第8話
1941年春、連合国軍の地上からの攻勢は再度、始まりました。
勝ち馬に乗ろうという伊の参戦の動きを受け、夏までにはドイツ全土を占領しよう、と連合国軍はドイツ全土における攻勢を行ったのです。
ドイツ陸軍は勇戦敢闘し、一部では日本海兵隊6個師団を包囲殲滅できるのでは、という戦果を挙げたのですが、幾らドイツ陸軍が精鋭でも、米英仏日伊波蘭白等の連合国軍を迎え撃つのには、ドイツ陸軍の兵力が圧倒的に劣勢なのは否めません。
また、友邦、同盟国であるソ連も、極東戦線が劣勢となっていることから、自国を優先に考えて、物資の提供等はまだしも、援軍をドイツに送ろうとはしませんでした。
こうしたことから。
補給の問題等もあり、断続的に連合国軍の攻勢が止まることはありましたが、基本的には連合国軍の攻勢の前にドイツ軍は押される一方となりました。
こうしたことから、1940年の夏にはトップ船長が住んでいたブレーメン市は連合国軍の一角をなす英軍の占領下に置かれることになり、トップ船長とその家族は英軍の占領下にある街で暮らすことになりました。
そうなるまでに、戦禍による被害を少しでも避けようと、トップ船長は家族を連れて右往左往する羽目にもなりました。
トップ船長自身には、何とも皮肉なことに息子はおらず、妻と娘2人が家族としていました。
(なお、トップ船長のご両親は第二次世界大戦前に病死しており、ご兄弟とは様々な事情により、トップ船長とは疎遠な間柄でした)
そして、娘は2人共、当時10代後半から20歳前後といった年代であり、トップ船長にしてみれば、連合国軍の兵士の毒牙に独身の娘が掛けられては堪らない、と心労のタネになる年代だったのです。
妻も40歳代になったばかりで、そちらもトップ船長にしてみれば心労のタネでした。
そして、連合国軍の攻勢がそれで止まるはずもありませんでした。
1941年9月初め、ドイツの首都ベルリンは、連合国軍により、終に完全に陥落しました。
かつて、平和の祭典として、1936年にベルリンオリンピックの開会式等が執り行われたベルリン・オリンピアシュタディオンは、連合国軍の空襲被害に加えて、この時のドイツ軍と連合国軍の銃砲撃等による戦災被害もあり、このベルリン陥落時には、半ば瓦礫の山と化した惨状を晒したのです。
ベルリンオリンピックから僅か5年余りで、このような事態が起きたことに、それをその時に伝え聞いた世界の多くの人々が、余りの時の流れの激しさとそれがもたらした悲劇に涙を零さざるを得ませんでした。
更にベルリンのみならず、ドイツ全土やワルシャワを含むポーランド西部、チェコ、オーストリアも連合国軍の攻撃によって、その占領下に置かれることになりました。
そして、ポーランドやチェコの亡命政府は、祖国帰還の段取りを進めたのですが。
その一方で。
ドイツのヒトラー総統は、自らの後継者としてハイドリヒを指名していました。
また、ハイドリヒはソ連への亡命に成功していました。
そして、ハイドリヒは、ソ連への脱出を果たしたドイツ人(主にドイツ軍の将兵が中心となってはいました)や、既にソ連に住んでいたドイツ系の住民を糾合して、亡命政府の民主ドイツ政府を、スターリン率いるソ連政府の後援の下で、樹立することに成功しました。
1941年秋の時点では、まだまだ世界の平和は程遠い有様だったのです。
その頃、トップ船長は思いがけない話を聞き、心から驚く羽目になっていました。
何と北ドイツ・ロイド社に、シャルンホルスト号を日本政府から返還する、という話が持ち掛けられてきた、というのです。
シャルンホルスト号が健在とは、トップ船長は驚きました。
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