第7話
そんな状況に、1940年春当時のシャルンホルスト号(神鷹丸)はあったのですが、トップ船長は、そんなことを知る由も無く、北ドイツ・ロイド社において、基本的には慣れない陸上の事務仕事を、暫くはせざるを得ませんでした。
何しろ、北ドイツ・ロイド社の最大の収益事業だった外国との航路は、戦時中である以上、今や存在しないと言っても過言ではありません。
また、北ドイツ・ロイド社の保有する船舶は、相次いで戦禍によって失われつつある、といっても間違いでは無い状況なのです。
従って、トップ船長の仕事も、陸上の事務仕事くらいしかありませんでした。
更に言うならば、シャルンホルスト号で長年親しんできた、ある意味、自分の子飼いの部下達の多くが、ドイツ軍に徴兵されていったことも、トップ船長にしてみれば、心配のタネでした。
戦場に赴くことで、当然、彼らの内の何人かは死んだり、完全に治らない程の怪我をしたりするだろう、どれくらいの部下達と、戦後に自分は再会できるだろうか、とトップ船長は考えざるを得なかったのです。
そして、第二次世界大戦の戦況の推移は、トップ船長の心労を高める一方となるのです。
1940年6月、ドイツの対仏侵攻作戦が発動され、併せてオランダ、ベルギー、ルクセンブルクとも、ドイツは戦争に突入しました。
順調にパリへの進撃をドイツ軍は果たし、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランスをドイツは制圧する予定だったのですが、英米日等の援軍を得たフランス、オランダ、ベルギーは、国土の一部をドイツ軍の制圧下に置かれたものの、果敢にドイツ軍と戦闘を繰り広げ、ドイツが確保できたのはルクセンブルクだけ、という有様でした。
そして、態勢を立て直した連合国軍の反攻が始まることになるのです。
米軍の来援を待ち、1940年秋、ライン河渡河を図る連合国軍の反攻が始まりました。
ドイツ軍は懸命に抗戦しましたが、1940年末、ライン河を何か所かで連合国軍は渡河することに成功することになり、ドイツ軍の西方防壁は崩れ去ることになります。
また、ドイツ海軍の状況は悪くなる一方であり、水上艦艇の多くをノルウェー戦で失ったドイツ海軍のとって頼みの綱だった潜水艦部隊は、米英日仏という世界の1位から4位までが集まった大海軍の前に苦戦を強いられた末、大西洋から徐々に締め出されて行くことになりました。
更にドイツの民間人の生活を苦しいものに変えたのが、連合国軍の戦略爆撃でした。
ベルリンをはじめとするドイツの大都市に対して、主にですが、昼間は米陸軍航空隊による、夜間は英空軍による戦略爆撃が実行されるようになっていたのです。
爆撃機単独によるものなら、まだそれなりにドイツ空軍も迎撃戦闘において勇戦敢闘を示し、連合国軍の戦略爆撃を苦しめることが出来たのでしょうが。
夜間はともかく、昼間は日本の誇る99式戦闘機が、連合国軍の戦略爆撃の際には基本的に護衛についており、ベルリン上空でさえ、悠々と99式戦闘機は編隊を組んで、連合国軍の爆撃機部隊の護衛をして、ドイツ空軍の戦闘機部隊を迎え撃つ有様でした。
そうしたことから、ドイツの大都市は相次いで連合国軍の戦略爆撃の前に大被害を被るようになり、更に連合国軍の航空部隊は、ドイツの鉄道や道路、内陸水路さえも攻撃の対象とするようになりました。
そう言った攻撃により、住民の多くが死亡したり、逃げ出したりしたため、ハンブルク市等は連合国軍が占領する前に半ば廃墟と化す有様だったのです。
トップ船長が当時、住んでいたブレーメン市も大同小異といってよい惨状を呈しました。
トップ船長は家族と共に耐え忍ぶしかありませんでした。
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