第14話
そして、第二次世界大戦後のシャルンホルスト号にとって、最大の花道となったのは、1948年の東京オリンピックでした。
さすがに第二次世界大戦終結直後といえる1944年には、オリンピックは開催されませんでしたので、この時の東京オリンピックが、第二次世界大戦後初のオリンピックということになったのですが。
シャルンホルスト号は、この時にドイツの代表団を、ブレーメンの港から横浜港へと連れて行ったのです。
また、ドイツの代表団が帰国する際に乗船したのも、シャルンホルスト号でした。
この時のドイツの代表団の多くの選手、コーチが、シャルンホルスト号の姿に励まされ、東京オリンピックで、ドイツスポーツの国際大会復帰をアピールする活躍を果たすことが出来たのです。
また、これがトップ船長の最後の船長としての航海にもなりました。
1935年から、事実上は13年余り、トップ船長はシャルンホルスト号の船長としての職務を務めることになりました。
本当は、1944年にシャルンホルスト号が復活を果たした後、トップ船長は後進に道を譲り、地上勤務に移りたかったのですが、北ドイツ・ロイド社が、第二次世界大戦で多くの船と船員を失ったことから、後進をある程度、指導しないとトップ船長がシャルンホルスト号から降りる訳にはいかず。
また、船客からもトップ船長の人気は高く、何とか東京オリンピックの際の往復航海までは、船長を務めて欲しいとの多くの声が、北ドイツ・ロイド社に寄せられたためでもありました。
そして、更に歳月は流れました。
1964年、ドイツが完全に復興したことを記念して、ベルリンオリンピックが開催されました。
ですが、既に時代は船から航空機へと移り変わっており、かつてとは異なり、日本の代表団は航空機でベルリンへと向かう時代となっていました。
こうしたことから、客船の乗客も減っており、北ドイツ・ロイド社は、老朽化したシャルンホルスト号をベルリンオリンピック終了後に引退させることを決めました。
その情報を聞いたトップ元船長は、シャルンホルスト号の引退航海に乗客として乗ることにしました。
既に70歳を過ぎ、悠々自適の生活を送っていたトップ元船長は、愛妻と引退航海を楽しみました。
時が流れて、既にトップ船長の娘2人も結婚し、トップ船長にしてみれば孫を産み、それぞれの家庭を築いているようになり、トップ船長は幸せに包まれていました。
そして。
シャルンホルスト号が引退することが決まったことを知り、多くの外国の船会社が、シャルンホルスト号の購入を申し込みました。
確かに老朽化はしていますが、近海の貨客船等としては有効に活用できたからです。
しかし。
トップ元船長も加担しましたが、ドイツの多くの国民が反対しました。
もう2度と、シャルンホルスト号には、ドイツ以外の国旗を掲げてほしくない、とドイツの多くの国民が想ったからです。
かつて、1942年にブレーメンの港にシャルンホルスト号の汽笛が響き渡ったあの時。
その時のような想いをしたくない、と想う人が如何に多かったか、ということでした。
そして、その声はブレーメン市、いやドイツ政府も動かしました。
とはいえ、現実問題として、シャルンホルスト号の運航を続けては、北ドイツ・ロイド社の赤字が増えるばかりですし、かと言って、例えば、ブレーメン市で、記念船としてシャルンホルスト号を保存するとなると、博物館的存在として見学料をとったとしても、その収支は赤字の公算が高く、税金の垂れ流しになりかねないのが、調査の結果、判明しました。
そうした事情から。
ドイツ人らしい現実的判断と言われるでしょうが。
ドイツの人々は、シャルンホルスト号の解体費用の募金を行ったのです。
シャルンホルスト号には、ドイツの国旗を掲げたままで引退してほしい、という想いからでした。
その結果。
1965年4月30日、ブレーメンの港には、多くの人々が集っていました。
シャルンホルスト号の引退式典が、この日、執り行われたからです。
この引退式典の後、シャルンホルスト号は募金によって集められた解体費用により、解体されることになっていました。
余りにも多くの人々が参列したことから、ドイツ史上、いや世界史上最大の商船の引退式だった、という表現が為される程です。
そして、その式典にトップ元船長は招待され、参列していました。
トップ元船長は、文字通り、シャルンホルスト号の生誕からその最期まで、結果的にはですが、その全てを見届けることになったのです。
トップ元船長は、自分とシャルンホルスト号の生涯について、様々な想いが去来してなりませんでした。
どうにも言葉にならないまま、引退式が進められていくのを、トップ船長は見届けていき、引退式典が終わる瞬間。
「シャルンホルスト号に敬礼」
とトップ船長は思わず叫んだ後、無言のままで敬礼していました。
その瞬間、予定に無かったのに、多くの参列者が同様の行動を執って敬礼しました。
トップ船長を始め、多くの参列者が涙をこぼしており、その涙の熱で、肌が焼かれてしまう、と錯覚してしまう程でした。
トップ船長も、そして、多くの参列者も、この時に至って想ったのです。
余りにも言いたいことが多すぎ、どうにも言葉にならない。
こうした時、もっとも相応しい行動は、敬礼して無言のままで見送ることだ、と想ったのです。
そして、シャルンホルスト号は解体され、妹2人の下に逝くことになりました。
ですが、シャルンホルスト号の銘板は、解体後も記念として遺されました。
そして、その銘板は、北ドイツ・ロイド社の玄関に、ハバックロイド社の玄関に掲げられていくことになるのです。
トップ船長は、シャルンホルスト号の引退式典に参列した後、心の張りが切れたのか、急に病床に親しむようになり、1966年に病死しました。
まるで、あの世でもシャルンホルスト号の舵を握りたい、と思い立ったかのようでした。
これで、シャルンホルスト号とトップ船長のお話を終わります。
第二次世界大戦で、このような話があったことを、皆さんは忘れないでください。
戦争は軍人のみならず、多くの人を巻き込むのです。
これで完結させます。
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