第3話
1939年9月に、第二次世界大戦は勃発するのですが、シャルンホルスト号にしてみれば、本当に戦争の嵐に翻弄されてしまいました。
余り知られていないことかもしれませんが、皮肉にも第二次世界大戦前に、ドイツ船籍で欧州から日本へと旅立った最後の貨客船は、シャルンホルスト号だったのです。
北ドイツ・ロイド社の他の貨客船で言えば、第二次世界大戦の危機が迫る中で、シャルンホルスト号の後を追って出航する筈だったグナイゼナウ号は、出航が見合わせとなり、ポツダム号は急きょ、日本からドイツに戻る途中だったのですが、速度を上げてドイツに戻ったからです。
他にも、この当時、ドイツ船籍で欧州と日本の航路に従事していた貨客船が無かった訳では無いのですが、結果的には、シャルンホルスト号が最後の貨客船となりました。
そして、このことが、結果的にはですが、シャルンホルスト号と妹船2隻の運命を分けました。
1939年8月16日、横浜港から神戸港を経て出航したシャルンホルスト号は、順調に航海を続けて、同月28日にマニラに寄港して、更に同日、出航していました。
更に、シンガポールに向かおうとしていたところ、無電で第二次世界大戦が勃発しそうだ、という悲報が飛び込んだのです。
トップ船長たち、シャルンホルスト号の乗組員は苦悩しました。
何しろ、今いる場所は南シナ海、その南シナ海に面している日米英仏全てが敵となりかねないのです。
敢えて言えば、近くのいわゆる蘭印、当時はオランダ領だったインドネシアが中立でしたが、そこまで無事にたどり着けるか、というと海軍士官だったトップ船長には、とても無理にしか思えませんでした。
そして、祖国のドイツは余りにも遠く、非武装の貨客船が、無事に帰国できる訳がありませんでした。
一部の乗組員は、ドイツの味方のソ連を頼ることを提案しましたが、トップ船長には、そうするためには対馬海峡なり、津軽海峡なりの突破が必要不可欠で、とても無理なのが分かりました。
多くの乗組員の意見を聞いた後、トップ船長は、船長として決断を下しました。
「神戸に向かい、日本にこの船と乗客、船員の運命を託そう」
トップ船長が、そう考えたのには、幾つかの訳がありました。
何よりも、この時に乗船していた乗客で、最も多かったのは日本人でした。
だから、乗客のことを最優先に考えるのなら、日本に戻ってあげるのが最善のように、トップ船長には思われたのです。
更に言えば、これまでの経緯から、日本とシャルンホルスト号には、それなりの縁があったことです。
その縁をトップ船長は信じることにしました。
そして、どこの港に向かうかですが、日本国内でシャルンホルスト号が入港したことがあるのは、神戸と横浜の2か所で、今いる場所でより近いのは神戸でした。
シャルンホルスト号は、トップ船長の決断に従い、神戸に向かい、9月2日に入港できました。
その時には、第二次世界大戦は始まっていました。
「申し訳ありませんが、シャルンホルスト号は、敵国の船として拿捕されることになります」
神戸港の担当者の返答は、トップ船長にしてみれば、予期していたこととはいえ、冷たいものでした。
「それは、ある程度は覚悟していました。私達、ドイツ人の船員や乗客はどうなりますか」
トップ船長の問いかけに、その担当者は答えました。
「今、スイスやスウェーデンを介して、交換船の話が進められています。その話が、まとまるまでの間、ドイツ人の方々は、日本で過ごしてもらうことになります。それ以外の日米英仏等の方々は、基本的には帰国していただくことになるでしょう」
担当者はそう言い、トップ船長らは従うしかありませんでした。
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