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蒼天の詩~いつか空の下~  作者: 叶 響希
2/8

 村の朝は早い。

 澄んだ空気が村をゆっくりと浄化し、遠くの山脈から顔を覗かせた太陽が、山肌に影を移動させながら朝陽を届けてくれる頃には、村はもう動き始める。

 小鳥のさえずりと荷車を牽く音、往来で交わされる挨拶の声で、村のささやかな商店街は活気づくのだった。

 焼きたてのパンを籠に詰め込んだティタは、幾つかの店が建ち並ぶ通りを脇目もふらずに歩いていた。ともすれば、にやけてしまいそうな頬を引き締めつつ、駆け出しそうな足を早歩きにとどめておくのは、なかなかに難しい。

 実際、この少女を傍目で見ている村人には、よほど楽しいことがあって浮き足立っているようにしか見えないのだった。

「おはようティタ。最近は毎朝ご機嫌だな」

「おはよう、おじさん。だってほら、今日こそ何かいいことがありそうっていう気がするでしょ?」

 上機嫌で答えるティタは、勢い余って籠を振り回しそうになる右手を慌てて下ろし、小走りに広場のほうを目指す。

 小さな広場を抜けたところでティタは立ち止まり、前髪を撫でつけ、おさげ髪のリボンが捩れていないことを確認した。パン屋の娘だからといって、スカートには間違っても小麦粉やパン屑が付いていてはいけない。恋する少女のとしての、最低限のたしなみというやつだ。

「おはようございます」

 元気よく声を出し、ティタは広場の端に立つ小さな店の中を覗き込んだ。

 この狭い店の中は、楽器であふれている。ヴァイオリンやオルガン、太鼓や笛の類の楽器が、整然と居住まいを正すようにして並んでいるのだ。ほとんどが古い品なのに、どれひとつとっても埃をかぶったり汚れたりしていない。そのくせ店の柱には鳩が飛び出したままの鳩時計が飾ってあったり、出入り口のドアの取手が長いこと取れかかったままになっていたりするところに、店主のこだわりというか、いい加減さというか、ともかく不思議な風合が出ているのだった。

「あのう、パンを届けにきたんですけど」

 反応がないので、少し声を大きくして言ってみる。すると、店の奥からごそごそする音がして、やがて眠そうな顔をした青年が姿を現わした。

「ああ、ティタちゃん。いつもありがとう」

 両手を首の後ろに回し、琥珀色の長い髪を細い紐で器用に束ねながら、青年は人のいい笑みを浮かべる。まだ寝起きなのか、少しばかり危なっかしい足取りでティタの目の前までやってくると、代金と引き換えに籠の中のパンを受け取った。

「ウィアードさん、まだ寝ていたの?」

「駄目だね俺は。もうこの村に来て二年になるのに、まだ朝が早いのは苦手なんだ」

 はたして本当に早起きをする気があるのかないのか、これはほとんどお約束の台詞である。

 ティタは愛想笑いを浮かべたまま、期待を込めた目で店の奥を窺った。

「ええと……イゼルは?」

「ああ、あいつは……」

 言いかけて、ウィアードはひとつ欠伸する。

 しゃんとしているときは柔和な二枚目と呼べる顔立ちなのだが、寝ぼけ眼と欠伸ではそれも落第というものだろう。ティタは少々の呆れと無念さから「もったいない」と思うのだが、当の本人はそういうことを気にする性格ではないらしい。

「俺が起きたときにはもう見かけなかったな。そのうち帰ってくるとは思うけど、伝言なら聞いておくよ?」

「う、ううん、いいの。ちょっと訊いてみただけ」

 がっかりした気分を悟られないよう、ティタはことさら明るく振舞った。大きく膨らんだ期待の泡は、今朝も膨らむだけ膨らんで、弾け飛んでしまった。三日連続この調子である。

「ねえティタちゃん、もしかしてイゼルに何か大事な用事でも?」

「そ、そんなことないわ! ええ、ないったらないのよ、気にしないで」

 こちらを覗き込むような質問に飛びあがったティタは、両手を顔の前で勢いよく振りながら、大急ぎで否定した。

 なにより、顔を見ることができたら嬉しいの。お話できたらきっと幸せだわ。だってわたし、彼に恋しちゃったんだもの――などと、さすがに本人にも告げていない想いを、その同居人に言えるはずもない。

「毎度どうもっ」

 バネのような勢いで頭を下げると、ティタは逃げるように店を出た。

 広場の途中までを全力疾走し、くるりと振り返る。

「……危なかったわ。思わず本音が出そうになったもの」

 早い鼓動と荒い呼吸のまま胸を撫で下ろしたティタは、それでもこの恋の行方に、大きな希望と夢とを感じて疑わないのだった。

 ただでさえ、平和なことが取り柄で他には何もない村の生活なのだ。これくらいの刺激は、神様だって許してくれるに違いない。

「明日の朝こそ会えるかしら?」

 そう簡単には挫けないところが、ティタの長所である。

 少しばかりの落胆を新しい希望に変えてしまえば、鼻歌だって出てくる。

 ――恋する少女に怖いものなどない。

 ティタの見上げる空も、陽の光も、彼女の味方だった。




「俺に嘘を吐かせてまで、あの子に会いたくないわけ?」

 脱兎の如く走り去った少女を見送って、ウィアードはのんびりした口調で頭を掻く。

 店の奥からの反応は、ない。

「ティタちゃんって、可愛い子だと思うけどね。そりゃあ、すごく美人なお前の母上には負けるかもしれないけど、あれで愛嬌もあるし、いい子だよ」

 返事を期待していないので、彼の口調はあくまでも独り言の延長にある。

「お前にその気がないのなら、俺があの子と仲良くなっちゃうぞー」

 調子に乗って言ってみたものの、それでも反応がないことに馬鹿馬鹿しくなって、ウィアードは吐息した。

 十日程前に転がり込んできた同居人は、綺麗な顔をしているくせに極端に愛想が悪い。言い換えれば、人付き合いが好きでない。ついでに従兄の立場から言えば、可愛げがない。それでもこの自分は懐かれているほうなのだと理解しているのは、イゼルが少なくとも嫌いな人間の家に居座る芸当など、できはしないと知っているからだ。

「……やれやれ。こんな無愛想なお子様が長の直系とはね。お前、わかってる? お前には、単に世の中を学ぶだけじゃなくて、嫁を連れて帰る義務もあるんだぜ。第一に、人付き合いの方法っていうのを、一度体で覚えたほうがいい。お前が大事な弟分でなかったら、俺は三日で追い出してるぞ」

 少々乱暴なことを言いながら、ウィアードは店の奥にある台所に足を踏み入れた。

 実は家主よりも先に起きていたイゼルは、テーブルの上に両肘をつき、その上に頭を乗せた姿勢のまま、だんまりを決め込んでいる。

 そうやっていると、透き通るような水色の瞳の効果も手伝って素晴らしく美少年だというのに、あまり感情の浮かばない整った容姿というものはどこか冷淡で、近寄りがたいばかりか、場合によっては傲慢な印象を与えるものだ。

 本人の意図しないところで、そういう印象のほうが先走ってしまうのが世の常だということを、一族の暮らす村を出たばかりのイゼルは知らない。

「朝食にしよう。このパン、焼きたてだぞ。裏のおばさんが卵を分けてくれたから、今朝はちょっとだけ豪華だな」

「……僕が迷惑なら、出て行くから」

 ようやく返ってきた台詞が、これである。悪意があって言っているのではないとわかっていても、憎たらしいことこのうえない。

 ゲンコツのひとつでもお見舞いしてやろうかと思うウィアードだが、四つも年上だという自負と余裕とで、笑みを崩さないでいることには成功した。

「ほんっとうに、可愛くないな」

 自分より少し色合いの薄い琥珀色の髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜて、ウィアードは脇に挟んでいたパンをテーブルの上に置き、椅子に腰を下ろした。

「イゼルは卵担当な。朝っぱらから居留守の片棒を担がされた俺としては、食事の支度くらい要求してもいいと思うぞ」

 人差し指を顔の前に突き出して言うと、イゼルは二、三度瞬いた後、素直に席を立つ。

「……オムレツでいい?」

「ああ」

「ハーブ入り?」

 こちらを見るイゼルの顔に、薄い笑みが浮かぶ。微妙な口角の角度の違いで印象は随分と違い、十五歳という年齢に見合った顔つきになるから不思議だ。

「そういえば、ばあちゃんがよく作ってくれたよな。ハーブ入りのオムレツって」

 二人に共通の――つまり父方の祖母は、孫達に手料理を食べさせることが生き甲斐なのだ。ウィアードが村を出る四年前まで、食卓には頻繁に祖母の手料理が並んでいたものである。

「どうして、村に戻らない?」

 珍しく自分から話しかけてきたイゼルに、ウィアードは両手を頭の後ろで組んだ姿勢で首を捻った。

「なんだ、やっぱり俺がいないと寂しいのか?」

 少しだけ意地悪な言いかたに、イゼルは卵を割る動作を淡々と行いながら、何も返さない。

 しばらくの沈黙の後、ウィアードは苦笑する。

「……ごめんな、イゼル。俺、嘘吐きで」

 せっせと手を動かしていた少年は、このときばかりは顔を上げ、それから目を伏せた。

 やがて、焼きたてのパンとハーブ入りオムレツの朝食が、小さなテーブルの上に整えられる。

 空腹をくすぐる香りの向うに強烈な懐かしさと少しの諦めを見て、ウィアードはこっそり吐息し、イゼルに感づかれる寸前、感傷を笑顔の下に追いやった。




 ティタの日課は、村外れの教会へ出掛けることである。

 大抵は早朝の時間に訪れて、掃除をしたり小さな花壇の手入れをしたりするのだが、日によっては一日に二度訪れることもあった。二度目に訪れるのは午後のことが多く、朝にやり残した仕事をすることもあれば、単に息抜きで立ち寄ることもある。

「今日は礼拝堂の掃除をしないと」

 箒と雑巾を手に持って、意気込みは、薄く積もった埃などなんのその、だ。

 こうしてティタが手入れをするからこそ、この教会はかろうじて廃墟となるのを免れている。

 ティタは、物心ついたときには教会に住んでいた。この教会を管理していた牧師が亡くなった七年前――八歳の頃まで、ここが彼女の家であったことは言うまでもない。だから、ここを少しでも綺麗にしておきたいと思うのは、思い出の場所を愛する気持ちが大きかった。

 さらにティタは、この場所に小さな秘密を隠している。

 教会の小さな礼拝堂はもう随分と古いのだが、ぽっかり開いてしまった掌ほどの壁の穴に、箱に入れた宝物をしまっているのだ。

 宝物の正体は、横笛の形をしている。両手の拳を横に二つ並べたくらいの長さしかない短い笛は、木を削ったもので装飾もなく、古ぼけて骨董の価値すらない。しかも、いくら手入れをして練習をしても、一度として音が出たことがないという、ガラクタ品である。――ただ、どうしても手放せず、つい手に取ってしまうというだけで。

「……あの子なら、吹くことができるかも」

 掃除の途中、壁際の床に跪いて箱の中身を取り出しながら、ティタはそっと呟いた。

 そう感じることに、根拠はない。ただ、イゼルならばそれが可能だったとしても、きっと驚かない気がした。なんと言っても、彼はあんなに不思議な音楽を奏でることができるのだから。

 ティタは、自分でも不思議なくらいに、あの不思議な少年のことを違和感なく受け入れている。一瞬は天使かと思った緑がかった銀色の髪も、小さな光の粒も、全部夢のようだと思う一方で、あれが間違いなく現実だったということも認めているのだ。

 イゼルが楽器屋のウィアードの同居人だと知ったときは、驚きよりも嬉しさのほうが何倍も大きくて、会話のきっかけを見つけたいがために、この十日ばかり毎朝パンを届けたりしている。実際は会話をするどころか、目下、顔も合わせてもらえない連敗記録を更新中なのだが、そんなことで簡単に諦めたりしないところがティタの売りだ。

「きっとこういうのを、運命の出会いっていうんだわ」

 口元を綻ばせながら笛を箱の中に戻し、ふと我に返って箒を片手に立ち上がる。

「ああいけない、今日は夕方までにここを片付けて、店に戻らなくちゃならないんだった」

 勢いよく箒を振り回すと、埃は容赦なく舞い上がって、途端に咳き込む羽目になる。

 涙目になりながら扉に駆け寄ったティタは、こちらに向かって走ってくる馬車を見つけた。幌のない荷台のような馬車だが、それでもこの村では高級な乗り物だ。

「村長さんだわ。一緒にいる人、誰かしら?」

 首を捻りながら、ティタは馬車に目を凝らす。

 村長は一張羅の上着を着込んで、幾分か緊張しているように見えた。

 頭はすっかり白く、小柄で丸みを帯びた体型と大きな声が特徴の村長は、ティタが物心ついたときからずっと村長をしている。保安官のいないこの村では彼が全権を握っていて、ティタがパン屋に引き取られることになったのも村長のお陰だし、村の広場を子供達の遊び場として許可したのも村長だった。村人は彼を信頼しているし、ティタももちろんその一人だ。

 隣町の方角からやってきた馬車は、この教会の前の道を通って村の中心部へ行くと思われた。しかし、馬車はティタの目の前で止まる。

「こんにちは、村長さん」

 扉の前に立ったまま、ティタは声を掛けた。

「やあティタ、お前さんはここが本当に気に入りだね。家の仕事は、ちゃんと手伝っているかい?」

「もちろんよ。わたし、ちゃんと父さんや母さんの言いつけは守っているわ。今日は午前中に洗濯と掃除を済ませて、店番と針仕事をこなしてきたのよ」

「よろしい。懸命に働くことは美徳だよ」

 人好きのする顔に笑みを浮かべてもっともらしく頷くと、村長は続いて馬車から降りてきた中年の男のほうを振り返った。

「どうですかな、この場所は? もともとは見ての通り、教会だったんですがね。牧師様が亡くなって、おまけに隣町に立派な教会ができてしまったものだから、今ではもうこの有様で」

「……うむ」

 厳めしい顔をした紳士は、まるで値踏みするように敷地を見回す。彼は、都ではどうか知らないが、少なくともこの村ではひどく目立つ風貌をしていた。

 煙突のような黒い帽子に黒い上着、胸元には同色の蝶ネクタイ、縦縞模様のズボンにぴかぴかの革靴、さらに右手には長いステッキを持っている。痩せ型で三白眼、鼻の下の口髭はハの字を描いていて、その下にある薄い唇がなんとも神経質そうだった。

「この娘は?」

「ああ、この子は村のパン屋の娘でしてね。お転婆ですが、この教会を今でも大切にしている気立ての優しい子で」

「ええと……あの、こんにちは」

 村長に背中を押し出されて、ティタは慌てて挨拶をする。

 気難しそうな紳士は、じろりと視線を動かしただけで、すぐに興味をなくしたように花壇のほうへと歩いていく。

「あのかたはグランダートさんといって、お医者様なんだよ。ここを買い取ろうとおっしゃっていてね、今日は下見というわけなんだ」

「ええっ?」

 幾分申し訳なさそうに言う村長の言葉に、ティタは持っていた箒を取り落としそうになった。

「この教会を、売ってしまうの?」

「いや……ティタには申し訳ないが、ここはもう、誰も使う者がいないし。それに、この村には医者がいない。グランダートさんがここで開業してくれたら、村の者はわざわざ遠い町まで医者を呼びにいかなくても済むんだよ」

 わかっておくれ、と言う村長に、ティタは咄嗟に何も答えられなかった。

 村長の言っている意味が、ちゃんと理解できるからだ。いつも、村で病人や怪我人が出たときには、医者を呼びにいくにも医者に診せにいくにも、楽ではない。それが急なことであればあるほど、そうなのだ。もしもこの村外れの教会が診療所に変わったら、村人の負担や不安が軽くなることは間違いない。

「じゃあ……この教会は、取り壊されてしまうの?」

 問い掛けたティタの肩を、村長は丸々とした手で、慰めるように軽く叩く。そうして彼は、紳士のほうへ歩いていった。

 何事かを話しながら歩いている二人を呆然と見つめながら、ティタは心の中で急速に広がっていく空洞を意識した。

 いつか、こんな日が来るかもしれない。――七年間、少女が覚悟していた現実である。

「……掃除、しなくちゃ」

 なるべく平常心を保ちながら、ティタは呟いた。

 きゅっと口元を引き締めて、箒を握り締める。

 ひとつ深呼吸をすると、その唇にはいつものような明るい笑みが浮かぶ。そして、何事もなかったかのように礼拝堂の中に戻った彼女は、せっせと床を掃き始めた。

 村に医者が住むということは、歓迎すべきことに違いない。それでも、あの気難しそうな紳士がこの村を気に入るかどうかわからないし、教会を取り壊すかどうかもわからないのだ。

 どうなるかなど、きっと神様にしかわからないだろう。

 ティタに今できることは、少しでもここを丁寧に磨きあげ、いつもと同じようにこの場所を大切に想うことだけだった。


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