第2話
1935年にシャルンホルスト号が処女航海を成功させてから、1939年に第二次世界大戦が始まるまでは、トップ船長にしてみれば、本当に心から幸せな時でした。
それは、シャルンホルスト号自身や、その乗組員、利用者の人々にとっても同様でした。
1935年から1939年の間、シャルンホルスト号とその妹船、グナイゼナウ号やポツダム号は、基本的にですが、年4回、ブレーメンと横浜間の定期航路に就航していました。
そして、直接、この航路の間にある日本人やドイツ人のみならず、英仏蘭等、他の国々の人でも、この三姉妹の船は愛され、欧州とアジア、日本等の間の船の旅をするならば、是非ともシャルンホルスト号たち、三姉妹の船で旅をしたい、と大変、人気が高かったのです。
(この当時の船旅、定期航路においては、ブレーメンと横浜の間を直航せず、間にロッテルダムやシンガポール、上海等、途中に幾つかの寄港地があるのが、当然でした)
そうした当時の中で、もっとも有名なエピソードの一つが、ベルリンオリンピックでの話です。
ベルリンオリンピックに派遣された日本の選手の多くが乗船したのが、シャルンホルスト号でした。
この当時、日本郵船の新田丸級は竣工が間に合っておらず、それもあって、日本の選手の多くがシャルンホルスト号での旅を選んだのです。
更に、こんな小噺さえも産まれました。
ベルリンオリンピックで金メダルを獲得したサッカー日本代表の面々は、諸般の事情からシベリア鉄道経由でベルリンに向かったのですが。
もし、シャルンホルスト号でサッカー日本代表が向かっていたら、シャルンホルスト号での温かなもてなしの前に、戦意を鈍らせていただろう、そうなっていたら、金メダルは取れなかっただろう。
という小噺です。
誰が言ったのか、日本人が言ったのか、ドイツ人が言ったのか、何とも不明な話ですが。
それくらい、シャルンホルスト号での温かいもてなしが、評判だったことの一つの証となる話です。
ともかく、実際にベルリンオリンピックで活躍した前畑(兵藤)秀子さん達も、シャルンホルスト号でのこの時の船旅を快適なものだった、と回想しているのです。
そして、トップ船長はこの時も船長を務めていました。
1938年のワールドカップでは、サッカー日本代表を乗せて、フランスに送り込みたいものだ。
更に1940年の東京オリンピックでは、ドイツの選手団を乗せて、日本に送り込みたいものだ。
と、1936年のベルリンオリンピックで、日本の選手を乗せた際には、トップ船長は思い、内心ではそれを果たそう、と決意していたのです。
ですが、シャルンホルスト号、トップ船長、更に乗組員が、心の底から幸せだったときは、急速に終わりを告げようとしていたのです。
1936年にスペイン内戦勃発。
欧州の片隅で起きた内戦は、世界が二度目の大戦の劫火に包まれる前触れでした。
それが、ベルリンオリンピック開催直前だったのが、何とも皮肉な話です。
1937年には中国内戦が本格的に再開し、日本も参戦しました。
そのためにサッカー日本代表が、1938年のフランスワールドカップに赴くことはできませんでした。
この時が、トップ船長の心の中に本格的な影が奔った最初でした。
更に1938年になると、ドイツのオーストリア併合、ズデーデン危機、ミュンヘン会談、と欧州の危機は徐々に高まりました。
極東でも中国内戦は激化する一方でした。
トップ船長は、3年以上もシャルンホルスト号の船長を務めており、本来なら交代の時期が来ていたのですが。
こういった事情から、ドイツの人々の多くが軍人になっており、止む無く船長をそのまま務めざるを得ない状況でした。
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