第4話
交換船とは何でしょうか?
戦争が始まってしまうと、当事者の国同士の国交は断絶となり、自由な国民の行き来ができなくなります。
そうした際に、敵国となった国の民間人の人が帰国する場合は、中立国を介して帰国を図ることになるのですが、言うまでもなく、日本は島国です。
そして、第二次世界大戦の際には、世界中の大国の多くが参戦しており、中立国は、スイスやスウェーデン等、数少ない存在でした。
そうした事情から、できることなら、中立国の民間の船舶を使い、中立国の領土を経由して、民間の人、今回の場合で言えば、ドイツの人達は、日本からの帰国を図ることになるのですが。
そう言った場合に使われる船のことを、一般的に交換船と言います。
今回の場合で言えば、結果的には、トップ船長らが帰国する際には、現在はモザンビークになっているポルトガル領東アフリカを介することになったのですが、そこまでは日本郵船の新田丸が用いられ、更に、そこからは中立国のスウェーデンの貨客船を用いて、トップ船長らは帰国することなりました。
ですが、直接の交渉ではなく、中立国を介する以上、交渉だけでも手間が掛かります。
結果的に、トップ船長らが、祖国ドイツに向けて新田丸に乗船できたのは、1940年3月になってからということになり、1939年のクリスマスや1940年のお正月は日本国内で過ごすことに、トップ船長らはなりました。
日本国内にいたといっても、別に犯罪者という訳ではないので、トップ船長らは、自由に外出すること等はできたのですが、そうは言っても敵国の人間ということで、日本人から白眼視されるので、基本的にトップ船長らは、何とか確保できた住居の中に引きこもって過ごしたのです。
更に船旅にも時間がかかります。
1940年3月に日本を旅立ったトップ船長らが、祖国ドイツの土を踏めたのは、同年5月に入ってのことになりました。
その間だけでも、第二次世界大戦の戦況は大きく変わって行っていました。
1939年9月、ポーランドに独ソ両国軍が侵攻し、更に満州等にソ連軍が侵攻することで、第二次世界大戦は始まりました。
ポーランド軍は徹底抗戦しましたが、所詮は多勢に無勢です。
首都ワルシャワが瓦礫の山と化すまで、ポーランド軍は抗戦を止めませんでしたが、結局はポーランド全土が独ソ両国軍の前に占領されました。
更にソ連軍は、満州にも攻め込み、その大半を制圧しました。
また、バルト三国やフィンランドをソ連は恫喝し、バルト三国は屈服の止む無きに至り、フィンランドは抗戦しましたが、結局はソ連の要求したカレリア地方の割譲を呑むしかありませんでした。
更に独ソ両国は、海空においても攻撃を行いました。
例えば、日本は、ソ連海軍の主に潜水艦を中心とする通商破壊作戦に苦しめられ、ソ連空軍は首都東京等への空襲を試みたのです。
日本軍は、これに果敢に立ち向かい、米英仏も日本を応援してくれました。
こういった米英仏の応援に応えようと、日本は海兵隊を中心とする遣欧総軍を編制して、欧州に派遣することにしました。
それに、今や拿捕されることで日本の船になったシャルンホルスト号、いや、日本の船になったことで、改名された神鷹丸と、この後は呼ぶべきでしょう、も関わることになります。
遣欧総軍の一員として、欧州に派遣されることになった日本海兵隊の輸送任務に、神鷹丸は従事することになるのです。
それは、ある意味、祖国ドイツと戦うことでもありました。
戦争における習いとはいえ、神鷹丸に心があれば、祖国ドイツを裏切ることになったとして、泣きたくなる事態ではないでしょうか。
そして、神鷹丸が心を痛めることは続くのです。
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