしていた。

 少し肌寒い教会の庭には、柔らかい音色が響いている。この日は、途切れ途切れな音色はない。――まだ、ティタがやって来る前のことだ。

 小さな光の粒が、灰色の朝陽の中で揺れている。少年の緑がかった銀髪が、ふわりと舞い、旋律を奏でる笛は、そこだけ朝陽を集めて放ったかのように淡い黄金色をまとっている。

 それは、前の日の乱暴を謝罪するための、償いと癒しの音色だった。

 イゼルは、どうしても自分の行為を謝罪したかったのだ。ただ、ティタにそれとわかるのも少しばかり照れくさかったという事実もあるし、完全に陽が高くなってしまうとこの姿が人目に触れてしまう危険もある。そういうわけで、早朝に家を抜け出してきたのだ。

 前の日、日暮れ間際になって戻ったイゼルに、ウィアードはほとんど何も言わなかった。不良少年のお帰りか、と嫌味でも叱るでもない口調で言ったくらいだ。まあ、罰として十日間の皿洗い当番を言いつけられたが、大抵の場合、普段からそれはイゼルの仕事だったのだから、あまり意味があるとも思えない。

 教会の敷地内を漂う空気は、透き通った旋律と光の粒とを隅々まで運び、周囲を満たしていく。

 そうして、イゼルは感じていた。

 この場所に息づく、とても清らかな、祈りにも似た想い。それは、ティタに少し似ていた。あの、しゃべりだしたら止まらない少女の心の中はきっとこんなふうに違いないと、そう思ったら妙に楽しい気持ちになる。

 人の気配を感じたのは、そろそろ陽も高くなった頃だった。

 誰かが木戸を開ける、軋んだ音が響いたのだ。その小さな音に気付いたイゼルは、すぐさま演奏を止め、身構えるようにして神経を尖らせる。

 身を隠すべきかと逡巡したが、逃げるのもおかしい。結局、その場をほとんど動かないうちに、その人物は姿を現した。

「笛を吹いていたのは、きみかね?」

 神経質そうな声の主は、痩せた紳士のものだった。煙突のような黒い帽子と黒い上着、蝶ネクタイをしていて、手にはステッキを持っている。気難しそうな目元をしていて、鼻の下には髭があった。

 イゼルはこういう風貌の人物を初めて目にしたが、村の人ではないということは、直感する。

「……おじさん、誰?」

 緊張しながら問いかけると、紳士は両方の眉をぴんと跳ね上げて、じろりとこちらを見た。

「わたしのことを知らんのか?」

「……僕は、この村に来て、あまり日が経たないから」

 とりあえずの返答に、紳士はあまり関心のないような顔のまま、簡単に自己紹介をした。

「わたしはこの場所を買い取った者だ。医者をしていて、グランダートという。きみは何者だね?」

「僕は、イゼルといいます。……この村の楽器屋に、住んでいて」

「では、先ほどの笛の音は、やはり」

 まるで問い詰められているような気分で、イゼルは頷いた。ティタが言っていたお医者様というのは、この人物だったのだ。

「あれは……鎮魂歌かね。いや、それとも子守唄か」

 呟くようなそれが質問か独り言なのかわからずにいると、グランダートの声は少し大きくなった。

「なんという曲だね?」

「曲名は……ありません。僕が、勝手に吹いているだけだから」

 すると気難しい紳士は、ほう、と頷いて、最初よりは関心を持ったような目つきでイゼルを見た。

「ここに恐ろしい魔物がいるという噂を、聞いたことがあるかね?」

 途端にイゼルの心臓が大きな音で跳ね上がったのは、その魔物呼ばわりされたのが、昨日の自分のことであると察したからだ。

「……いいえ」

「そうだろう。魔物が棲むには、ここは穏やか過ぎるというものだ。あの者達は仕事を放り出す口実に、そんなでたらめを言ったに違いない。そうでなかったら、ここに一体何があるというのだ」

 後半はほとんど独り言のようである。

 この気難しそうな医者は、昨日の事件を聞いて真相を確かめに来たのだろうか。わざわざ確かめに来るくらいだから、よほど他人が信用ならないか、もしかしたら見かけによらず好奇心が強いのかもしれない。

「あの……この教会を取り壊してしまうのを、やめてほしいんです」

 それは、イゼルの口からほとんど無意識に飛び出した言葉だった。これを逃せば二度と直接話ができないかもしれないと思ったら、次の瞬間には口を突いて出ていたのだ。

「昨日、ここを取り壊しにきた人達を追い返したのは、僕です。ちょっと脅かしてやるつもりで……。それは、謝ります。だけど……ここを、壊してほしくなくて」

「――なるほど。ではきみが魔物の正体というわけか」

 じろりと睨まれて、イゼルはおずおずと頷いた。

「この場所は穏やかだと、おじさ……グランダートさんが感じたのは、それは、この場所に心があるからです。この場所を皆が好きだった気持ちと、それに応えようとした教会の気持ちと……」

 説明しながらも、段々と不安になり、そしてもどかしくなる。生まれた村にいるかぎり、わざわざそういう感覚がどういうものであるか、イゼルはこれまで誰かに改めて伝える必要はなかったのだ。それは、見えることや聞こえることと同じように、自然な感覚なのだから。

 ただでさえ、話をするのは得意ではない。初対面のうえ、鉄のように硬い顔つきをした人物に自分の想いを伝えることは、とても難しいことだった。

「しかし、ここはこのように放置されている。村人達は誰も、もう近付こうとさえしないと聞いたが?」

「それは……でも……ティタは、違う。この教会を大事にして、掃除や花壇の手入れもちゃんとしているし……」

 ほとんど圧倒されつつも、イゼルはなんとか反論する。すると、グランダートは面白くもなさそうに、唇の端を片方だけ持ち上げた。

「ここの村長から、昨日になって打診があった。できれば、この教会の姿を残す方向で工事を進めることは無理だろうか、と。だが、ここを大事にしているのは、その娘くらいだろう。ひとりの娘のために工事の計画が狂ってしまうのは問題だ。違うかね?」

 それは、問い詰めるような口振りではなかったのだが、即席の正義感を萎えさせてしまうほどには、十分に辛辣な言いかただった。

 咄嗟に何も言えなくて、イゼルは唇を噛む。

 村の中でも村の外でも、人生経験のある大人達は、ときどき意地悪だ。まるでこちらの魂胆を見抜いた上で、当たり前のように持論を振りかざす。

 イゼルにとってそれは、正論ではあり得ない。しかし、この紳士の言葉が外の世界の正論なのかもしれないと思ったら、どうすればいいのかわからなくなってしまった。

 こういうときに、やけに強烈に思い知らされるのが、やはり自分はこの世界とは違う人間なのだということだ。

 わかってもらえないことのもどかしさは、憤りよりも悲しさに変わる。

「人は……忘れてしまうけれど、思い出すこともできるから。この場所が村の人達にとって、心の休まる場所だったことを……この教会は、まだ覚えているから」

 だからこんなにも、優しい気持ちになれる。

 そして、少し悲しくて寂しい、柔らかな切なさを覚えるのだ。

 誰にとっても懐かしい穏やかな時間を、そのままつなぎとめているような――。

 気まずい沈黙の間に、グランダートはついとその場所を離れ、礼拝堂のほうへと行ってしまった。

 イゼルは、どうしたものかと途方に暮れながら、視線を手元に落とす。そして、少し迷ってから笛を構えた。

 柔らかい音色が、再び周囲に響き始める。ただし、それは草木への謝罪を込めたものとは違っていた。今はただ、このもどかしさを表現する術が、他になかったのだ。

 旋律は、敷地内に柔らかく響き渡る。

 草木と対話するのではなく、人の心に通じるよう祈りながら、想いを込めて笛を吹く。

「……奇妙な少年だな」

 やがて、呟くような声でイゼルは我に返った。

「また近いうちに、その笛の調べを聴かせてもらおう」

「あの……っ」

 いつの間にか礼拝堂から戻って来た紳士は、そのまま教会の外へ向かって歩いていってしまう。

「柱はしっかりしているようだ。修理は必要だが、礼拝堂は待合室くらいにはなるだろう」

「……あ、ありがとうございますっ」

 慌てて礼を言ったが、それに対してはまったく反応はない。半ば呆然と背中を見送ったイゼルは、ほとんど信じられない気分で、礼拝堂を振り返った。

「……よかった」

 自分にもできることがあると、そう思ったら少し、誇らしかった。

 きっと、これでティタも喜ぶ。

 少女の笑顔を思い浮かべた瞬間、その本人の声が、背後から凄い勢いで突進してきた。

「今の、グランダートさんじゃないっ?」

 さすがに驚いたイゼルだが、その不安と期待をぐちゃぐちゃに混ぜたような表情に、思わず笑みが零れる。

「おはよう、ティタ」

「お、おはよう。ねえ、イゼル、今のグランダートさんでしょ? わたし、馬車とすれ違っただけだけど、ここから出て来たみたいだったから。何かお話した? この教会のこととか……」

 いつもよりも早口になるティタに、イゼルは笑って告げた。

「礼拝堂は残してくれるって」

「本当っ? 嬉しい!」

「見かけより、ずっと優しい人だね」

「すごいわ、イゼル。すごい!」

 ティタはイゼルの手を取ると、すごいを連発して飛び跳ねる。

「夢みたい! イゼルのおかげね。わたし、本当に嬉しいわ」

「僕は何も……。ティタが、村長さんにかけあってくれたからだよ」

 両手をぶんぶんと揺さぶられながら、イゼルも嬉しくなった。

 それは、生まれ育った村を出て初めて感じた、誰かと気持ちを共感できる喜びだったかもしれない。

 イゼルの中にあった頑ななこだわりの一角が、氷のように溶けた瞬間でもあった。




 店の楽器の手入れを一通り終えたウィアードは、愛用のヴァイオリンを手に取る。

 イゼルがやってきてからはあまり弾くことがなくなってしまったが、これを奏でている間が、実は一番安らぐのだ。

 今朝も早いうちからどこかへ出掛けてしまった従弟は、教会に行っているに違いない。あの古ぼけた場所に、イゼルはこの村に来たときから惹かれているようだ。――それがどういうものであるのか、ウィアードには本当の意味で理解してやることはできないのだが。

 だから、ほうっておいてやることしかできない。ささやかな苛立ちを、見せないようにして。哀れに思う気持ちに、気付かれないようにして。そして、自分自身のやるせなさには蓋をして。

「……やれやれ」

 雑念を追いやるようにして、ウィアードは首を振り、弓を構えた。

 このヴァイオリンは、天奏樹から作り出したものだ。イゼルの笛と同じに、ウィアードにとっては一番身近な楽器でもある。

 違いは――そう、ウィアードはこの調べに応える受け皿を、生まれつき持たないということだけだ。無邪気に懐いてくるイゼルに、内心ではどれほどの嫉妬を覚えたかしれない。

 それを癒してくれるのも楽器でしかないところが、また複雑なところなのだが。

 緩やかに曲を奏ではじめたウィアードは、次第に無心になっていく。

 ほんのりと脳裏に浮かぶのは、故郷の風景だ。いつも演奏していた納屋の前の丸太や丘の上の景色が、するりと浮かび上がって、淡く弾ける。

 短い曲を三つばかり続けて演奏して、それからふと戸口に目をやると、いつの間にかそこにはイゼルが立っていた。

「なんだ……帰ってたのか。今日は早いじゃないか」

「雨が降りそうだし。それに今日は、ウィアードにも早く知らせたいことがあって」

 ここしばらくは見たこともないほど穏やかな雰囲気のイゼルは、珍しく笑みを浮かべている。

「その様子だと、悪い知らせじゃないみたいだな」

「あの教会の礼拝堂を、残してもらえることになったんだ」

「へえ、それはよかったじゃないか。ティタちゃんも大喜びだ」

 嬉しそうに頷く様子に、ウィアードは微笑ましい気分になる。自分にはわからない感覚だとはいえ、イゼルとティタのことを思えば、それはやはり喜んでやるべきことだ。

「お前やティタちゃんが悲しむようなことにならなくて、本当によかったよ」

 柔らかく言って、ウィアードは弓を置いた。

「もう、弾くのをやめるの?」

「え?」

 ヴァイオリンを棚へ戻そうとするウィアードに、イゼルは首を傾げるようにして、問い掛ける。

「だって……せっかく、久しぶりに聴けたのに。ここへ来てから、ウィアードはほとんど調弦のときくらいしか弾かないから」

「俺がお前に聴かせてやれる曲なんて、ないだろ。お前のほうがこいつの扱いは得意じゃないか。実際、俺はこいつの持ち主としては素質がないんだし……」

 言いかけておいて、しまったと口を噤む。いつもならもっと上手にかわすところなのに、つい本音のほうが先に出てしまった。

 いや本当は、腹立たしかったのかもしれない。イゼルが――天奏樹に選ばれたイゼルが、ずっと小さな頃と同じように演奏をねだることが、悔しかったのだ。

「ごめん……ウィアード。僕、そういう意味で言ったんじゃ……」

「――わかってるさ」

 うろたえるイゼルに、ウィアードは努めて穏やかな笑みを返す。

「そんな顔をするな。……悪かったよ、くだらないことを言って。それよりお前、何も食べずに行ったんだろう? 奥に準備してあるから、ちゃんと食べろよ」

 言いながらヴァイオリンを戸棚に戻すと、イゼルはようやく戸口からこちらに動いた。しかし、台所へ行くのではなくウィアードの背後に立つと、服の背中を下から軽く引いたのだった。

「……なんだ?」

 見下ろした視線の先で、イゼルは子供の頃と同じような上目遣いで、こちらを見ている。

 それは、他の子供達より言葉が出るのが遅かったイゼルが、誰かの関心を惹こうとして取っていた行動と同じだ。そういう妙な癖だけは、なかなか直らないものらしい。

「お前ね、言いたいことがあるなら口で言いなさいって、ばあちゃんによく言われてなかったか?」

 呆れて苦笑するウィアードに、イゼルはやけに真剣な顔つきになる。

「……ウィアードのヴァイオリンはとても幸せだよ……素敵な奏者に出会えて。もっと……いつも、弾いてほしいって」

「――え?」

「僕も、ウィアードの演奏が一番好きだ。嘘じゃないよ。一番、優しい気持ちになるから」

 言い残して、イゼルは今度こそ台所のほうへ行ってしまった。

 取り残されたような気持ちで、ウィアードはその場に立ち尽くす。いつの間にか立場が逆転してしまった、そんな気分だった。

 イゼルはいつも、後からついて来るような従弟だった。目の前で追い抜かされていくのが癪で、それでもそれを喜んでやらなくてはならなくて――比べられるのも、イゼルを嫌いになるのも怖くて、距離を置くほうがいいと思ったのだ。それは、村に戻らないと決めた大きな理由でもある。

 年月が経って再会したイゼルは昔とちっとも変わっていなくて、そのことに安堵したことは否定できない。そして、昔と同じ苦しさからは目を背けようとした。実際は、妙なこだわりを抱いていたのはこちらの勝手で、イゼルはただ、純粋に慕ってくれていたというのに。そんなことくらい、最初からわかっていたのに。

 内気で繊細な従弟の面倒をみてやれるのは自分だけだと、そう強く思っていなければ、なけなしの自尊心も自分の居場所も、簡単に奪われてしまいそうな気がしていた。

「……馬鹿だな、俺」

 呟いて、ウィアードは棚に戻したヴァイオリンを見る。

「本当に……俺に弾いてほしいと思っているのか?」

 当然、答えがあるわけではない。いや、聞こえるわけではない。

 しかしウィアードは、その艶やかな褐色の本体を撫で、そうして再び手に取った。

 緩やかな旋律が、小さな楽器屋に流れ始める。

 それはこの朝、しばらくの間途切れることはなかった。




 午後になって、村は雨雲に覆われてしまった。

 寝室の窓際に腰掛けたイゼルは、静かな高揚感の中にあった。充実感、と言ってもいいかもしれない。

 今朝、グランダート医師に「礼拝堂を残す」と言わせたことが、本当に嬉しかった。あのとき勇気を出して訴えたことが、自分でも誇らしく思える。

 実際は、あの気難しそうな紳士が見た目よりも心の優しい人だったことが幸運だったのかもしれないが、それでも、伝えようとすることを諦めなくてよかったと、心から思ったのだ。

 外の世界の人は自分のことをわかってくれることはないと、心の底で思っていた。

 誰かにわかってもらおうとするには努力が必要だということを、最初から諦めてしまっていたのだ――きっかけは、些細なことだったのかもしれないのに。

 そもそも、ティタとの出逢いがなければそんな気持ちにさえならなかったことを思えば、あの少女がするりと心の中に入ってきたことは、とても重要なことだったような気がする。

 そして、ウィアードのことも。

 今日になって、イゼルは初めて気がついたのだ。

 ウィアードの気持ちをわかろうとしたことあっただろうか、と。どうして自分の気持ちをわかってくれないのかと、そればかりを訴えて。

 今朝の彼の言葉は、きっと普段は口にしない本心だっただろう。

 もしかしたら、ずっと追い詰めるようなことをしてきたのかもしれない。

 何も気付かないで。気付こうともせず、甘えてばかりで。

「僕は……本当に、我侭だったんだ」

 改めて思い知ると、それがいかに残酷だったかということもわかる。

 そう、こんなふうに雨が降って木々が騒ぐ日、小さい頃のイゼルはいつもウィアードの側にいた。もちろん、従兄のことが大好きだったから。

 けれど、実際にはもうひとつの理由があった。

 ウィアードの側にいることで安心したのは、ウィアードが木々の声に惑わされることがないからだ。聞こえないが故に、恐れることもなく、動揺もせずにいられる従兄の側で、安心したかったからだ。

 いつも黙ってそれを許してくれていたウィアードは、もしかしたら、あの優しい笑顔の裏で傷ついていたかもしれないのに。

 そのウィアードが奏でたヴァイオリンの調べが、今朝のまま、イゼルの胸の奥に残っている。

 とても穏やかで、透明で、もしかしたら誰よりも蒼天の詩に近い音色。

 好きだと言えてよかった。楽器が喜んでいることを、伝えてあげることができてよかったと思う。

 それでウィアードが演奏を続けてくれたのだとしたら、やはり嬉しい。

「……よかった」

 呟いて、イゼルは微笑む。

 空に閃光が走ったのは、そのときだった。直後、轟音が村中に響く。

 びくりと肩を揺らしたイゼルは、思わず腰を浮かせると、そのまま慎重に窓の外を見上げた。

 空は、夜のように暗い。そして、空の上では低い唸りが繰り返されている。

 風が細い悲鳴のように鳴きながら、村中を駆け抜けていく。

 嵐になるような予感がする。

 ウィアードに、店を閉めるように言ったほうがいい。台所の窓も開けたままだったから、雨が降り込んだら大変だと、イゼルは急いで部屋を出ようとした。

「……え……」

 直後、イゼルは全身を硬直させて立ち止まる。

 風の悲鳴に混ざって、木々のざわめきと、教会の声が聞こえた気がしたのだ。

 弾かれたように顔を上げたイゼルは、慌てて部屋を飛び出した。

「どうしたイゼル、血相変えて」

「教会に行ってくる!」

 台所の窓を閉めていたウィアードが、驚いてイゼルの腕を掴む。

「外は酷い雨なんだぞ」

「だから、行かなくちゃならないんだ! 呼んでるんだ、僕を! 行かなくちゃ」

 腕を振り払って、イゼルは外へと飛び出した。

「イゼル!」

 呼び止める声が聞こえたが、それに応えることはできなかった。

 容赦のない雨が、頭のてっぺんからつま先まで降り注ぐ。顔にかかる雨粒を右手で拭いながら、イゼルは走った。

 鼓動が、痛いほどに高まっている。

「駄目だ、絶対駄目だ!」

 イゼルは走りながら、叫んだ。

 雨はいよいよ激しく打ちつけ、稲光は容赦なく雲の上で獲物を狙う。

 教会が見えたそのとき、一際激しい閃光と轟音が村中に響き渡った。

「……嘘だ……」

 それは、少年のささやかな誇りと、少女の願いが打ち砕かれた瞬間だった――。


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